特攻インタビュー(第1回) 後編
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- 特攻インタビュー(第1回) 後編 その11 (編集者, 2011/12/22 8:09)
- 特攻インタビュー(第1回) 後編 その12 (編集者, 2011/12/23 8:48)
- 特攻インタビュー(第1回) 後編 その13 (編集者, 2011/12/24 9:04)
- 特攻インタビュー(第1回) 後編 その14 (編集者, 2011/12/25 8:54)
- 特攻インタビュー(第1回) 後編 その15 (編集者, 2011/12/26 9:04)
- 特攻インタビュー(第1回) 後編 その16 (編集者, 2011/12/27 7:41)
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陸軍航空特攻 前村 弘氏(後編)その11
◆再び墜落事故に…(2)
--------(さくら弾機)は、間もなく飛び立って行ったわけですね?
前村‥飛び立って15~20分くらいは飛行場の周辺を飛んでいまして、30~40分も経った頃でしょうか、トラックや自動車がサイレンを鳴らしてけたたましく走って行くので、あれ?何ごとかと思いまして格納庫から飛び出したら、ふと滑走路方面に眼をやって驚きました。濃灰色の機体が傾いて横たわっているんです。「しまったっ、墜落だっ!」と思ったとたん、全身の血の気が引きましたよ。
70~80m先の滑走路には、オレンジ色をした腕状の爆弾がゴロンゴロン転がっていました。これが転がって、どっかで破裂したら大変だなんて思いながら、そのうちドッシリと停まりました。
簡単に破裂はしないものらしいですが。
すぐ走って来た自動車に私は飛び乗り、現場へ向かったのですが、すでに淀川曹長がかけつけていて、三沢伍長を引っ張り出していました。岡田曹長は下半身がほとんどエンジンの下になっていて、上体を出したままグツタリとしていました。顔は土色、生気がなく、軍刀が側に見えたので私は取り上げ、曹長を引っ張り出すべく上体に手をかけましたが、口唇がわずかに動いたように見えたものの、そのときは既に亡くなっておられたようでした。
三沢伍長は顔面や上体に激しい重傷を負っていました。幸い呼吸があったので救急車で近くの軍病院に運んだものの、その夜に息を引き取ってしまいました。同乗していた航空廠の整備員1人は即死し、1人は頭に軽傷を負ったのみで奇跡的に助かったと聞いています。
翌日は2人の遺体を火葬にして遺骨を抱え、旅館に安置しておいたんですが、我々は悪夢の様な出来事にマンジリともせず、とうとう一睡も出来ませんでした。
その翌日、淀川曹長は私たち2人を加えた6人と機材類を、1機しかない(と号機)で大刀洗まで空輸しなければならず、さすがベテラン操縦士淀川曹長も慎重で、我々一人ひとりの体重までも調べた上、計算を何度も繰り返しては離陸、飛行計画に余念がなかったようで、その姿は印象深く今でも心に残っています。
--------(着陸の失敗というより、液体燃料ということもあったので、ちょっとした接触で爆発したのでしょうか?
前村‥そうじゃないですね、爆発はしなかった。
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陸軍航空特攻 前村 弘氏(後編)その12
◆再び墜落事故に…(3)
--------機体のバランスをとるのが難しかった?
前村‥多分、そうです。バランスだと思います。何しろ爆弾が全部で2、900kgですからね。通常こういう(と号機)でも800kg爆弾2発で1、600kgですから、通常の標準機は800kg爆弾1発しか積めませんでした。重心が上にある状態で、爆弾を2、900kgも積んでるんですから、さぞかし操縦は難しかったろうと思いますよ。
--------もともと設計上から考えても、無理があったのでしょうか?
前村‥ええ、無理があったと思いますよ。それで、ここは (写真を見て)ベニヤ板でしょ、これもベニヤ板、これもベニヤ板……それで、操縦席に座ると、後方から覆い被さるような爆弾の置き方。直径が2mくらいの……しかも赤く塗ってあるような飛行機用の爆弾ですけれど。もちろんその爆弾を置くためには、燃料タンクを外さなきゃ置けないんですよ。だから、燃料タンクも満タンじゃなく、通常の飛行機の半分しか燃料積んでないわけですからね、普通の飛行機よりバランスが悪いんだと思います。そういう面では酷い飛行機でしたよ。もちろん機関砲も積んでないし武装無しですよ、全然。
--------(さくら弾)は、こういう爆弾だという説明は、事前にあったのでしょうか?
前村‥いえ、もう噂だけですよ。正式な説明は受けたことないですね。とにかく、これが軍艦に体当たりしたら前方3km、後方2km火の海になるというぐらいの噂や説明しか聞いたことありませんでしたね。だけど聞いてみると、ヒトラーから貰ったテルミット爆弾だとか液体爆薬だとかいう噂程度しか耳に入ってなかったですね。ヒトラーが日本にくれたことになっているみたいです。
--------この忌まわしい事故について、どう思われましたでしょうか?
前村‥思い出す度に考えるのは、岡田さんは機長として特攻出撃したものの、戦果を上げられなかったことに責任を感じ、悩んでいたんじゃないかということです。事故の予感もあって、試験飛行に直接関係のない航法や通信だった私たちを、とっさに降ろしたんじゃないかとね。もしそうなら、私と田中伍長は岡田機長に救われたことになります。今でもそう信じて疑いません。そう考えると、あの沖縄特攻のときにグラマンに体当たりしようと岡田機長が言ったとき、私は反対しなければ良かったのではと、今でも後悔することがあるんです。
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陸軍航空特攻 前村 弘氏(後編)その13
◆玉音放送を聞いて
--------ご自分の搭乗機が失われて、しばらくは……。
前村‥4月25日から、私はあまり乗る機会がなかったです。
--------特攻隊に渡す稼働可能な飛行機もなくなっていたのでしょうか?
前村‥ええ、ただね、4月末から5月になって、たしかパラチフスがはじまって、1カ月間隔離されていたから、それこそ訓練も何もないですよね。それで7月になって初めて訓練が始まったですね。
--------その頃には、筑波の方に戻られていたのですか?
前村‥ええ、その時は戻っていました。5月末か6月末に筑波に戻ったんです。
--------そしたら伝染病になったってことで、伝染病棟に入れられてしまったのでしょうか?
前村‥はい。
--------7月くらいに退院してまた復帰して、飛行機がなくてそのまま、ということだったのでしょうか?
前村‥そういうことですね。
--------そうすると、7~8月になると間に合わなかったんでしょうか?
前村‥もう7~8月は飛べる飛行機も少ないしね。7月半ば~7月末くらいから軍隊のご飯まで乏しくなってきたんですよ。それこそ、ご飯の米粒よりもジャガイモが多いというご飯を食わされてね、そういう状態が続いていましたね。
--------そうなってくると、空中勤務者も陣地構築や食料増産を始められたのでしょうか?
前村‥そういうことはやらなかったですね。ただ、飛行機があれば、3~4機ある飛行機を順々にまわして、鹿島灘の敵軍上陸に向けての飛行訓練は、やっていたみたいですね。私はあまり乗らなかった。航法はもういらなかったのでしょう、あの頃は……。
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陸軍航空特攻 前村 弘氏(後編)その14
◆玉音放送を聞いて(2)
--------そうしているうちに、終戦が訪れたのでしょうか?
前村‥そうです。
--------玉音放送はラジオか何かで聞かれたのですか?
前村‥ええ、半地下の兵舎がポッンポッンとある松林の中で、松の木にラジオを3つか4つ乗っけて、いくらか広いところが作ってありました。「集合」と号令をかけて、そこへみんな集まって、それで中隊長の命令でラジオを聞きました。ピーピーガーガー鳴るだけで、何を言っているのだかよく解らなかったです。勝った負けたなんていうことまで判断はできなかったですね。
--------それが終戦の放送だということは、その後に誰かが説明してくれて解かったのでしょうか?
前村‥中隊長だとか偉い人が私たちに説明する場面もなく、何となく終戦になったみたいだよっていうことだったんじゃないですかね。それで、あまりご飯も美味しいものが出ていなかったのが急に美味しいものが出るようになりました(笑)。ストックがあったんですね。
--------そこから前村さんが復員するまは、結構早かったのですか?
前村‥そうです。8月29日か30日にはもう復員しました。
--------長崎の方に?
前村‥はい。でも長崎は恐らく全滅だと……。きっと家もないし、親父もお袋もいないだろうと絶望していました。だからとにかくまず、熊本のお袋のじいさんばあさんがいる家に帰ろうと思いまして、真っ直ぐ熊本へ帰りました。熊本に帰ったら、ちょうど私の誕生日の9月2日に復員していたんです。しかも、そこに長崎から疎開していたお袋がいました。お袋も姉も妹2人も生きていたし、やっと家に帰ったぞ!という実感がしました。
--------お母様たちは疎開していたので、原爆の被害を受けなかったということですね?
前村‥そうなんです。一人だけ……私のすぐ下の妹が女学校に行っていまして、挺身隊で働いていたので被爆していました。熊本で1週間くらい経ったら、家に下宿している人が、長崎から熊本のじいさんばあさんの家まで連れてきてくれたんです。幸い近くの小学校が陸軍の病院になっていて、そこの軍医さんたちが、しょっちゅう往診して来てくれて、死ぬ間際のリンゲル注射とか、よくやってくれたらしいから……まあ、よかったんじゃないですかね。下の妹は1週間か10日経って熊本で死んでいるんです。
--------長崎に原爆が落とされたというのは、既に新聞か何かで知っていたのでしょうか?
前村‥はい。詳細は全然解りませんでしたけど、長崎には特殊爆弾が落ちたと。特殊爆弾というような表現でしたよ。
--------人によっては、例えば広島と長崎が出身地の人は、取りあえず直ぐに帰れということで、2~3日で復員させてもらったという人もいるようなのですが、前村さんの場合は、そのようなことはなかったのでしょうか?
前村‥それはなかったですね。
--------特攻隊で2回も出撃されて、戦争が終わり復員されて、社会もどんどん変わって行きましたが、気持ちの変化や揺れはありましたでしょうか?
前村‥1週間から10日経つと、やっぱり戦死しないで熊本に帰れてホッとはしたものの、男手が家族に誰もおらず、私1人だけ。さあ、どうやってこの妹やお袋を食わしていこうかなと、そういうことを一生懸命考えていたようですね。どこか心に空しい気持ちがありましたもので、今日はあそこのお寺で話があると耳に入ると、お坊さんの話を聞きに自転車で通いました。……何の話を聞いたのかはよく覚えていませんが(笑)。それから、荒れた畑をお袋と2人で開墾しサツマイモを植えたりしていました。
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陸軍航空特攻 前村 弘氏(後編)その15
◆若い人たちに伝えたいこと
--------戦友会の集まりとか、戦友の方たちと頻繁に会うようになったのは、戦後になって早い時期からでしょうか?
前村‥浜松の初年兵に入隊した頃のは、昭和37~38年くらいから始まりました。飛行第六二戦隊の戦友会は、昭和47年からです。主な戦友会は、これら浜松の初年兵に入隊した頃の戦友会と飛行第六二戦隊の戦友会がメインです。あとは戦友から誘われて航空碑奉賛会の世話役をやれということになり、理事をやりました。
--------当協会(特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会)でも熱心な活動をされていますね?
前村‥ええ。やがて特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会でも、世話役をやってくれと誘われまして、それからずっとお手伝いをさせて頂いています。多くの仲間が特攻で死んでいるだけに、慰霊祭だけは何はさておいても行くように心がけています。
--------やはり鹿屋や知覧の基地から特攻出撃した方々に対しても、現地の慰霊祭には頻繁に行かれているのでしょうか?
前村‥いや、私はほんの少々お布施を出しただけで、慰霊祭には行かなかったんです。鹿屋は海軍の基地で、鹿屋市が立派な慰霊碑と正式な案内板を作ってくれました。戦友が一人で鹿屋へ見に行ったんです。そしたら、碑に彫られた「近藤知康」という文字が、間違って”近藤和康″と彫られていることが分かり、修正するのに随分大変だったらしいです。
知覧は陸軍の基地ですが、飛行第六二戦隊はほとんど関係がありません。知覧から重爆は出撃していませんからね。だけど、飛行第六二戦隊の特攻で戦死した人の写真も、知覧特攻平和会館にいっぱい飾ってあると聞いていたので、一度それを見に行きましたところ、胸が一杯になって、しばらくその場から動けなかったことがありました。その後、知覧特攻平和会館の世話役の方と親しくなりました。今でもお世話になっている方がおられます。
--------最後にこれからの若い人たちへ向けて、これだけはみなさんに伝えたいということがありましたら、ぜひお願い致します。
前村‥今の人たちは、命を軽率に考えているのではないでしょうか。人の命は大事にしなければいけません。せっかく生まれたからには、明るく楽しく、他人の命も自分の命も同じように大切に生きる、それが一番幸せなことだと思います。人間独りじゃ生きられない、周囲の大勢の人のお陰で楽しく生かされて生きているんです。それを忘れてはなりません。
お互いに助け合って生きていることを、今の人たちは理解していないのではないでしょうか。自分の命を本当に生かしたいのなら、他人の命を生かす努力をすることです。自分を支える周囲の人々への感謝の気持ちを、どうか忘れないでいて欲しいですね。
--------今日は貴重なお話をありがとうございました。
(……了……)
「編注・当協会では、特攻に関連する史実とその精神を後世に伝承するため、特攻関係者の体験談等を取材し、記録することを企画し、有志会員による「特攻ライブラリー」を立ち上げました。特攻出撃の如何を問わず、特攻体験をされて九死に一生を得た方や、特攻出撃を待機された経験のある方で、映像と写真によるインタビュー取材を引き受けて下さる方を常時探しております。もしそんな貴重な体験をされた方がおられましたら、自薦他薦を問わず、協会事務局の大澤(03-5730-1016)までご連絡下さい。お持ちしております。」
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前村弘(陸軍特幹一期生)軍歴
1942年(昭和17年)12月
長崎市立商業学校卒業
1943年(昭和18年) 1月
東京都芝区三田住友通信工業無線工場入社
(現在港区三田日本電気株式会社)
1944年(昭和19年)4月20日
陸軍特別幹部候補生第1期生として合格
浜松第七航空教育隊三中隊入営
約3ケ月軍隊訓練と共に重爆撃機の整備について教育を受ける。
7月末頃
第二期生入隊に対し、1期生として3人が指導候補生として初年兵指導を担当。
指導教育は私に合わないと東京調布飛行場にて空中勤務者の試験を受け合格。
8月初旬
宇都宮飛行部隊航法学生として4ケ月教育を受ける。
一式双練で実地訓練・洋上訓練・天測航法などを学ぶ。
12月下旬
宇都宮飛行部隊航法学生としての教育修了。
西筑波基地にて陸軍飛行第六二戦隊へ転属。
戦隊の大部分は未着で1名の将校と下士官1名がいたのみで、約2ケ月近くやることもなく、ぶらぶらしていたこともあった。
1945年(昭和20年)2月末
飛行第六二戦隊の主力が南方から帰着するとともにキー67(飛竜)が2機3機と配属され、ほとんど操縦訓練主体であった。
ただし航法者も大半は搭乗していたが、航法訓練はあまり実施できなかった。
3月12日頃
主力約10機で大分海軍航空隊の基地へ移動。
艦船攻撃の目標での跳飛弾爆撃訓練がほぼ終日あり、実に猛訓練であった。
3月18日
早朝6時頃、米艦隊が接近して来て戦闘機により基地は猛爆を受け被害甚大。
我が戦隊でも半数ほどの機が犠牲になった。
約60~70名の飛行第六二戦隊の空中勤務者たちは一様に私物を空襲で焼失、丸一日食事も取れなかった。
3月19日
早朝、大分基地を出発、西筑波基地へ帰着。
昼頃、突然の集合命令で飛行場に行ったが、浜松南方沖の米機動部隊に対し出
撃命令あり、「攻撃ハ特攻トス」と黒板に記載されてあった。
攻撃機3機、戦果確認機1機(戦隊長・新海希典少佐自ら搭乗する)の誘導を
航法で行った。残念ながら4機中2機末帰還、2機は浜松基地と各務原基地に不時着した。
4月12日
沖縄戦に対して飛行第六二戦隊は特攻部隊に指定され出発、大刀洗飛行場に集結。
4月17日
飛行第六二戦隊から第一陣として特攻3機が出撃するも与論島付近で敵と遭遇し特攻失敗。
2機末帰還。搭乗していた機のみが燃料ギリギリで鹿屋基地に帰着。
被弾20~30発でよく飛べたものと降りてから冷やっとする。
5月25日
4機出撃(うち2機が<さくら弾>、2機が<と号機>)するが搭乗せず待機。
以上で飛行第六二戦隊の特攻攻撃は終了した。