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通信士の敗戦余話 田中岩男

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2012/12/31 15:35
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 

 はじめに

 スタッフより

 この投稿(含・第二回以降の投稿)は「電気通信大学同窓会社団法人目黒会」の「CHOFU Network」よりの抜粋です。
 発行人様のご承諾を得て転載させて頂いております。

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 ~生立事件と菰睦飛行壕からの生還~ その1 田中岩男(旧姓大橋〉

 熱河省赤峰飛行場通信所の開設要員として、媛中飛行場に勤務していた昭和20年6月の始め、辺りにはアカシアの白い花房が頭を下げ、これから暑さを迎えようとしていた。そんな或る日、媛中飛行場通信所の閉鎖命令が下り、私を含む8名は赤峰飛行場へ展開することになった。赤峰はソ連国境とモンゴル国境に近く、ソ連軍進駐の噂があった。赤峰は満鉄の終点の駅で、駅の近くには満鉄の社宅が20軒程あり、各戸には15坪程の畑が用意されていた。

 駅前に公民館があり、その横に一軒の床屋があったのだが、そこの親爺は顔は髭だらけの面白い男で、人を見ると二言めには「頭を刈ろう」と怒鳴っていた。
 我々の宿舎は公民館で、小隊長は塩崎春男少尉殿、奇しくも私の出身地(和歌山県有田郡)の隣の日高郡の出身であった。
 隊員は軍曹2名(何れも第八航空通信連隊、牡丹江省寧安にある通称八航通から転属してきた)、伍長7名と兵隊15名くらいだった。

 毎日、隊長以下全員で宿舎から赤峰飛行場に向かって、8Km位先の通信所建設地へ通う。途中は砂漠のようなところで、偶に人家やアカシアの樹が散在する程度で殺風景そのものであった。通信施設は殆んど出来ていたので、一週間程で完成した。
 公民館でのゴロ寝生活から解放されて、公民館を出ることになったが、髭の床屋の親爺が一升瓶を下げてきて、「兵隊さん、俺にも召集令状が届いたよ。これから出発だ」と言って、皆で別れの酒を呑み回した。

 飛行場生活が始る前の6月上旬の或る日、公民館の隣の満鉄社宅の奥さんが駆け込んで来て「兵隊さん、兵隊さん、私達は昼の汽車で内地へ帰る事になったので、家を頼みます」と言って慌てて出て行ってしまった。昼過ぎに家人の居なくなった室内を覗いてみると、箪笥の引き出しは出しっぱなしで衣類は散乱し、食卓の上もご飯やオカズなども盛り付けたままで放置されており、かなり急いで出掛けて行ったようである。勿論、庭先の畑には、南瓜や西瓜、茄子、きゅうりなどの野菜なども実を付けたままの状態である。これでは満人に盗んで下さいと言っているようなものである。後で分かったことだが、慌しく乗り込んだ列車が最終で、その後の列車の運行はなかったのである。

 6月中旬の或る日、突然、鞍山から23機の戦闘機が編成を組んで飛来して来た。プロペラが3枚の新鋭機で、関東軍の虎の子の戦隊らしかった。
           
 飛行隊隊長(中尉)が段平(だんぴら)(刀)を下げて通信所へ入って来た。開口一番「ソ連の戦車10数台が赤峰に向って転進中である。我々はこいつ等をやっつけるが、お前達は早く逃げて帰れ。もう熱河省には兵隊はおらんぞ。日本は負ける。俺達は羽があるから日本の海岸に不時着出来るが、お前達はこんな山奥に居たらソ連の戦車にやられるだけだぞ」と。塩崎少尉は直立不動の姿勢で聞いていた。私達も<日本が負ける>と聞かされても俄かに信じがたく半信半疑だったが、これは大変な事態になったと思った。塩崎少尉は私に「戦闘隊との誘導通信を頼む」と命令した。

 戦闘機は毎日飛んだ。但し、3機は着陸時に脚を折り、また、飛行場開設の視察に来た某大佐が乗った民間機MCl型も脚の故障で飛行場に居座っていた。戦闘機はソ連戦車10台前後を撃破して戦果を挙げ帰途に就く。戦闘機の隊長は帰り際に、「誘導有り難う。俺達はこれから帰るが、お前達も早くここから引き揚げろ。ソ連の車が来るぞ」と言って飛び去った。8月上旬の暑い日のことだった。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/1/1 8:51
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 それから数日後、塩崎少尉から、15日午前中に大本営発表があるらしいから、短波のラジオ放送を聴くようにとの指示があり、通信関係者一同静粛に耳を傾けたが、ノイズが大きくて聴きにくく、放送の内容は良く判らなかった。その中で誰かが言った。「日本は負けた。敗戦だ」と。玉音放送だった。

 8月17日、塩崎小隊長は命令を受けに出掛けたが、その後、飛行場視察で見えていた大佐が指揮者となり命令を発した。「18日午後5時を期して、飛行場大隊及び派遣隊は玉砕する」と。

 俄かに飛行場の内外は騒々しくなった。と言うのは、関東軍の糧棟倉庫より食料品一切を放出したからである。滅多にお目に掛かれない外国産のウイスキーや酒類、なかなか手にする事も出来ない甘味品や将校用らしい高級タバコ等が含まれていたからである。
 私の通信卓上にも日本酒の一升瓶が2本並べられ、傍に居た金栗伍長が、「大橋(私の旧姓)一等兵、好きな酒でも呑んであの世とやらに行こうが」と苦笑いを浮かべながら私に言った。
 外では敵戦車、それに関東軍が組織した満洲国軍、満警が騒ぎ出し、危険が身近に迫って来ていたようである。「いよいよ助からんわい」と死を覚悟した。時に午後5時だった。

 鞍山に展開中の本部を呼び出した。しかし、いざ通信と言うことになって大分苦慮した。と言うのは、生文電報を打つと言うことは軍法会議では死刑を意味していたからである。しかし、柏崎教官の訓話が一瞬私の脳裏を掠めた。「タイタニック号事件が起きた時に、他船の通信士がもうーつ人命救護に対する熱意と機転があれば、もっと多くの人命が助かっていただろう」と。
 本部の通信室が出た。<さあ 打つか!> 覚悟を決めて生文で打電。「塩崎隊は飛行場大隊と同じゆうして、本日午後5時を期して玉砕す」と。電報形式を採らずBC形式で打電した。遂にやってしまった。幾ばくかの悔悟の念を禁じ得なかった。

 本部局より可待符号が入ったので待つことにした。その間に金栗伍長が、「テンノウへイカ バンザイ」を2回打電する。20分ほどして本部局から暗号電文が入電して来た。4つの数字が並んだ陸海空軍の共通暗号である。後ろに居た暗号解読担当の小野田上等兵に電文を渡す。彼はそれを解読して塩崎少尉に手渡した。塩崎少尉が電文を読んでから飛行場大隊本部長に持参した。電文の内容は「塩崎隊は早急に錦州通信所に撤退すべし‥・」ということであったようだ。

 塩崎小隊長が本部から帰って来た。部下の顔を見ながら「只今より飛行場大隊よりの命令文を通達する。飛行場大隊及び派遣隊全員は、本日午後3時に当飛行場から錦州に向けて撤退すべし」と命令を下した。私達は、脱出は難しかろうと思いながらも、通信機を運び出し貨物自動車へ積載の用意をする。

 全部隊の撤収準備完了は4時頃で、直ちに赤峰駅へ向かう。途中、敵の戦車砲や小銃などの攻撃を受ける。駅前の高梁(こうりゃん)畑の溝に沿って身を縮めて伏せの姿勢を取る。敵の攻撃を受ける中、塩崎小隊長の人員点呼が終わり、各自へ拳銃と弾丸5発宛てが支給される。私は高梁畑の中に入り込んで、金栗伍長から貰って水筒に詰めておいた酒をグビリグビリと呑んでいたら、私の肩を叩くものがいた。酒好きの東北出身の2名の上等兵だった。「俺にも一杯呉れ」と言うことで、3人で水筒の酒を回し飲みである。

 その時、塩崎小隊長から、「大橋一等兵、何処に居るか」と呼ばれた。私は慌てて「只今、小用中であります」と答えた。近くで高梁がビシッと折れる音がする。弾丸が頭上を掠める。<これは危険だ>と思い、急いで匍匐(ほふく)前進で隊列まで戻る。

 当部隊も重機、軽機、小銃、迫撃砲等で応射する。その時、大隊本部から伝令があり、「各自、携帯食、水筒、携帯品等を持ち、黒水方面に撤退すべし」との命令が下る。直ちに貨物自動車のガソリンで積載物等を燃やす。大隊本部を先頭に各部隊も移動した。途中、巾30m位の河があり、10m位の高さの堤防があった。敵戦車の進攻を阻止するために橋梁2ヶ所を爆破する。
 黒水方面へ向けて山嶺を歩く。途中に民家が散在するも夜のこととて通り抜け、林も樹木もない山嶺をひたすら歩む。一昼夜歩き続けていた時、鉄路が見えてきた。「黒水は近い」と思い、塩崎小隊長に尋ねると「未だ少し先のようだ」とのこと。兎に角逃げると言うことは思いのほかシンドイことである。後から敵が追いかけて来ないが?住民達の敗戦兵に対する仕打ちがあるのではないか?何しろ気持ちが悪い。やっと黒水に到着。鉄路に残されていた機関車は動くようだ。貨車も異常なし。塩崎小隊に、以前、機関車の仕事をしていた兵がおり、列車を運行することが出来た。


前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/1/2 8:18
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 8月21日、錦州駅に到着したのは午前9時過ぎ。駅舎より憲兵将校が左手に軍刀、右手に拳銃を持って走り寄り、我々に向かって「日本は負けた」と言って涙をポロポロと流す。その時、敵の機銃とか小銃が列車に向かって掃射して来た。当隊も重機と軽機で応戦すること10分で敵の攻撃は止んだ。

 部隊には錦州飛行場を知っている者はいない。塩崎少尉は、私が6月頃錦州通信所に勤務していたことを知っているので、「内の兵隊が道案内をします」と本部に申し出たが、先の憲兵将校が、「とても小部隊では行けない」と言った。止む無く「大橋一等兵、行け」との塩崎少尉の命令。これは困った。行く道順は街中を通ること、又、途中にある有名なラマ塔付近は戦中から至って治安が悪かった満人街である。そこを通らねば飛行場には行けぬ。赤峰では命が助かったが、ここで又死神に憑かれたかと思案を重ねた結果、鉄橋を渡って裏口より飛行場に行くことに決め、その旨隊長に報告する。

 塩崎隊長は「兵を2名付けてやる」と言う。兎に角、鉄橋を渡ることが肝要であるが、目下の状況では列車の運行時問が判らないから、途中で列車に遭遇しないよう運を天に任せるより他はない。川幅は約400m位あると隊長に報告する。塩崎小隊長の「頼む」と言う一言で軍服の上に便衣を着て拳銃一丁を私が携えて、3名が駅裏から密かに出て線路沿いに河に向かう。何となく不気味な家々の傍を通って鉄橋に辿り着く。列車は来ないかと前後を見たが、どうやら来る様子はなさそうである。「さあ、渡ろうぜ。途中で列車が来たらお陀仏だよ。その時は致し方ないだろう」と。

 列車の来ない中にと幸運を祈りつつ早足で渡り始めた。鉄橋の高さは20m位ある。枕木の隙間から下を覗くと水の流れが速く目が廻るようだ。身体が水流に吸い込まれるようで思うように足が進まない。漸くのことで橋を渡りきった。3名は顔を見合わせ「助かった」と安堵の胸を撫で下ろす。しかし、これからの前進が問題だ。

 幸い周囲は高梁畑ばかりなので身を隠すのには都合がよい。西北西と思われる方向へ向かう。細い農道、高梁畑の中を縫って進む。途中に一軒の家屋があったが、何とか無事にそこを通り抜けると飛行場の塔らしきものが見えてきたので先を急ぐ。幸い途中で誰にも遭遇することなく飛行場の裏付近に、やっと辿り着くことが出来た。

 私は錦州通信所に勤務の時は、ラマ塔の満人街を通って外出していたが、裏口があることは知らなかった。正に天佑であった。裏口に門はない。塀もなく、太い網目の鉄条網が張ってある。鉄条網を高梁の幹でアースしてみる。何事もない。「おい、行くぞ」と他の2名に目で合図して、私が先に鉄条網を乗り越える。

 通信所に到着し、熊谷少尉に「錦州駅に赤峰飛行場大隊が到着し、迎えを待っています」と報告する。熊谷少尉はびっくりして「お前達は玉砕したのではないのか……」と。「良し、これから本部部隊に報告するから、お前達は休め」と言われて、ヤレヤレ終わったかと思った。「大橋は幽霊と違うが。あんな生文で打電して来て、もう赤峰の部隊は生きている者はいないと思っていた。本部でもそう思っているかも知れんぞ」と熊谷少尉は続けて言った。

 こちらは命からがらやっとのことで辿り着いたのである。赤峰飛行場大隊及び派遣隊の全員がトラック輸送(機関銃積載)で錦州飛行場に到着したのは夕暮れ時だった。かくて赤峰部隊310人位の人命が、生文電報打電で錦州まで無事生還出来たことは、私にとっては敗戦の悲しみの中でも嬉しい出来事であり、些か誇りにも思った。同時に、軍隊がなくなれば、例え生文電報を打っても死刑になることも無くなると一抹の安堵感を胸にしたのであった。
 折から夕陽が地平線の彼方の空を真っ赤に染めながら沈もうとしている。私の胸も真っ赤に染まりつつ。
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