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電気通信大学藤沢分校物語 (1) 2

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通常 電気通信大学藤沢分校物語 (1) 2

msg# 1.1
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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/2/13 12:44
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 1.2無線電信の実用化

 1908年(明41)ベルリンで締結した万国無線電信条約が公布され無線電信による公衆無線電報取扱が開始された。この条約は無線電信機器の機能についての考慮と無線通信従事者の技能についての要求が含まれていた。無線通信者の養成が必要になってきたのである。唯一の養成機関の逓信省通信官吏練習所(後の逓信官吏練習所、通称官練)で養成することになり、同ヌ卒業生25名を海岸局、無線電信局に勤務させた。以後大正末期まで臨時養成を行ってきた。1912年(大元)タイタニック号が沈没した。

 1915年(大4)「海上人命安全条約」が発効し、搭載人員50名以上の外国航路は全て無線電信設備が必要になり、同年新たに無線電信法を制定しこれに伴う私設無線電信規則、通信従事者資格検定規則も施行された。無線電信局は船主が施設する純然たる船舶の救難、航行の安全、船舶の事業用の設備となった。1914年(大3)に勃発した第一次世界大戦の影響で危険海域を航行する船舶は義務に関係なく、無線電信を必要としていた時代で、船主は敷設を急ぎ、メーカーは無線電信機器製造に追われていた。私設無線電信は主に船舶の無線電信であったが、官練は専門の官吏を教育する機関であるから、私設無線局に配置するわけにはいかないし民間人を養成することも出来ない。然し、通信従事者がいなければ航海出来ないので、逓信省は臨機の措置として1916年(大5)官練無線科卒業者を私設無線局に配置、そしてその後の私設無線通信従事者の養成は無線機製造会社に任せたのである。しかし、船舶会社の通信従事者の獲得には相当の色々な苦労があった。


 1.3帝国無線電信講習会の開設

 そのような背景の中で逓信省の方針、海運界各方面の要望に応えて、安中電機製作所(現安立電気.)が1916年(大5)港区の自社工場内に「帝国無線電信講習会」を開設し、従事者の養成にあたり300余名の検定合格者を出し、従事者払底の危機を救った。無線電信機及び従事者の大量需要の時代を迎え、1917年(大6)協会に新たな無線電信講習所の建設経営という問題が持ちあがったのである。


2 電信協会管理無線電信講習所

 2.1民間養成所の継承決意

 1917年(大6)12月、電信協会は帝国無線電信講習会を継承経営することに決定した。その理由は逓信省の勧めと、青山禄郎安中電機製作所社長の「一民間製造業者が、無線通信士養成などの公共的性格の事業を兼営すべきでない」とする判断に基づいて、同社が経営する帝国無線電信講習会を電信協会に譲渡したいとの申し出があったことによるが、海運業者からも逓信省に対して無線従事者養成機関を強く要請した等の緊迫した事情によるものでもあった。

 2.2海運会社から予定を超える寄付金

 1918(大7)年7月、若宮会長は関係有力者を帝国ホテルに集めて、「電信協会において国家のための無線学校を創設する計画」を説述し、予算案を提示して協賛を希望した。定款に「④電気通信技術員ノ養成ヲ為スコト」が加えられ、以後の協会の主体をなすものとなった。当時一般産業は好景気で、殊に海運界の活況はすばらしく、日章旗は世界各国にひるがえった。諸外国では船舶の無線電信施設を義務付ける法規を採用する傾向が著しくなってきた。従って無線電信設備をする船舶が激増し、また無線通信従事者の需要も急増し、その速成が海運業者方面から熱望されるような状況であったので、寄付金は予想以上の多額に達した。寄付者は日本郵船(株)以下37社、寄付金総額は46万1千円であった。

 2.3社団法人電信協会管理無線電信講習所の開設

 1918年(大7)12月7日、社団法人電信協会管理無線電信講習所が麻布区飯倉町に開設された(電気通信大学の歴史が始まった)。1919(大8)4月ニ町の幼稚園の階上を仮教場として31名が入学した。7月には東京府豊多摩郡渋谷町(安中電機製作所)に講習所支所を設置し、短期講習科の授業も開始した。1920年(大9)12月、下目黒村に土地(3,775坪)、総建坪(約262坪)、建物延坪数(約451坪)の新校舎が落成した。土地の買収価格約98,135円、工費119,800円であった。爾来10数年間、私設無線電信施設への無線通信士の安定供給は、無線電信講習所通称「目黒無線」の一手にゆだねられてきた。

 2.4私立無線学校の濫立

 1931年(昭6)満州事変後各方面で無線通信士を多数必要とする情勢となったにも拘わらず、日本唯一の電信協会管理無線電信講習所の通信士養成の拡充も思うように伸びず、更に急激な通信士需要(供給は数分の一)に直面し、遂に各所に私立の無線学校が設立されるに至った。昭和10年までに設立された私立無線学校は5校であったがその後19校に達した。19校の内、各種学校として府県知事の認可を受けたものは10校であるが、認可はしたものの適切な指導監督は行われなかった。私立無線学校はごく一部を除きその経営方針は営利主義で私立無線学校の評判は地に堕ちた。国家試験による所定の資格を取得できる人はその1%にも達しない状況であった。
 然し、通信有技者の需給逼迫の時局柄、通信術だけで資格を必要としない大陸軍関係の需要が急激だったため、卒業者の約半数が無資格のまま通信に従事することになり、この間太平洋戦争に突入し、次第に計画的教育、配員の必要に迫られるのである。

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