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特攻インタビュー(第1回) 前編 その11

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通常 特攻インタビュー(第1回) 前編 その11

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/12/11 8:59
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 陸軍航空特攻 前村 弘氏(前編)その11

 ◆東海沖特攻出撃(昭和20年3月19日)

 前村‥やっと筑波に帰れたなあと毛布にくるまって布団に寝ていたら、午前10時頃「空中勤務者集合、直ちにビス下前に集合」と呼び出されました。行ってみたら特攻出撃命令でしょ。

 そのときの戦隊長は、有名なサイパン爆撃の功績(アスリート飛行場攻撃に於いてアメリカ軍機12機炎上、全機硫黄島に無事帰還) で天皇陛下に単独拝謁を仰せつかった新海希典少佐という方なんですが、この人が大分海軍航空基地で爆撃くってるときに、逃げずに椅子に座って敵機を睨みつけていたというエピソードを持った人なんです。

 この人が爆撃の最中に一式高練で帰ってくるんですが、飛行場で適当なところがなくて、代々木の練兵場に着陸するんです。そこで航空本部に出頭したら、六二戦隊は特攻出撃しろという命令を受けた。新海さんはそれに強く反対して、ゴチヤゴチヤやっていたみたいです(編注・最後は「やむを得ないので自ら先頭に立ち、特攻として突入する」と主張しだしたという)。
 結局、航空本部の言いなりになって、翌日3機の特攻機を出撃させたんですよ。新海戦隊長は釈然としないまま、自分の先祖代々の墓が桜上水にあって、そこでいとこが坊さんやっているというもんで、お墓参りをしたそうです。翌日立川へ行って、迎えに来いと立川まで一式高練で迎えに来させて筑波に帰って来て、19日の朝早く帰ってきた。帰ってきたらすぐ出撃命令を出したわけです。それで私が1番機の航法ってことになりました。

 新海さんは、やっぱり特攻に出すのは六二戦隊じゃ未熟だということで反対したんでしょう。そりゃそうかもしれません。とうとう新海さんも、自分も戦果確認機として行くというので、我々3機攻撃機の後ろをずっと付いてきたんですよ。
 そして、帰って来なかった。

 --------でも重爆機で戦果確認といっても、実際には命懸けですよね。

 前村‥そうです。命懸けだし、確認は取れていませんが、新海さんはその飛行機に250短の爆弾を積んでいたんじゃないかという話もあります。我々が体当たりをしたのを見て、自分も体当たりをするつもりだったのではないかと言われていますけどね。
 新海さんは、自分が特攻命令を出していたにも関わらず、航空本部では六二戦隊のあの日の出撃を特攻とは認めていないんですね。だから戦死しても特攻隊の戦死者のように2階級特進にはなりませんでした。本来なら大佐のはずなのですが。

 --------私も調べてみましたが、この3月19日の出撃は特攻の記録としてはないですね。

 前村‥ええ。だけど我々は大分海軍航空基地から帰って来て、「空中勤務者集合!」と呼び出され、慌てて飛行場に行ったら黒板に〝攻撃法ハ特攻トス″って、はっきり書いてあるんですよ。ここにある当時の写真に ”攻撃法ハ特攻トス″ の文字が黒板に書いてあるのが見えます。それでも特攻と認めていないんです。特攻であるかないかで遺族年金が違うし、本当に…、ご遺族の方にしてもお気の毒ですよね。

 --------3月19日の出撃は、前村さんとしては初陣となるのでしょうか?

 前村‥初陣ですね。












 (後編へ続く)

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