若ものに読んでほしい「この一冊」 

(期間:2010.4.1 - 2010.5.31)

若い方々へ
 4月、船出のシーズンです。進学、入社―――など様々な船出があります。しかし、乗りだす海は、逆風で波も荒いと思います。なかには、乗船する船が見つからず、やむなく港で待機しておられる方もあると思います。
 そんなとき、一冊の本が勇気を与えてくれるかもしれません。

シニアのみなさまへ
 子どもの時、若い時に読んだ一冊の本が、その後の人生に大きな影響を与えた・・・そんな一冊をぜひご紹介ください。ジャンルは問いません。漫画本などでも結構です。


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  • [No.98] ジャングル大帝 投稿者:男爵  投稿日:2010/05/09(Sun) 20:09
    [関連記事

    戦前「少年倶楽部」の名編集長だった加藤謙一が、公職追放され
    妻名義で興した出版社である学童社の「漫画少年」に
    1950年(昭和25年)11月号から1954年(昭和29年)4月号にかけて
    手塚治虫に描かせた古典的名作漫画である。

    当時の私は貧しかったため、この雑誌を祭の縁日で買ってもらった。
    たぶん、売れ残り品を安く手に入れた露天商が売っていたのであろう。

    それはともかく、この漫画は私に大きな影響を与えた。
    この漫画ではドイツの地理学者ウェーゲナーの大陸移動説を紹介している。
    大西洋をはさんだ南米大陸の東海岸とアフリカ大陸の西海岸が
    ジグソーパズルのようにぴったり組み合わされるということに気がついて
    地質学、古生物学、古気象学からウェーゲナーが大陸移動説を発表したのは
    1912年であった。

    当時は、そのメカニズムがわからず学会から相手にされなかった。
    そして、1950年代から1960年代にかけて、古地磁気学や海底構造の研究が進み
    大陸は移動しているという証拠が続々と見つかった。
    今では、マントル対流により、地殻の上のプレートが沈み込んだりするプレートテクトニクス理論が常識となり、地震の原因の説明もこれによって行われている。

    ジャングル大帝の描かれた時代は、まさしく大陸移動説が学会で再発見されつつある次期だったのですね。
    手塚治虫の最新科学を取り入れる才能と熱意はたいしたもの。

    漫画ではロマンを大切にして
    大陸が移動する力をアフリカの高峰ムーン山の石に求めている。
    ライオンの王レオを中心とし、その父母および子どもを含むドラマであるが
    レオたちがムーン山に上り大陸移動説の秘密にチャレンジすることで話のまとめをつけている。


    [No.97] Re: 自分のなかに歴史をよむ 投稿者:男爵  投稿日:2010/05/09(Sun) 19:34
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    唐辛子 紋次郎さん、こんばんは。

    > >貨幣経済がかなり普及した13、4世紀に作られたゴシック建築の柱や壁に、
    >  奇妙な姿の人間がお尻の穴から金貨を排泄している像が彫られているのがあります。
    >  たとえば、北ドイツのゴスラーの市場に面したギルドハウス(現在はホテル)の壁に
    >  このような像を見ることができます。これは貨幣を不潔なきたないものとみた、
    >  当時の知識人の感情を伝えたものといえるでしょう。

    阿部謹也先生の「中世の窓から」は何度も何度も読んだ本ですが
    そこに下記のようなことが書いてあります。
    少し長いけれど紹介します。(これらは阿部謹也了解のもとに私のHPで紹介していました)

    #12世紀頃からユダヤ人が正餐のパン「聖体」をけがしているとか、
    #泉に毒を流しているという噂も伝わり、いずれのばあいにもユダヤ人虐殺の口実
    #となっているのです。

    #聖餐のパンがユダヤ人によってけがされているという噂について、リトルは
    #次のように説明しています。
    #まず第一に聖餐のパンとぶどう洒がキリストの肉と血に変化するという化体説は、
    #1215年のラテラン公会議でようやく正式に認められたものですが、
    #この考え方には長い問疑問が絶えず、納得しない人びとの数は少なくなかった
    #といわれます。

    #キリスト教徒はユダヤ人が爪を聖体につきたて、聖体が血を流しているイメージを
    #つくりあげることによって、化体説に対する自分自身の意識下の疑いを
    #ユダヤ人に投影させたのだというのです。

    #リトルはキリスト教徒によるユダヤ人迫害はキリスト教徒自身の貨幣に対する
    #意識の反映だとみています。ユダヤ大衡が襲撃されたとき、しばしば帳簿類が
    #奪われたり、焼かれたりしています。キリスト教徒の借用証文が焼かれたのですが、
    #そこに単に損得の問題だけをみるのでは不十分です。

    #「キリスト教徒はユダヤ人が利益を得るために金勘定をしている姿を憎んだのですが、
    #キリスト教徒自身正しいことではないことを知りながら、それと同じことを
    #行なっていたのです。自分自身がこのような罪にまきこまれていたために、
    #それをユダヤ人に投影したのです。いわばキリスト教徒が〔貨幣を媒介とする〕
    #営利経済のなかに、うまく適応できなかったことの身代わりとされたのが
    #ユダヤ人であったのです。」
    #(リトル)

    #12世紀のクリューニー修道院長、尊者ペトルスは教会から儀式用の聖杯が盗まれ、
    #ユダヤ人の店に質入れされた事件について王に訴えています。盗みそれ自体が
    #問題にされているのではなく、ユダヤ人の質屋が聖杯に冒涜行為をしたのでは
    #ないか、と訴えているのです。

    #リトルはこの事件をまさにこの時代のキリスト教徒とユダヤ人の関係を知るうえで
    #恰好の事例としています。何故ならペトルスの議論は教会から聖餐用の聖杯が
    #盗まれたという事実から人びとの注意をそらしているからです。
    #聖杯は現実に貨幣にかえられているのです。おそらくキリスト教徒が聖杯を盗んで
    #ユダヤ人の質屋で貨幣にかえているのですが、このことを隠して、ユダヤ人の質屋
    #が質物に対して冒涜行為を働いたとして非難しているわけです。

    #実際にペトルスの時代に、クリユーニー修道院はユダヤ人の金貸しから年収の5倍
    #もの金を借り、大きな負債を負っていました。ある後援者が1149年に修道院の
    #借金を肩代わりして支払ったところ、かつて自分が修道院に寄進した十字架の金の
    #飾りがはずされて売り払われていました。

    #同じくリトルによると、ペトルスは、ルイ七世が十字軍に出発しようとしていた
    #ときに、サラセン人よりも悪い連中がすぐ傍にいるのに、何のために遠い国まで
    #十字軍に行くのかと述べたそうです。

    #ペトルス自身はユダヤ人を殺せとすすめたわけではありませんが、
    #ユダヤ人に遠征の埋め合わせをさせるべきだと考えていたようです。
    #ユダヤ人は額に汗して働きもせずに蔵に食物やワインをいっぱいにし、財布も
    #ふくれあがっている。
    #彼らはキリスト教徒からそれらを盗んだのだといっているからです。

    #同じく12世紀のクレールボーの修道院長ベルナールも、金貸し業はすべて
    #ユダヤ人の仕事とみなしていました。「ユダヤ人がいないとキリスト教徒の金貸し
    #がユダヤ人になります。これはユダヤ人よりも悪い代物です。
    #彼らは必要ならキリスト教徒と呼ばれますが、洗礼を受けたユダヤ人ですらない
    #のです。」

    #このようにベルナールがいうとき、彼はキリスト教徒も貨幣経済の流れのなかで
    #金貸しにならざるをえなくなっていることを知ってはいたのですが、認めることは
    #できなかったのでしょう。

    #実際、ユダヤ人だけでなく、キリスト教徒も数多く金融業に従事していたのですが、
    #余貸しはもっぱらユダヤ人の仕事として非難されることになりました。
    #キリスト教徒の倫理のなかでは金貸し行為は容認されないことでしたが、
    #11世紀以後の貨幣経済の全面的展開のなかで、町に住むキリスト教徒は
    #多かれ少なかれそれにまきこまれていたのです。自ら正当化しえない行為を
    #行なっていたキリスト教徒は、その罪の意識をユダヤ人に転嫁し、
    #ユダヤ人を攻撃したのですが、それはおのれを攻撃することでもあったのです。
    #しかし罪の意識はやがて敵意に転化します。敵意が暴力と結びついたとき迫害が
    #起こるのです。

    #リトルはおおよそ以上のようにユダヤ人迫害の原因を分析していますが、
    #このような分析は1878年のロッシャーの研究をより深めたものとみることが
    #できます。

    #ロッシヤーは農耕社会のヨーロッパでは、よそ者のユダヤ人などに商業が
    #委ねられていたのに対し、キリスト教徒自ら商業に従事するようになると、
    #ユダヤ人が不必要になり、このような商業における対立、競争のなかから
    #反ユダヤ人感情が芽生えてきたと説明しているのです。

    #ロッシャーの考え方は基本的な点で正しいでしょうが、たんなるねたみだけでなく、
    #キリスト教徒がモノを媒介とする関係から敏速に新しい貨幣経済の倫理になしむ
    #ことができなかった点に、反感が生ずる原因があったとみられるのです。

    それ以前の人と人との関係はモノを媒介にして結ばれ、目に見えないが
    しっかりしたルールがあったのに、11世紀以後急速に発展してきた貨幣経済に、
    多くの人々がうまく適応できなかったのだろう。
    モノをやりとりして人間関係を作っていたとき、そういう慣習にとらわれない
    ユダヤ人の出現は人々にとまどいを与えたにちがいない。

    #ユダヤ人は古くから商業の才にたけているとみられていました。
    #それは三大陸に分かれて住んでいたユダヤ人が、商取引においても「タルムード」
    #という独自の法によって律せられていたためなのですが、11世紀における
    #貨幣経済の展開は彼らには恰好の舞台でした。

    #多くの人びとが新しい貨幣経済の展開のなかで古い倫理にとらわれてうまく適応
    #できないでいる間に、ユダヤ人はさっそうとして巨富を蓄えてゆきました。
    #ユダヤ人の時代が到来したのです。かつては異国の商業民として対等に扱われ
    #なかったのに、今ではキリスト教徒が商業民の仲間入りをしたのです。
    #そしてこの点ではユダヤ人ははるかに先輩でした。
    #ユダヤ人は巨富を利用して町のなかに立派なシナゴーグを建ててゆきました。

    #こうした事態はキリスト教徒にとっては大きな脅威でした。
    #成り上がり者のユダヤ人に対してはまず貧民が反発したのです。
    #自分たちより下の存在だと思っていたユダヤ人がまたたく間に巨富を蓄え、
    #立派な家を構えるようになったからです。

    キリスト教徒は貨幣経済を嫌って、金貸しなどの金融業をユダヤ人にさせていたのに、ユダヤ人は困るどころか経済力をつけてしまった。
    こうして民衆はユダヤ人を憎むようになり襲撃したのだ。

    #トマス・アクイナスがいうように、金を貸して利子をとることは存在しないものを
    #売ることだから正義に反し許されない、というのが教会の正式な見解でした。
    #しかしながら都市の建設それ自体、莫大な資金を要することはいうまでもありません。
    #商業が利益をあげるほとんど唯一の手段であった中世社会において、経験豊かな
    #商人として巨富を貯えていたユダヤ人がそこで登場するのは当然のことです。
    #ニュルンベルクでもコンラート三世の時代に町を拡大し、その資金を調達するために
    #ユダヤ人を誘致したのです。

    #一方でユダヤ人の資金をあてにしながらも、他方でユダヤ人の活動を大幅に制限
    #しようとした結果、中世末期の矛盾する対ユダヤ人政策がとられたのです。

    #1451年のバンベルクの会議で枢機卿ニコラウス・クサーヌスは、
    #ユダヤ人がキリスト教徒に対して高利で金を貸すことを禁したのですが、
    #それに対しては皇帝も市当局も必ずしもすぐに賀意を示しませんでした。
    #ユダヤ人は皇帝にとつてもニュルンベルク商人にとってもまだ必要だったからです。

    #G・ミッヒェルフェルグーの研究によると、利子をとることを禁じられていた
    #キリスト教徒の商人は、債務者の支払いが遅れたばあいでも延滞利子をとることが
    #できません。そこでその間ユダヤ人から債権分の金を借り、債務者がユダヤ人に
    #利子をつけて返済するようにしていたのです。こうした裏取引によって
    #キリスト教徒の商人は利子はとっていないという建前をとることができたのです。

    #ところが1479年の都市法においてユダヤ人の金融業が禁じられたのです。
    #数百年にわたってニュルンベルクにおける金融業を独占していたユダヤ人の地位に
    #大きな変化が生したのです。市当局は市の両替銀行の設立を定め、
    #皇帝マクシミリアン1世からその許可を求め、同時にユダヤ人の追放についても
    #同意を求めました。

    #この政策の大きな転換は、いうまでもなく、かつてユダヤ人が占めていた地位に
    #キリスト教徒がとって代わったことを示しているのです。
    #どのように活発な商業活動を行おうとも、ニュルンベルク商人の活動が
    #中世都市としてのニュルンベルクの社会倫理のわく内にある限り、
    #その発展には限度がありました。メンデル家の三兄弟のように、
    #努力して蓄積した富を養老院や病院の建設に使うとき、彼岸における救済と
    #同時に、このような贈与によって人びとの尊敬を集め、社会的地位の向上も
    #求められていたのです。
    #キリスト教徒がこのような目にみえない絆としての社会倫理に
    #拘束されていた限りで、ユダヤ人にも活躍の場が約束されていたのです。

    #教会が利子を禁止していたのも、かつてのモノを媒介とする人間の関係を転換
    #させようとしていたからでした。
    #教会は「何ものをも期待することなく互いに与えよ」と教えていたのです。
    #教会自身も守ることができなかったこのような教えが、貨幣経済の展開のなかで
    #完全に空文と化したとき、カルヴァンの「貨幣は子を生む」という教えが生まれ、
    #ユダヤ人は必要でなくなるのです。このとき市民の間に新しい人間の関係が
    #生まれることになります。
     
    ユダヤ人にさせていた金融業だったが、キリスト教徒も考えを改め、自分たちがするようになった。
    「貨幣は子を生む」という資本主義的思想を受け入れたのはキリスト教の革命だったろう。
     実はイスラム教でも、利子を得るのは原則禁止なはず。実際はうまく処理しているが。


    [No.96] 宮下健三訳メーリケ著「旅の日のモーツアルト」 投稿者:   投稿日:2010/05/09(Sun) 15:55
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     みなさんは、若い日にこんな本を読まれたことはないだろうか。非常に薄い本で注などを除けば、たかだか110ページ位にしかならない。

     原本(文庫版)では更に少なく、80ページほどだ。いろいろ勿体をつけたが、書名を明かすとこれはメーリケの「旅の日のモーツアルト」である。本の腰巻にもあるように、なにしろ著者が、テーマになっているモーツアルトの熱烈なファンと来ているのだから、読む方も信用できるし、なによりも安心して読める。

     ドイツ詩人のエードワルト・メーリケは1804年生まれだから、この不世出の音楽家が亡くなった1791年から、まだ10数年しかたっていない頃にかれメーリケは、シュヴァーベンの地で呱々の声を上げたことになる。

     作品の舞台はモーツァルトが、前作「フィガロの結婚」が音楽家の言葉を引用すれば「話すことと言えば、フィガロばかり、オペラを観に行くといえばフィガロばっかり」という古今未曾有の大当たりを取ったので、さっそく注文の来た新作「ドン・ジョヴァンニ」を引っさげてプラーグへ、コンスタンツェ夫人とともに勇躍馬車を駆って向かうところだから、神童が31歳、ちょうど脂の乗り切ったころのことだ。

     ウィーンでは、この作もどうも評判が芳しくなかったらしいが、ボヘミアの大都市、プラーグでの人気は大変なものだったらしい。あっしが愚考するに、これはたしかにモーツァルトの天才に負うところが絶大だったためだが、歌劇である以上台本が必須。これを手がけたこれまた天才のダ・ポンテの力もバカにはできない。ジョヴァンニの序曲をわずかひと晩で仕上げた音楽家にももちろんエライが、ダ・ポンテの方もなにしろ、この天才の台本だけでなく、あたかもわが国の流行作家のように一遍に依頼者三人分の台本を、同時進行で書き進めたというから凄まじい。

     同書の中の逸話でとくに面白いのは、この天才音楽家が、ある伯爵の屋敷の庭園に入りこみ、オレンジを一個もぎ取ったところ、折悪しく園丁に見つかり取っちめられるところだ。夫人は当時、料理屋にいてマッタクこの大事件を知らず、あとで晩餐の折、はじめて張本人の『自白』で知ることになる。メーリケはまるでその場にいたかのように巧みな情景描写をしている。また、貴族の屋敷での演奏風景なども、かれの巧みな筆によって、後世のあっしらもつぶさに窺い知ることが出来る。

     そのあと、十代の作曲家が、イタリアのナポリに旅行したときに体験した、オレンジ投げの遊びも、まるで見てきたように活写しているが、メーリケはただの一度だってイタリアへは行ったことはないそうな。(^_-)-☆

    * 宮下健三氏が訳書の底本に使ったのは別のものだが、同書の序文で氏がレクラム版も参照した書いているので、ドイツ語の分かる恵まれたひと達は、あの小型の文庫で読まれたらどうだろうか。なお、原題はMozart auf der Reise nach Pragつまり、プラーグへの旅になっているらしい。





     


    [No.95] 紫禁城の黄昏・上下二巻 投稿者:   投稿日:2010/05/09(Sun) 12:41
    [関連記事URL:http://fine.ap.teacup.com/serie-brog/

    「紫禁城の黄昏」上・下  R・F・ジョンストン【著】 仲山理【訳】

    清朝最後の皇帝「溥儀」は紫禁城を追われた後、故郷・満州国の「皇帝」
    となるが それは世に日本の傀儡国家と信じられ、溥儀自身も「極東裁判」
    に於いて「皇帝就任は自分の意志ではなかった」と戦勝国におもねる証言
    をして、弟の「溥傑」からもその虚言を非難された。

    この書は 1919年から(溥儀13歳)1925年まで、溥儀の家庭教師を務めた
    ジョンストンが、溥儀を取り巻くチャイナ&満州の事情をつぶさに記述し
    たものである。もしこの書が「極東裁判」で「証言」として取り上げられ
    たらこの裁判は成立しなかったであろう。

    日本が侵略国家として受けた不当な弾劾を正すためにも すべての人に
    この書を読んで頂きたい。


                 瀬里恵


    [No.94] Re: 自分のなかに歴史をよむ 投稿者:   投稿日:2010/05/07(Fri) 23:22
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    (サービス欄というか、お節介欄)

     以下のサイトを出し、下の方のDukatenmannachenというところをklikkenしてみて下さい。どなたも例外なく、尻からドゥカート金貨をひねりだす小男の像が拝めます。

     今のところたったの一枚しかないのは、紋爺探偵のみるところ、世界中から集まった膨大な数の観光客が、押し合いへし合いで、片っ端から拾ってしまうせいかも。きょうのtvでも、れいの『ギリシャ発』のクライシスで金の価値が一気に騰がったそうですから。(-_-;)

     http://homepage2.nifty.com/izmreise/Deutschland/Goslar/goslar/goslar1.htm


    [No.91] Re: 自分のなかに歴史をよむ 投稿者:   投稿日:2010/05/07(Fri) 22:32
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       男爵さん、みなさん、こんばんは。

    >貨幣経済がかなり普及した13、4世紀に作られたゴシック建築の柱や壁に、
     奇妙な姿の人間がお尻の穴から金貨を排泄している像が彫られているのがあります。
     たとえば、北ドイツのゴスラーの市場に面したギルドハウス(現在はホテル)の壁に
     このような像を見ることができます。これは貨幣を不潔なきたないものとみた、
     当時の知識人の感情を伝えたものといえるでしょう。

    この街は、ランメンスベルク鉱山発見の影響で繁栄を極めたような気がします。広場には立派な仕掛け時計もあるし、市内には皇帝の居城跡もあるようです。あるサイトでは、この金貨を生む有り難い小男の像は、汚いものという捉え方でなく、当時の町の繁栄ぶりを物語っているのら、などと書いていましたが…。ま、ものの見方には、色々あった方が面白いのも事実です。

     男爵さんの(汚い)お金のお陰で、あっしは、いろいろなことを、思い出すことが出来ました。(^_-)-☆

     学生の頃習ったうろ覚えの言葉に、G-W-Gとかがあって、コレは確かマルクスの『資本論』Das Kapitalの貨幣資本の循環にでてくるらしく、その第一段階で資本家は商品や労働市場Warenmarkt、Arbeitsmarktで、買い手として現れると云います。そこで貨幣は商品に転化される。ドイツ語ではGeld→Waren略してG-Wというわけです。第三段階で資本家Der Kapitalistは売り手として市場に戻り、かれの商品は貨幣に転換されるとか。ここで今度はW-Gとなり、先のG−WとつなげてG-W-Gという式がなりたつ。何でもそんなような事でした。(-_-;)

     金銭がきたないという考えは正しいようにも見えますが、もともと教会というか教皇庁などはむしろ金の亡者のような面もあり、それは聖職者であるかれらが発行した『免罪符』などにも見られるようです。あるサイト(OkWave)によれば殺人、偽証などの免罪の相場は50万くらいだったようです。

      貨幣の起源については、あっしは詳しくは知らないけれど、ネットでは紀元前3世紀
    から1世紀ごろ存在したリディア王国で使われていたというから、そのころにはすでに市場の走りのようなものがあったはず。等価交換から、次第に不等価交換へは自然な道筋。また蓄財をするもの、大富豪なども、時を追って次第に誕生したのではと思われます。

     あっしらが読んだことのある聖書の、いわゆる『ユダの裏切り』では、かれはイエスを銀(貨)30枚で売り渡したといわれています。これもおそらく今から2000年くらい前の出来事になるでしょうね。

     ソリドゥスなどに代表される4世紀頃の古代ローマ金貨は、11世紀頃まで使われたとか。
     
     ファルネーゼ卿などの伝記をみるにつけ、金まみれだった当時の教会の姿を思い起こします。キレイごとを言っても、葬式じゃありませんが、最後はみな金がカイケツしています。もちろん、こんなことは決して嬉しくはないけど、これが現実では?

    わが国にも「それにつけても金の欲しさよ」なぞという大田南畝の、じつにケシクリカラン迷句、いや、名句があります。(-_-;)


    [No.90] 自分のなかに歴史をよむ 投稿者:男爵  投稿日:2010/05/07(Fri) 10:20
    [関連記事

    阿部謹也は
    ドイツ中世史の研究では第一人者だった。
    一橋大学学長のあと 共立女子大学学長を務めた。

    この本に出ている忘れられない文章をメモ的に書いておきます。
     ◎研究対象に惚れこんでいる自分を、どこかで冷静に見つめているもう一人の自分を考えてみる。
     ◎どんな問題をやるにせよ、それをやらなければ生きてゆけないというテーマを探すのですね。
     ◎ゲッチンゲン大学教授ハインペルの歴史意識
       幼いハインペルはリンダウを訪ねたとき、リンダウではミュンヘンと時間が違うということに気づいた。
       私たちはなんとなく、時間だけはすべての人に公平に流れてゆくと考えています。一応そのようにいってよいでしょうが、それは時間を数量的にとらえればそうなるということであって、時間を人間がどのように意識しているのか、という点からみると異なってくるのです。
     ◎モノを媒介とする関係と目に見えない絆で結ばれた関係
       私たちが誰かとなんらかの関係を結ぶとき、そこにはなんらかのモノが必ず介在していて、そのモノが意外に大きな役割をはたしていることに気づくでしょう。
       しかし、人間と人間の関係はそれだけでなりたっているわけではありません。愛や思想、掟、迷信、信仰、習慣、音楽などモノではありませんが、人間と人間の間の関係のなかでたいへん重要な役割をはたしています。私はこうした関係を、目に見えない絆で結ばれた人間と人間の関係と呼んでいるのです。
       モノを媒介とする関係と、目に見えない絆で結ばれた関係の二つが、人間と人間の関係の基礎にあると一応考えてよいでしょう。

    私は知人からドイツ留学のときに「中世の窓から」を贈られて
    これをドイツにいるとき熟読したものです。
    ほかの旅行ガイドブックには書いていない、その町の詳しい歴史に関することが書かれていて貴重な本でした。

     貨幣経済がかなり普及した13、4世紀に作られたゴシック建築の柱や壁に、
     奇妙な姿の人間がお尻の穴から金貨を排泄している像が彫られているのがあります。
     たとえば、北ドイツのゴスラーの市場に面したギルドハウス(現在はホテル)の壁に
     このような像を見ることができます。これは貨幣を不潔なきたないものとみた、
     当時の知識人の感情を伝えたものといえるでしょう。

     何故貨幣は不潔と考えられたのでしょうか。11世紀以前のモノを媒介とする
     人と人との関係は、人間の共同生活の非常に古い層に根差すものですから、
     簡単にはなくなりません。贈与慣行は根強い倫理・掟として今日においてさえ
     部分的には残っています。クリスマスや復活祭でもないのに、やたらに
     物を受け取ることにやや抵抗があるヨーロッパの人でも、食事に招待すれば
     喜んで応じてくれるでしょう。そして必ず返礼として招待してくれるでしょう。
     それは対等の関係を保つための必須条件だからです。

     ところが、モノを与えた人(売り手)に対して、受け取った人(買手)が
     すぐその場で何ら自分の人格とは関係がない金属片(貨幣)を渡して、
     何の返礼もせず去ってしまったらどうでしょうか。11世紀以前の倫理の世界
     に生きていた人ならば、腹をたてるよりは相手を軽蔑したでしょう。
     モノの交換の背後には、本来人格と人格のふれあいがあったからです。

     ニュルンベルクのロレンツ教会に入ると、正面左手に高さ20メートルもある
     聖体安置塔があるのに気がつきます。

     かがんだ3人の男が塔の台を背中で支えているように見えます。
     前にはつちとたがねをもった中年の男、祭壇よりには、たがねを手にした男、
     反対側には手におのをもった老人が見えます。

     これこそニュルンベルクの石の芸術家アダム・クラフトの作品で、
     この3人がアダム・クラフトと徒弟、職人なのです。

     この作品は1493〜96年につくられ、クラフトは1455〜60年頃
     に生まれていますから、この頃のクラフトの年齢を推定できるのです。
     かつて美術史家ヴェルフリンはこの聖体安置塔を後期ゴシックの精華と
     たたえましたが、これこそニュルンベルクの石工の頂点に立つ作品ということが
     できるでしょう。

     聖体安置塔をはじめて見た人は、傍らによってしさいに眺めるまでは、
     それが石で作られていることが信じられないでしょう。

    ニュルンベルクのロレンツ教会の聖体安置塔
    私は見学した後にこの本を読見直して、改めてニュルンベルクに行って石で作られたものであると確認しました。
    いわれてみないと、それは木製だと誰でも思うでしょう。


    [No.89] Re: 艶笑譚のたぐい 投稿者:   投稿日:2010/05/07(Fri) 05:44
    [関連記事URL:http://homepage3.nifty.com/kiriko/

    紋次郎さん、ザックスさん、みなさん、おはようございます。

    >  艶笑(古典)落語に感心していたら、なんと艶笑俳句ってのもあるんですってね。(@_@;)きょう、生まれて初めてネットサーフィンで知りました。(-_-;)←おくての爺。
    >
    >     逢う夜や 肌の火照りや 走り梅雨    波舟

    俳句では、川柳ほど大胆直裁に詠まれてはいませんね。
    やはり“品格”とやらが問われるからでしょうか。(ξ^∇^ξ)

    乳房やああ身をそらす春の虹     富沢赤黄男
    をみなとはかかるものかも春の闇  日野草城(新婚初夜)
    ゆるやかに着てひとと逢ふ螢の夜   桂信子

    探せば沢山有りそうですけれども。

                          桐子


    [No.88] ウマミタイコフ、ウマモドキン、ウマノリスキー…エンバコフ! 投稿者:   投稿日:2010/05/06(Thu) 18:31
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     まいにちを苦虫を噛み潰したような顔で過ごしては精神衛生上きわめて良くない。分かってはいるが、新聞を見てもロクなことは出ていないし、また身の回りでもすべてがうまく行っているわけではない。しかし、何もかもがうまくいくことこそむしろ異常なのではないでしょうか。(^_-)-☆

     そんでもって、タマには面白そうなものにも眼をやったら、とあっしなどの浅はか人間はつい考えてしまうのだが…。(-_-;)

     で、ここにご紹介するのは、チェホフの「馬のような名字」。(河出文庫新刊)この1編しか収まっていないわけではないが、おそらく出版した河出書房新社が、この話が一番インパクトがあると判断し、書名に採用し、さらにその巻頭に据えたらしい。

     元将軍に歯痛除けのお呪いを掛けてくれるはずだった超一流の呪い師の本名は、果たして、なんだったんだろう?

     この話を読んで腹を抱え、存分に笑った後であっしが思ったのは、わが国の赤いご紋の、いえ、赤井御門守のでてくる「粗忽の使者」という古典落語だった。或いはまた、漫才師の故夢路いとしを思い出される方もなかにはあるかも知れない。

     とにかくこの二つの笑いには、どこか共通点があるように思う。馬がらみの名字については、つぎつぎに傑作がとびだしてきて、甲乙も付けがたいが、退役軍人ブルジェーエフの夫人が口走った『馬みたいコフ』は、なかでも特に『馬く』でけていたように、あっしなどは思うが。(-_-;)


    [No.86] Illustrated Bible Dictionary-Nelson's New Compact 投稿者:   投稿日:2010/05/06(Thu) 13:28
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    CNNによれば、アメリカではナッシュビルを含めテネシー州が3日、記録的な豪雨に見舞われた、と。死者数も、すくなくとも27人を越えている模様。

    せんじつ書斎の片付けをしていたら、というより実際はあらたな散らかし方の研究と云ったほうが実情にあっていると思うが、こんなポケットブックを発見した。

     たまたま開いた190ページにはNoah,Noeと云う項目があるが、例のノアの箱舟で有名なこの話、べつにクリスチャンでなくとも今では大抵の方がご存じと思う。ノアは旧約の『創世記』に出て来る人物である。アダムから数えて10代目、このノアに、40日40夜降り続いたあとの洪水は、もう二度と起こさないと神が虹をもって約束される。こうしたことが、この可愛らしい本に、簡潔な文章で分かりやすく記されている。

     あっしが紋題にしたいのは、本扉にある発行所の所在地、Nashvilleである。このナッシュビルには虹は出なかったのだろうか。ちなみに2005年にも同地には、ハリケーン「カトリーヌ」が襲来し、大きな被害を与えている。

     この洪水については、同書にニップール(現在のイラクのヌッファル)で発見された粘土板のイラストが入っているが、これはメソポタミア地方での洪水についての最古の資料の一つとされているものだ。当時の発掘ではこの洪水や天地創造にかかわる粘土板が、同時に数万点発見されたという。
    (@_@;)

     光文社文庫の「聖書の世界」(監修・月本昭男)によれば、この発掘によって旧約聖書創世記の記述は、メソポタニア起源であることが確定したという。キリスト教と兄弟関係にあるイスラムでも、偶像廃止を説いたノア(「コーラン」ではヌア)は厚遇され、箱舟の話もコーラン(岩波文庫「コーラン(中)」)の第11章にでてくる。また、アララット山はここでは、ジューディー山になっている。☆

     ☆ ちなみに、大英博物館のギルガメシュ叙事詩では、ノアは英雄ウトナピシュテムに、神イエホバはエア、豪雨は七日七晩に、偵察に使ったトリはハトとツバメになる由である。


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