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電気通信大学藤沢分校物語

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿.1 .2 .3 .4 .5 | 投稿日時 2015/2/13 12:19 | 最終変更
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 はじめに

 スタッフより

 この投稿(含・第二回以降の投稿)は「電気通信大学同窓会社団法人目黒会」の「CHOFU Network」よりの抜粋です。
 発行人様のご承諾を得て転載させて頂いております。

--------------------------------------

 誕生から廃校まで

 近藤 俊雄(33B)

 はじめに

 私は、1958年(昭33)に電気通信大学を卒業して東京の会社に職を得た。1964年(昭39)に経堂から藤沢市辻堂に越して、1977年(昭52)鵠沼海岸に移り、爾来46年余になる。1986年(昭61)目黒会の理事に指名され、1992年(平4)から1997年(平9)まで廣神三木雄会長(33T)の下で専務理事をつとめた。(目黒会報11-2:私の交友録、15-3:私の目黒会の思い出)その後、現在まで広報委員として目黒会に関わっている。会社も定年となり、会社社会から離れると共に、地域でのサークル活動が深まり、仲間も沢山出来て、この地にやっと根をおろした気がしている。

 2010年(平22)5月、近くにある鵠沼郷土資料展示室で「なつかしき学び舎その6」として「湘洋中学校」の資料が展示された。藤沢分教場の写真には「昭和19年建設の旧電気通信講習所の木造2階建ての建物と敷地。戦後、電気通信大学となる。ここに昭和31年4月1日、藤沢市立湘洋中学校が開校した。」と説明文が添えられ、学校の写真数葉と資料が展示されていた。湘洋中学校を卒表した娘に「お父さんは湘洋中学に泊まった事があった」と言った所、「えぇ!どうしてなの?」、「かくかくしかじか」といっとき会話がはずんだ。

 大学2年の1955年(昭30)夏同級生数人でこの鵠沼の学校寮に泊まり、麻雀、海水浴を楽しんだ。その後、この土地に住んだ私は、大学の浜見寮に気付き、この辺に学校寮があったなとボヤーと思っていたのであるが、それ以上を考えた事は無く、深く追求する事は無かった。鵠沼郷土資料展示室で写真・資料を見て初めてうかつにも「エッ、そうだったのだ」と気付いたのである。私の知った藤沢の殆どの人達はこの地に電気通信大学が存在した事も浜見寮があるのも知らない。卒業生は寮があることは知っていても、湘洋中学校が、電気通信大学の跡地にできたと知っている人は多くないだろう。この私自身も詳しいことは知らない。そこでこの機会に、目黒会、大学、藤沢市、先輩や関係者達に残る資料をたどり、証言などを求め、藤沢分校にスポットライトを当てた、「藤沢分校の歴史」を甦らせたいと思ったのである。

 電気通信大学は1918年(大7)12月7日社団法人電信協会管理無線電信講習所としてここの声をあげ、その後校名が3度変更された。即ち

 1942年(昭17) 逓信省所管官立無線電信講習所、
 1945年(昭20)逓信省所管中央無線電信講習所、
 1949年(昭24)文部省所管電気通信大学である。

 藤沢分校の歴史を紐解くには電信協会管理無線電信講習所の前身である電信協会から語られねばならない。そこで本稿では逓信省所管官立無線電信講習所の成立までを、主に電気通信大学60年史(以下60年史という)を参考に、特に校名変更時の背景の流れを重点に抜粋、要約し、紹介する。


1電信協会

 1.1電信協会の成立

 1879年(明12)1月「万国電信条約」に加盟し、同年4月ロンドン第2回万国電信会議にも参列したにも拘わらず、依然として不公平な取り扱いを受けていた。関係当局は勿論、関係者は通信の技術、行政に関する強力な研究、調査の機関を必要とする機運が高まっていた。若宮正音電務局長(後、電信協会会長)は電務局電気試験所浅野応輔博士(1903年、水銀検波器の発明)の進言を受け、電気通信事業に関する「①学術技芸ヲ講究スルコト、②法理ヲ講究スルコト、③事業ノ拡張整理ノ方法ヲ講究スルコト」を目的として1893年(明26)電信協会を組織した。入会者は790名であった。マルコーニは1895年(明28)電波式の無線電信送受信に成功した。

 電信協会は当時としては電気通信関係全般にわたる研究、事業の唯一の機関であったといえる。特に1904年(明37)の日露戦争における作戦、戦略、戦術、後方支援等のための電気通信が日本海海戦に象徴されるような驚異的威力を発揮した。その陰には本会及び会員のたゆまぬ努力と熱意が効果を上げていたことはいうまでもないことである。













前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/2/13 12:44
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 1.2無線電信の実用化

 1908年(明41)ベルリンで締結した万国無線電信条約が公布され無線電信による公衆無線電報取扱が開始された。この条約は無線電信機器の機能についての考慮と無線通信従事者の技能についての要求が含まれていた。無線通信者の養成が必要になってきたのである。唯一の養成機関の逓信省通信官吏練習所(後の逓信官吏練習所、通称官練)で養成することになり、同ヌ卒業生25名を海岸局、無線電信局に勤務させた。以後大正末期まで臨時養成を行ってきた。1912年(大元)タイタニック号が沈没した。

 1915年(大4)「海上人命安全条約」が発効し、搭載人員50名以上の外国航路は全て無線電信設備が必要になり、同年新たに無線電信法を制定しこれに伴う私設無線電信規則、通信従事者資格検定規則も施行された。無線電信局は船主が施設する純然たる船舶の救難、航行の安全、船舶の事業用の設備となった。1914年(大3)に勃発した第一次世界大戦の影響で危険海域を航行する船舶は義務に関係なく、無線電信を必要としていた時代で、船主は敷設を急ぎ、メーカーは無線電信機器製造に追われていた。私設無線電信は主に船舶の無線電信であったが、官練は専門の官吏を教育する機関であるから、私設無線局に配置するわけにはいかないし民間人を養成することも出来ない。然し、通信従事者がいなければ航海出来ないので、逓信省は臨機の措置として1916年(大5)官練無線科卒業者を私設無線局に配置、そしてその後の私設無線通信従事者の養成は無線機製造会社に任せたのである。しかし、船舶会社の通信従事者の獲得には相当の色々な苦労があった。


 1.3帝国無線電信講習会の開設

 そのような背景の中で逓信省の方針、海運界各方面の要望に応えて、安中電機製作所(現安立電気.)が1916年(大5)港区の自社工場内に「帝国無線電信講習会」を開設し、従事者の養成にあたり300余名の検定合格者を出し、従事者払底の危機を救った。無線電信機及び従事者の大量需要の時代を迎え、1917年(大6)協会に新たな無線電信講習所の建設経営という問題が持ちあがったのである。


2 電信協会管理無線電信講習所

 2.1民間養成所の継承決意

 1917年(大6)12月、電信協会は帝国無線電信講習会を継承経営することに決定した。その理由は逓信省の勧めと、青山禄郎安中電機製作所社長の「一民間製造業者が、無線通信士養成などの公共的性格の事業を兼営すべきでない」とする判断に基づいて、同社が経営する帝国無線電信講習会を電信協会に譲渡したいとの申し出があったことによるが、海運業者からも逓信省に対して無線従事者養成機関を強く要請した等の緊迫した事情によるものでもあった。

 2.2海運会社から予定を超える寄付金

 1918(大7)年7月、若宮会長は関係有力者を帝国ホテルに集めて、「電信協会において国家のための無線学校を創設する計画」を説述し、予算案を提示して協賛を希望した。定款に「④電気通信技術員ノ養成ヲ為スコト」が加えられ、以後の協会の主体をなすものとなった。当時一般産業は好景気で、殊に海運界の活況はすばらしく、日章旗は世界各国にひるがえった。諸外国では船舶の無線電信施設を義務付ける法規を採用する傾向が著しくなってきた。従って無線電信設備をする船舶が激増し、また無線通信従事者の需要も急増し、その速成が海運業者方面から熱望されるような状況であったので、寄付金は予想以上の多額に達した。寄付者は日本郵船(株)以下37社、寄付金総額は46万1千円であった。

 2.3社団法人電信協会管理無線電信講習所の開設

 1918年(大7)12月7日、社団法人電信協会管理無線電信講習所が麻布区飯倉町に開設された(電気通信大学の歴史が始まった)。1919(大8)4月ニ町の幼稚園の階上を仮教場として31名が入学した。7月には東京府豊多摩郡渋谷町(安中電機製作所)に講習所支所を設置し、短期講習科の授業も開始した。1920年(大9)12月、下目黒村に土地(3,775坪)、総建坪(約262坪)、建物延坪数(約451坪)の新校舎が落成した。土地の買収価格約98,135円、工費119,800円であった。爾来10数年間、私設無線電信施設への無線通信士の安定供給は、無線電信講習所通称「目黒無線」の一手にゆだねられてきた。

 2.4私立無線学校の濫立

 1931年(昭6)満州事変後各方面で無線通信士を多数必要とする情勢となったにも拘わらず、日本唯一の電信協会管理無線電信講習所の通信士養成の拡充も思うように伸びず、更に急激な通信士需要(供給は数分の一)に直面し、遂に各所に私立の無線学校が設立されるに至った。昭和10年までに設立された私立無線学校は5校であったがその後19校に達した。19校の内、各種学校として府県知事の認可を受けたものは10校であるが、認可はしたものの適切な指導監督は行われなかった。私立無線学校はごく一部を除きその経営方針は営利主義で私立無線学校の評判は地に堕ちた。国家試験による所定の資格を取得できる人はその1%にも達しない状況であった。
 然し、通信有技者の需給逼迫の時局柄、通信術だけで資格を必要としない大陸軍関係の需要が急激だったため、卒業者の約半数が無資格のまま通信に従事することになり、この間太平洋戦争に突入し、次第に計画的教育、配員の必要に迫られるのである。
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

2電信協会管理無線電信講習所

 2.1民間養成所の継承決意

 1917年(大6)12月、電信協会は帝国無線電信講習会を継承経営することに決定した。その理由は逓信省の勧めと、青山禄郎安中電機製作所社長の「一民間製造業者が、無線通信士養成などの公共的性格の事業を兼営すべきでない」とする判断に基づいて、同社が経営する帝国無線電信講習会を電信協会に譲渡したいとの申し出があったことによるが、海運業者からも逓信省に対して無線従事者養成機関を強く要請した等の緊迫した事情によるものでもあった。

 2.2海運会社から予定を超える寄付金

 1918(大7)年7月、若宮会長は関係有力者を帝国ホテルに集めて、「電信協会において国家のための無線学校を創設する計画」を説述し、予算案を提示して協賛を希望した。定款に「④電気通信技術員ノ養成ヲ為スコト」が加えられ、以後の協会の主体をなすものとなった。当時一般産業は好景気で、殊に海運界の活況はすばらしく、日章旗は世界各国にひるがえった。諸外国では船舶の無線電信施設を義務付ける法規を採用する傾向が著しくなってきた。従って無線電信設備をする船舶が激増し、また無線通信従事者の需要も急増し、その速成が海運業者方面から熱望されるような状況であったので、寄付金は予想以上の多額に達した。寄付者は日本郵船(株)以下37社、寄付金総額は46万1千円であった。

 2.3社団法人電信協会管理無線電信講習所の開設

 1918年(大7)12月7日、社団法人電信協会管理無線電信講習所が麻布区飯倉町に開設された(電気通信大学の歴史が始まった)。1919(大8)4月ニ町の幼稚園の階上を仮教場として31名が入学した。7月には東京府豊多摩郡渋谷町(安中電機製作所)に講習所支所を設置し、短期講習科の授業も開始した。1920年(大9)12月、下目黒村に土地(3,775坪)、総建坪(約262坪)、建物延坪数(約451坪)の新校舎が落成した。土地の買収価格約98,135円、工費119,800円であった。爾来10数年間、私設無線電信施設への無線通信士の安定供給は、無線電信講習所通称「目黒無線」の一手にゆだねられてきた。

 2.4私立無線学校の濫立

 1931年(昭6)満州事変後各方面で無線通信士を多数必要とする情勢となったにも拘わらず、日本唯一の電信協会管理無線電信講習所の通信士養成の拡充も思うように伸びず、更に急激な通信士需要(供給は数分の一)に直面し、遂に各所に私立の無線学校が設立されるに至った。昭和10年までに設立された私立無線学校は5校であったがその後19校に達した。19校の内、各種学校として府県知事の認可を受けたものは10校であるが、認可はしたものの適切な指導監督は行われなかった。私立無線学校はごく一部を除きその経営方針は営利主義で私立無線学校の評判は地に堕ちた。国家試験による所定の資格を取得できる人はそのニ院鵑砲眞・靴覆ぞ・靴任△辰拭・br /> 然し、通信有技者の需給逼迫の時局柄、通信術だけで資格を必要としない大陸軍関係の需要が急激だったため、卒業者の約半数が無資格のまま通信に従事することになり、この間太平洋戦争に突入し、次第に計画的教育、配員の必要に迫られるのである。
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 3 官立無線電信講習所(逓信省所管)

 3.1官立無線電信講習所設立の要請、国家的事業に

 無線通信士の需要は1937年(昭12)日支事変の進展とともに、益々増大の傾向をたどり、質的方面においても飛躍的向上を期する必要が痛感されるようになった。このような情勢下において国家助成というよりも、むしろ国立の無線電信学校を設立して通信士の養成を図るべきだとの要請が官、民各方面から起こり始めた。1941年(昭16)4月船舶無線通信士養成に関する逓信省官船局長からの諮問事項に対し同年6月船舶無線懇談会専門委員会は無線通信士養成制度改正の件として船舶無線通信士をいわゆる無線従事者としてのみ律するは当を得たものに非ず、むしろ他の乗組員同様船舶職員としての資格を与えることは船内体制上にも肝要な方策であるとして、無線通信士の養成制度及び関連事項につき適当なる改正を加えることの詳細な意見具申がされた。官側の原案は、①官立無線電信講習所設立の必要性、②無線通信士の検定試験制度と養成施設などについて述べ、無線通信士の需給を図る応急策として本邦唯一の国家検定校である電信協会管理無線電信講習所を官立に移管せしめ、その施設の大拡張を実施し養成人員を倍加することが必要であるとした。

 数次に亘り審議を重ねた結果、官民合同の熱望は受け入れられ、逓信省所管官立無線電信講習所を設立することに意見の一致をみるに至った。

3.2逓信省所管の理由

 官立無線電信講習所は逓信省逓信部内の従業員を養成する逓信講習所や逓信官吏練習所などと異なり、卒業生はすべて一般の民間企業の従事者として就職する点では、医科、工科系の一般専門学校と同一視し得るものである。従って本来は文部省所管となるのが本筋であるが、本講習所において養成する無線通信士は、その取り扱う業務面につき逓信省が全面的に指導、監督を実施する必要があった。これと関連して通信士資格の付与や無線局に対する選任事務についても一貫統制を行っており、又船舶並びに航空機の無線電信はその殆どが公衆通信に供用されている関係もあって逓信省のス管とすることが望ましかった。更にまた無線通信施設の増加、並びに船舶・航空機などの建造計画に合わせて通信士の養成計画を立てる必要もあった。これらのことを考え合わせる時、諸般の事情(教員、教育施設、実習現物等)にかんがみ逓信省において直接その経営に当るのが妥当であると認められ、同省の管轄下におかれることが決定したのである。(60年史)

 3.3官立無線電信講習所の成立(第79帝国議会)

 1941年(昭16)10月18日に成立した東条内閣は、対米開戦のための内閣であり、遂に12月8日未明真珠湾の急襲、マレー半島の奇襲攻撃を決行したのであった。15日には香港のイギリス軍が降伏し、日本軍の快進撃で沸き立っている時、第79帝国議会(12月26日~3月26 日)が開かれた。この議会は戦争遂行に関わる法案と巨大な臨時軍事費を議決することであった。

 議会出席者には戦後、総理大臣に就任した岸信介(商工大臣)、池田勇人(大蔵省書記官)、佐藤栄作(鉄道省監督局長)、大平正芳(興亜院調査会)等の名前が見える。(帝国議会会議録データベースシステム)

 昭和17年度予算案は88億3,700万円で、追加予算を加えた前年度予算に比べると1イ7,900万円の増加であったが、臨時軍事費の方は180億円という巨額の予算となっていた。それは前通常議会に提出された58億8,000万円の3倍を超えるし、またこの経費が開設された昭和12年9月以来成立した予算の合計額が289億3,500万円と比べてもその急増ぶりをうかがう事が出来る。この議会では管理通貨制度を恒久化し、強化するための日本銀行法の改正、直接税中心の増税案(所得税、法人税、相続税)など、間接税についても税の新設(電気瓦斯、広告、馬券など)、値上げ(国鉄運賃・郵便料金など)、また戦後にまで受け継がれて食料統制の基本となった食料管理法の制定がされた。国民負担が一挙に増大したのである。
 (古屋哲夫「日本議会史録」3)

 1942年(昭17)1月31日、2月2日に開催された予算委員第六分科会議に逓信省大臣寺島健、電務局長中村純一、工務局長松前重義等が出席、議会で予算が議決され、4月の官立無線電信講習所の成立が確定した。

 然し、当初大蔵省に提出された予算額は2百数拾万円であったが、それが復活要求のつど、減額され、最終的には120万円程度に減ったのであるが、復活予算として認められたのは更にその半額の63万円余であった。これでは校舎、設備の拡充はほとんどできない額であったが、それでもまずは橋頭堡を獲得した喜びは格別であった。尚、電信協会の無線電信講習所の施設一切は国家に寄付された。

 3.4藤沢分教場の計画

 成立予算の63万円は無線電信講習所の従来通りの運営費だけでいっぱいとなるので、校舎の新設等は、藤沢市当局を動かして同市鵠沼海岸に建造して、これを貸与させることにした。その所要資金約260万円(当時の藤沢市の年間予算総額は80万円)は藤沢市の市債を発行することとして、内務省に対する交渉など一切は逓信省において斡旋することとなった。この260万円で、土地約10,000坪の他、校舎、寄宿舎、講堂、武徳殿など約2,000坪の建築を行う予定であった。同年4月1日官立無線電信講習所初代所長として中村純一電務局長が兼務で任命された。(60年史)尚、80年史には官立(無線)講習所業務開始(中村所長事務取扱)とある。 (以下次号)

(注)本稿で引用された史料、資料は最終稿にまとめて記載します。

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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 電気通信大学藤沢分校物語 (2)

 誕生から廃校まで

 近藤 俊雄(33B)

 誕生から廃校まで

 前号では昭和17年までの歩みについて述べた。
 概略の年表は以下の通りである。

 1879   明12  万国電信条約加盟
 1893     26   電信協会設立、若宮正音会長
 1904     37   日露戦争に電気通信が驚異的威力を発揮
 1918   大 7   社団法人電信協会管理無線講習所開設
 1924     13   若宮正音死去、若宮貞夫が後継者となる
 1937   昭12   日支事変、民間無線通信士の需要激増
 1941     16   大東亜戦争
 1942     17   第79帝国議会、官立無線電信ケ習所成立

 本号では無線講習所初代所長若宮正音、第 2代所長若宮貞夫について、また昭和17年、官立無線電信講習所が開校する直前の動きについて述べる。尚、敬称は省略した。


3.5若宮正音と若宮貞夫

 若宮正音(しょうおん)は 1854年(安政元)兵庫県豊岡町の西楽寺の住職若宮正海の長男として生まれた。長じて本家と僧籍を次弟の正響に譲り、自らは大阪師範学校で学を修め岡山などで教員を務めた後、和歌山新聞の編集長を経て、やがて上京して工務部の官吏となり、逓信省の新設せられるやこれに転じ、逓信大臣秘書官から外信局次長、工務局長を経て 1891年(明 24)初代の電務局長となった。その頃、電話開設につき渋沢栄一等の民営論と工部省(後の逓信省)の官営論とがあったが、初代逓信大臣榎本武揚、逓信次官前島密を説いてこれを実現させ、1889年(明22)私設の制限つまり官営を規定した「電信電話線私設条規」が制定されて片がつく。前島の官営論を理論武装し、私設条規をまとめ上げたのが若宮正音である。また正音の最大の功績はインフラ整備のための「電信電話線建設条例」の制定でありこの条例が廃止されたのは、実に1953年(昭28)であった。。電話事業の生みの親」ともいわれている。(注21)

 それ等の事は逓信協会雑誌第29号電話創業20周年記念号(明43年)に「電話創業の回顧」(明43年)と題し自ら執筆している。1894年(明26)農商務省商工局長に転じ度量衡制度の確立に努力した。漢籍や書を愛したが、また碁が好きでいつも来られるのが秋山好古陸軍大将(筆者注:司馬遼太郎の「坂の上の雲」の主人公)や土佐の政客竹内綱などで、秋山将軍は日露戦争でコサック騎兵と戦って秋山騎兵旅団の勇名を馳せた武人らしく、馬を玄関前の松につないで烏鷺(筆者注、ウロ:囲碁の勝負を云う)を闘わせられたというし、竹内さんは(帰りが)遅くなって書生もお送りしたが、よく迎えに来られたのが若い実子である後の宰相吉田茂さんだったという。1924年(大13)4月急死した。(注22)

 若宮貞夫は 1875年(明 8)豊岡町若宮正海三男として生まれる。1899年(明32)年東京帝国大学法科卒業、逓信省に入る。同年長兄正音の養嗣子となる。1922年(大11)逓信次官、1924年(大 13)1月退官した。同年 5月第 15回衆議院議員に当選、第 20回総選挙まで連続当選。1931年(昭6)犬養内閣の陸軍政務次官に就任、1934年(昭9)政友会エ事長、1941年(昭16)鳩山一郎を中心とした同友会結成に参加。その他衆議院予算委員長、国連協会理事等務めた。

 1946年(昭21)9月死去した。(注23)若宮正音会長の後継者は、正音会長の末弟で、逓信省管船局長また逓信次官として海運行政に貴重な経験を有し、特に船舶無線の重要性と、これが進歩に深い関心を持つ斯界の第一人者であった若宮貞夫が経歴、伝統からも最も適任であるとの一致した世論に従って、同年5月、電信協会の会長に挙げられ無線電信講習所経営を引き受け第二代所長(大13年4月~昭17年3月)となった。(注24)

 将に自身は衆議院選挙渦中のなかの決断であった。貞夫の四女正は元高知県知事橋本大二郎の母、貞夫は大二郎の外祖父にあたる。正は元総理大臣の橋本龍太郎の義母。龍太郎の実母春は龍太郎生後5ヶ月で急死、父竜吾は龍太郎7才の時、継母正を迎えた。龍太郎国会初当選の時、母正が国会に付き添った事から当時「マザコン代議士」と、また高知県知事大二郎に代わってしばしば入院中の義母を見舞った母親思いの美談は当時の新聞の話題を呼んだ。
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 3.6無線電信講習所の官立移管の意義

 無線電信講習所移管の事は多数の卒業生の多年に亘る希望であり過去民間よりの建議もされ、政府に於いてもその必要性を認め、幾度か関係省の議にも上ったが相当多額の予算を要する事として実現に至らなかった。然し事変の進展とともに通信士の需給問題が関係当局の議に上がり、1940年(昭15)の頃に官立無線電信講習所に就いて根本方針が打ち合わされ実現に就いての電信協会理事者の意見を求められたのは翌年の10月であった。その後何回か懇談を重ね、政府当局でも着々と計画が進められた。(注25)

 第79帝国議会(昭16. 12~17.3)に提出するべき追加予算の編成方に関して、閣議は直面する現下の時局に顧み重点主義に依り物資・資金・労務等の政府需要は戦勝の目的達成に必要欠くべからざるものに集中して実行に着手し、また計上する経費は真に緊急性を有し、実行可能性の確実なものであり3年以上かかるものは認めないとの方針を決定した。(注26)

 賀屋蔵相は財政演説中、特に重点を置き新規経費として計上したもの即ち差し措き難き経費の一つとして官立無線電信講習所設立に関する経費を計上した事を説述した。戦時予算の重点の一つとして官立移管が数えられた事は無線電信が如何に重大な役目を担うか、民に示されたものであり、その責任が如何に重大なるかを具に痛感せしめられた、また多年に亘りこの事を待望していた人々とっては如何に満足と希望を与えられたかを、想像せられ得るのであった。(注27)

 3.7官立移管前後の状況

 本物語は藤沢分校関係の資料を発掘し当時の事情を述べるのを意としている。当然の事だが当時の公文書は旧仮名遣いであり読み難い。そこで公文書を現代風の文章に書き換えて紹介する。

 「無線電信講習所の官立移管状況」として電信協会の廣島庄太郎(注28)が詳細に以下述べている。

 1942年(昭 17)1月 12日に至り官立校経費を含む予算が閣議決定されるとともに、政府からは従来の講習所を政府へ移管継承のこととすれば便益大なる旨の内示もあり電信協会に於いても必要な措置を講じていた。この予算案が愈々議会通過にあたり、政府から改めて下記の如く公文書で申入れがあった。

    電無367号
    昭和17年3月19日
    逓信大臣 寺島 健

 社団法人電信協会会長 若宮貞夫殿
 官立無線電信講習所設立ニ関スル件

 貴会は大正7年9月(注、実際講習を開始したのは大正 9年)国策的使命の下に無線電信講習所を設立し、爾来20有余年の長きに亘りあらゆる困難を克服して至難なる無線通信士の養成事業を鞅掌(筆者注オウショウ:仕事が忙しく暇のないこと)してきましたが、殊に支那事変発生後に於ける無線通信士の需要の増加に対しては良く政府の方針に速応して、所要設備の整備拡充を行い、極力収容人員の増加を図ると共に臨時の養成、其の他の措置を講じて、時局下の重要なる無線通信士の供給に不撓の努力を傾倒しました。今般大東亜戦争勃発に当たりましては陸、海、空無線通信の運用確保に支障がなく、戦争遂行上にも多大の貢献がありました事は国家の為慶賀に堪えざる所でありまして、ここに貴会の永年の御功績に対し深甚なる敬意を表します。然し時局の進展と共に、近時無線通信士の需要は更に急激なる増大を来たし、其の素質に就いても格段の向上が必要となりましたことを踏まえまして、政府は諸般の事情を考慮の上、無線通信士養成事業を直接逓信省に於いて経営することに決定し、昭和17年度より実施のこととなりました。実施に当りましては時節柄、経費及資材等の関係もあり貴会管理無線電信講習所の施設を移管し継承のこととすれば大きな便益があると考えられます。就いては以上の事情を御諒察の上宜敷く御配慮を賜りご面倒をおかけしますがご賛同を得たく御願い申上げます。

 この申込に対して電信協会としては講習所の施設を挙げて政府へ寄付すると云う事は頗る重大なことなので、まず理事会、商議員会を開いて慎重審議を行いその決議の後、昭和17年3月28日臨時総会を招集し協議した。会長は本件について次の通り出席会員に説明した。即ち「昭和17年度初頭から官立無線電信講習所を設置することとなり、今回政府当局からの公文書に依り本会の無線電信講習所設備を無償で政府が譲り受けたい旨、申入れがあったのでこれを本総会に附議すると述べ、本会が当初講習所を創設した経緯に鑑み、この際進んで講習所の設備一切を政府へ寄付するのが最も時期に適した措置と認める」旨の説明をして賛否を諮った結果、これを寄付することに出席会員異議なく賛成し、提議の通りこれを決議すると共に電信協会から次の寄付願書を政府へ提出することを決議した。

     昭和17年3月28日
     社団法人電信協会会長 若宮貞夫
 
 逓信大臣 寺島 健殿
 無線電信講習所施設寄付ノ件

 3月19日付電無367号に依る御下命の趣を承け賜りました。また本協会従来の事績に関し殊に御過賞に預かり誠に恐縮に存じています。御高諭の通り、本会管理無線講習所は無線通信士の養成の為、大正7年官民各面の希望と援助の下に創設しものであります。爾来、其の設備の改善と養成員素質の向上とに努め、当時に於ける斯界の急需を充たすことが出来ました。然し大戦後打続く経済界の不況は海運界にも深刻なる打撃を与え、本講習所に於いて折角養成した通信士も通信士と、ての職がなく、一時は多数の失業者を生ずるに立ち至りました。この救済の一助として、制度の改正に依り一時生徒の卒業を延期し、或は募集員を減少する等、種々の手段を講じましたが、素より需給調節の目的を達するには至らず、加えて生徒数の減少は直に協会の収入減を来たし、経理上にもまた確実な悪影響を及ぼしまして、当時の協会当務者の苦心は実に容易ならざるもので有りました。然しながら、将来我国運の進展に伴い、必ずや此種の技術員の需要が増大し、本事業に対して国家としても必要性が認められる日が恐らく遠くないと想い、難渋を凌いで本講習所の経営を継続してきた次第であります。然るに、其の後上記の予想に違わず昭和 11年頃より経済界は急速に回復し、船舶の建造せられるものが相次いで現れただけでなく、更に勃発した日支事変は航空機、其の他の方面に於いても著しく無線電信通信士の需要を喚起する情勢にありましたので、本協会は此の成り行きを考え、政府当局の協力を得て、翌12年初頭、新に短期修行の通信士養成を開始すると共に校舎其の他の設備拡張に着手致しました。しかし其の工事未だ落成しないうちに、早くも満州国建設に伴う諸般の計画及日支事変の進展は、船舶は勿論方面に異常なる活動を促進して無線電信通信し士の需要が増大して、既存の設備を以てしては到底之に対応する個は不可能となりさらに相次いで第二次、第三次の拡張を行い、最近ほぼ新設備の完成を遂げた次第であります。この新設備では約1,500名の生徒を収容し得ることとなりまして、今にして往時の苦難時代を追想する時は誠に感慨無量のものがあります。これ偏に官民関係各方面より寄せられた厚き御同情の賜物に外ならざることであり、本協会は感激せずには居られないところで有ります。以上の如く本協会が、過去20有余年に亘り鋭意苦心して本講習所を経営してきました理由も、要するに優秀な通信士を供給して、我国に於ける無線通信事業の進歩発達に資せんとする微意に過ぎないことであります。従って今、本講習所設備を政府に於いてこの目的の為に御使用相成りますことは、本協会の本懐とする所でありまして、依って本協会会員総会の決議に依り別紙目録の通り講習所設備一切を挙げて寄付致しますので何卒御受納して頂きたく御願い申し上げます。     
 敬具

 寄付物件目録:土地、建物、附属設備、機械類、
 什器類など(筆者注:詳細は省略)
 評価合計:1,438,559円(筆者円以下切捨) 
 再製概額合計:1,642,151円(上と同様)

 昭和12年から15年迄逓信省電務局無線課長として、講習所の主管課長であり、当時の事情をよく知る宮本吉夫(元逓信院電波局長)は「若宮貞夫先生追憶」の中で次のように述べている。「この文書が20余年にわたる講習所運営の苦心を述べているところは、読む者の胸を打つものがあり、若宮会長の人格と心情をそのまま反映したものであり、いかに戦争による要請であったとはいえ、多年の辛苦の上ようやく軌道にのった講習所を、無償で、国に寄付されるに至ったことは断腸の思いであったと想像する。それにも拘わらず、「本協会の本懐」と述べられ、些かの報償もなく、国に寄付提供されたのであった。」(注29)
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 3.8 藤沢市議会での審議

 逓信省は無線電信講習所の官立移管を進める一方、藤沢分教場の建設に関し大蔵省、藤沢市と交渉を進めてきた中村純一電務局長は藤沢市長に改めて校舎借入に関する公文書を送った。

 電務423號昭和17年3月24日

 逓信省電務局長 中村純一

 藤澤市長 大野守衛殿

 官立無線電信講習所校舎等借入ニ関スル件

 近時、無線通信の重要性が一段と増すのに伴いまして、無線通信に従業する無線通信士の養成に就いては海軍其の他の熾烈な要望もありまして、量質共に格段の向上を期することの必要を痛感せらるゝに至り、今般、無線通信士の養成事業を直接当省に於いてキ営することになりました。然しこの実施に就いては時局柄経費の関係を考慮しました結果、所要の校舎、寄宿舎等は借入に依るとの方針で、所要経費を昭和17年度予算に計上し、予算の成立を見た次第であります。所要校舎等新営の候補地を予て物色中の処、貴市域内に格好の敷地を認めましたので、該地に本件無線電信講習所を設置したいのであります。以上の事情を御諒察の上、この際貴市に於いて本件講習所新設に関する校舎、寄宿舎等を新営の上、これを政府に貸與方、御配慮を煩わしたく、照会致します。追って本件御承引を頂ければ、其の具体化の詳細に就いては、必要に応じ当省関係官に連絡をとらせることを申し添えます。(注30)

 大野藤沢市長は同年 3月 26日、藤沢市会を藤沢市役所に招集した。応招議員は24名であった。
 大野藤沢市長は開会宣言のあと(途中省略)「尚、申上げて置きますが、議案中官立無線電信講習所新設費起債に関する件に付いては、逓信省電務局の隅野無線課長ならびに講習所設立委員富永さんがお忙しい中をわざわざ御出席下さいまして、御説明下さるそうでありますから、左様承知願います」と説明、議会出席の承認がされた。議会には隅野無線課長、同事務官石川竹三郎、富永英三郎が出席した。(注31)(以下次号)

 注)本稿で引用した資料は最終稿にまとめて記載します。

 注21)365° vol28
 注22)若宮貞夫先生追憶
 注23)Wikipedia
 注24) 電気通信大学60年史
 注25) 目黒無線同窓會誌第9巻
 注26) 昭和財政史第三巻
 注27)28) 目黒無線同窓會誌第9巻
 注29)若宮貞夫先生追憶
 注30) 官立無線電信講習所新営関係書類綴
 注31)藤澤市會々議録
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政府は諸般の事情を考慮の上、無線通信士養成事業を直接逓信省が官立無線講習所として経営することに決定し、社団法人電信協会は政府に対して有する無線講習所の設備一切を寄付した。逓信省は、さらに拡大のため藤沢市当局を動かして校舎の新設等を鵠沼海岸に建造する計画を進めた。本号では藤沢市会での審議の状況について述べる。


4 藤沢市会

 4.1 官立無線電信講習所新設の起債(注32)

 昭和17年3月26日、藤沢市会に大野守衛市長は議案第29号「官立無線電信講習所新設費起債に関する件」を上程した。

 議案29号

 官立無線電信講習所新設起債ニ関スル件

 本市ハ官立無線電信講習所新設費ニ充ツル為 下記要領ニ依リ起債スルモノトス

 昭和17 年3 月26日 藤沢市長 大野守衛

     記

 1 起債額 金260万円

 2 利率 年4 分5厘以内

 3 借入先 大蔵省預金部又ハ其ノ他

 4 借入時期 昭和17年度但シ借入期日ハ借入先ト協定スルモノトス

 5 据置期限

 借入ノ月ヨリ昭和18年2月21日及ビ マデ据置。
 昭和18年4月1日ヨリ償還年限 向ウ25ヶ年賦トス

 6 借入及ビ 普通貸借ノ法ニ依リ借入別紙償還
 
 償還方法 年次表ノ通リ償還スルモノトス

但シ市財政又ハ其ノ他ノ都合ニ依リ繰上ゲ償還ヲ為シ償還年限ヲ短縮シ又ハ低金利ニ借替ヲ為スコトヲ得(以降及び別紙省略)


 4.2 逓信省説明と質疑応答

審議に先立ち大野市長は逓信省電務局長からの校舎等借入の公文(前号、電無423号参照)を読み上げ、更に逓信省の詳細な説明を求めた。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/2/13 14:00
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 ○番外(逓信省電務局隅野無線課長)(注33)

 先程ご紹介を頂きました逓信省電務局無線課長の隅野と云う者であります。只今市長から、私の方から差上げました公文をご朗読になりましたので、要旨はあれで尽きて居るのであります。時間の関係もありますので詳しいことを申し上げることは差控えます。ごく概略について簡単に申し上げます。

 ご承知のように無線電信電話と云うものの今日の地位と申しますか、その必要性に付いて、皆さん方は既によくご承知のことと思いますので、詳しいことは申し上げませんが、恐らく今日の通信手段としては最重要なものであり、世界各国共に非常に力を入れている問題であります。この通信手段は平時に於いても非常に重要なものであることは申す迄もないことでありますが、殊に、戦争遂行上の手段と致しまして、無線電信電話と云うものがどれ位其の形が変わり、如何なる効果を挙げて居るかと云うことは日常の新聞、雑誌、書物等で詳しいことは書いて居りますので、申し上げる必要はないかと思いますが、この方面に付いて、現在の日本は残念なことでありますが、世界各国に較べまして相当遜色があるのであります。機械、機材の整備、之が操縦、人員等の上に於いて相当遜色があるのであります。そこで斯の業に従っている者は、日夜非常なる苦心、努力を続けまして、其の成績の点に於いては、係の者として吹聴がましいことを言うようでありますが、技術的には必ずしも世界各国に較べて遜色があるとは言えない、私共当局に居ります者として、之が技術の向上、人員の増加、質の向上と云うことに多大の苦心を払って居る訳であります。所が只今迄の所、之を操縦致します人員の養成と云うことに付いては非常に遅れている憾があるのであります。今迄官立の学校は一つもなかった訳であります。陸海軍の方では需要に基づいて養成はやって居られるようでありますが、一般に於ける無線通信士を養成致します官立の学校と云うものはなかったのであります。

 世上に、いろいろと看板を掲げまして、無線通信学校と云うようなものが可成沢山あるように見受けられるのでありますが、これは皆何れも私立の学校であります。故に設備其の他一切の方面に於いて非常に不完備のものが多いのであります。実は甚だ申しにくい話でありますが、こうした看板広告につられて、田舎の青年が希望に燃えてこうした私立の学校に身を投ずるのであります。而して是等沢山の私立の学校と云うものは、現在我国の無線通信士の養成所として是等田舎の希望に燃えた青年子弟を託するに足るだけの域に到達して居ないのであります。

 ただ一つ逓信省の外郭団体で逓信協会と云うのがあります。元の逓信大臣田健次郎閣下がやって居られる東京目黒の無線講習所が信用するに足る立派な学校であったのであります。そこで近年政府に於いては、この目黒の無線講習所を何とかして拡充強化をして立派なものとしたいと云うので、補助金を出し、逓信省の現役の教官を派遣し其の養成に力を入れて居ったのであります。

 所が、支那事変が始まりますと同時に其の需要と申しますか、其の活動範囲も非常に拡大され、従って人員の不足が一段と加わり、更に昨年12月8日大東亜戦争勃発以来、皇軍の活動範囲も非常に広範囲に亘り、地域の連絡にはどうしても無線に依る他ないと云う現況で、りまして、皆様方もご承知のように、現に皇軍が進駐致して居ります南方地域は島々でありまして、交通も不便で有線電話に依る通信手段は困難であります。そこで、殆ど其の通信は無線電信電話に依って居る訳であります。殊に最近は軍艦及び一般の船等の通信の需要が非常に増加し、通信士の養成が急なること、その人員の数の点に於いては実に莫大な数の需要を訴えて居るものと信じて居ります。海軍方面に於いては、ご承知の通り商船其の他一般船舶の保護を致します関係上、どうしても其の連絡を無線通信に依らなければならぬことになりますので、一方に於いては船舶に乗り組んで其の操縦に当たらなければならぬ、それをやるには相当有能な技術者でなければならぬ訳でありまして、海軍方面に於きましては、作戦上の一大部門を占めるものであると云うように、極論致されてまして、昨年度、逓信省に無線電信電話通信士の養成に付いては速やかに予算を獲得して其の養成に当たるように要求されて参ったのであります。

 そこで逓信省と致しましては、東京目黒の無線講習所に眼をつけまして計画を進めて参ったのであります。ご承知のように、こうした要求がありましても、今直ぐにそう云う新しい学ケを即座に造って養成を始めると云うことはなかなか出来にくいのであります。そこで兼ねて、逓信省が保護助成して居りました目黒の講習所を昭和17 年度4月1日から官立学校に移管致しまして、教育其の他一切を、逓信協会(筆者注:電信協会の誤り)から本省に移すと云うことに相成った訳であります。そうして其の予算もご承知の如く議会を通過致しまして、昨日官制も公布され、新たに官立の無線講習所が生まれて来る訳であります。

 そこで問題は、先程から縷々申し上げましたように過去に較べて、其の養成人員も遥かに多くなり、大体約2,000人位を収容する予定でありますが、従来の目黒の講習所の設備だけでは、それだけの人数を収容することが出来ないのであります。そこで其の収容し得ない人間を何処か他に場所を求めて収容しなければならぬ関係が一つと、他に養成する生徒の中で其の訓練場の関係、即ち船に乗り込んで、通信訓練をさせなければならぬ関係上、成るべく海軍方面とも連絡の便の良い適当な場所に学校を建てて貰いたい、そうして日常座臥(筆者注:ふだん、いつでもの意)海員に関する訓練をやって欲しいと云う要求があり、海軍の方ではそうして養成した人間を要員として充て、いと云う要望切なるものがありましたので、何処か適当の地を求めて、校舎を建て、寄宿舎を設けなければならぬと云うことを考えて居ったのであります。

 そうして尚、問題として残りますのは目黒の校舎が其の儘残っていることであります。そうすると学校が二つに別れると云うことは非常に不便と面倒が生じますので、一ヶ所に全部の生徒を収容し得るようにと云う計画の下に、予算を計上し、臨時費として大蔵省に出したのでありますが、残念なことでありますが、当今、皆さん方もご承知のように、国家の財政も当面の戦争目的完遂のために全力が注がれて居る際で、斯ヘな臨時的な設備のために急に多額の経費を計上すると云うことは甚だ難しいことであります。大蔵省に於いても本件建設の趣旨は十分に認めてくれたのでありますが、今直ちに多額の経費は出せない、そこで大蔵省でもいろいろ心配をしてくれて、何等か適当の機関又は公共団体に其の校舎、寄宿舎の建設を願って、政府がそれを借用するようにしたなら如何か、即ち適当なる貸主を求めて、逓信省が之をお借りするようにしてはどうかと云うので、大蔵省でもそれを認めて相当額の金の支出を認めてくれたのであります。私共としても急を要することでもありますので、関係方面とも連絡致しまして適当の土地を物色したのであります。そうして海軍関係とも密接な関係のある湘南海岸が非常に好適の地であると考え調査致しました所、偶々鵠沼海岸の某地点、皆様方もご承知かと存じますが、川沿いに好適の地がございましたので、関係当局とも相談致しました結果、非常に結構であると云うことに、略々話は決まったのであります。

 併し土地は非常にいいのでありますが、其の土地を買い求めて校舎を建て、寄宿舎を建てて頂く人がなければならぬ訳であります。この点に付いて私共非常に心配を致しましたが、当サの方で、そう云うことであれば藤沢市の方で土地を買って、建物を建ててもいい、国家の重要な仕事であり一日も忽せにすることが出来ない、左様な事情であれば国策に寄与する意味に於いても其の役割を買ってあげてもいい、と云うようなことでありましたので、私共も非常に欣びまして、早速逓信大臣始め関係各大臣に報告を致しました所、藤沢市でそこまで尽力して下さると云うことであれば願ったり適ったりである、是非共其のようにお願いして見ようと云うので、私共関係官が一応具体的な説明を申し上げ、更に電務局長から公文で御願書を差し上げ、本日、市会に本件の提案をするからと云うことを承りましたので、罷出まして説明とお願いを兼ねて皆様方の御尽力をお願いするような次第となった訳であります。

 そこで私共として皆様方にご説明を申し上げる前に一番心配致して居りますことは、この仕事をお引受け下さいまして将来市の財政にどう云うふうに、それが響いて来るかと云うことであります。これは皆様方市会議員として、先ず、第一にご心配になる点であろうと思いますが、この点に付いては、私共は寧ろ市以上に心配を申し上げて、出来るだけ有利にと申しますと、甚だ語弊があるかもテれませんが、出来るだけ市の方にご迷惑がかからないように、市の財政に影響のないように、物質的なご損失と云うことは極力避けますことは勿論でありますが、其の他本件に関し市の方でもいろいろ出費を要されることもありましょうし、またご厄介なことをお願しなければならぬこともあると思いますので、出来るだけ融通のつくように計算を致して居るのであります。

 大体以上が大要でありまして、細かい数字に付いてはご質問に応じてお答え申し上げたいと思います。財政的にはこの数字で参りますとそう負担のかかるものでなく、将来に於いてもそうお困りになる程度のものではないと信じて居ります。

 どうか其の意味に於いて、今、申し上げた、国が一番重要性を認め、而も緊急を要する本件建設のために十分なる理解を以て寄与下さいまするならば、洵に有難き極みであると、こう思うのであります。実現致しました暁に於いては、2千人近くの生徒、これが養成に従事致します所員と致しまして所長以下約150名の者が罷り出まして、大変、御市にご迷惑をかけることと思いますが、何れに致しましても、結局は御市に面倒を見て頂かなければならぬことと思いますので、本件を直接お引受、下されば、私共非常に結構なことと思います。

 逓信省と致しましても大蔵省と連絡致しまして、極力市の方に便宜を与えますように予算を編んで参るつもりで居ります。ご承知の通りに国の予算計画は、年毎に更改致しますので、今直ちに、我々の希望して居るような額は得られないのでありますが、将来、無線電信電話の重要性に鑑み、この講習所は無線大学として大きな役割を持つようにならなければならない、斯様な希望と抱負を持って居ります。どうか私共の意の有る所を諒とされまして、本件実現のために寄与して頂くようお願いを致しましてご挨拶に代える次第であります。
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 ○25番(中田吉堯君)

 この問題に付いては先般市会の全員、協議会の際に石川事務官から詳細に内容を伺いまして、大体内容は承知して居る訳でありますが、愈々本案が市会に提案されましたについては、二、三お訊ねして内容を伺っておかなければならぬと思います。

 第一は260万円の起債額でありますが、石川事務官のご説明では無線講習所の予算総額が260万円で、目黒の講習所が逓信省に移管になり、既設の設備、建物、土地そう言ったようなものが相当あることと思いますが、その方は如何になるのでありますか、それも260万円の中に含むのでありますか、土地、建物の外に機械設備も含むものでありますかどうか、又起債に付いて、こう云うような時局であり、地方自治体と致しまして、緊急欠くべからざるものを起債致しましてもなかなか許可にならないと云うことを聴いて居ります。併しこれは政府の仕事でありますから勿論間違いはないと思いますが、直接の認可権を握っているのは大蔵省らしいのでありますが、之は直ちにでなくても、相当短い期間内に於いて認可になるお見込みでありましょうや否や、それから市の起債の建前として昭和18年度から向う25ヶ年賦で支払すると云うことになって居りますが、これは起債の場合の表面的な建前であって形式的なもので、逓信省の都合のいい時に買収される、斯様に考えて居るのでありますが、25ヶ年もずっとこの儘継続されると云うことになりますと財政上の点から言いましても多少考慮する点があるのではないかと考えられるのであります。

 市の財政としては260万円と云う金は相当大きな額でありますが、国の財政から言うと国家が必要なる急を要する事業として認めて居るものであれば260万円ばかりの金を予算に計上するにしても、亦、計上された予算の中から支出するにしても、そう大きな金額ではないと思われますので、近き将来に於いて買収が出来るのではないか、少なくとも2、3年の後には買収されるのではないか、斯様に考えられるのでありますが、この点は如何でありましょうか。

 それから、若し昭和17年度に借入手続きを終了するとして致しましても、例えば非常に急速にそれが運んで5、6月ごろに金は借入れが出来るようになっても、即ち土地等は借り入れが出来れば直ちに買収が出来ましょうが、建物はなかなか直ぐには出来ない、少なくとも1ヶ年以上はかかると思いますが、其の間の賃貸料は如何になるのでありましょうや。建物がすっかり出来上がってしまわなければお支払いにならないものでありましょうか。其の点も一寸伺っておきたいと思います。

 それから借入し、利子と賃貸料の差額、市の財政上相当考慮して下さると云うお話でありましたが、数字的なご説明を伺いたいと思います。(この項次号に続く)

 注) 本稿で引用した資料は最終稿にまとめて記載します。

 注32)官立無線講習所起債関係書類

 注33)藤澤市會々議録(昭和17年3月26日)

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