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電気通信大学藤沢分校物語

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通常 電気通信大学藤沢分校物語

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿.1 .2 .3 .4 .5 .6 .7 .8 .9 .10 .11 .12 .13 | 投稿日時 2015/2/13 12:19 | 最終変更
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 はじめに

 スタッフより

 この投稿(含・第二回以降の投稿)は「電気通信大学同窓会社団法人目黒会」の「CHOFU Network」よりの抜粋です。
 発行人様のご承諾を得て転載させて頂いております。

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 誕生から廃校まで

 近藤 俊雄(33B)

 はじめに

 私は、1958年(昭33)に電気通信大学を卒業して東京の会社に職を得た。1964年(昭39)に経堂から藤沢市辻堂に越して、1977年(昭52)鵠沼海岸に移り、爾来46年余になる。1986年(昭61)目黒会の理事に指名され、1992年(平4)から1997年(平9)まで廣神三木雄会長(33T)の下で専務理事をつとめた。(目黒会報11-2:私の交友録、15-3:私の目黒会の思い出)その後、現在まで広報委員として目黒会に関わっている。会社も定年となり、会社社会から離れると共に、地域でのサークル活動が深まり、仲間も沢山出来て、この地にやっと根をおろした気がしている。

 2010年(平22)5月、近くにある鵠沼郷土資料展示室で「なつかしき学び舎その6」として「湘洋中学校」の資料が展示された。藤沢分教場の写真には「昭和19年建設の旧電気通信講習所の木造2階建ての建物と敷地。戦後、電気通信大学となる。ここに昭和31年4月1日、藤沢市立湘洋中学校が開校した。」と説明文が添えられ、学校の写真数葉と資料が展示されていた。湘洋中学校を卒表した娘に「お父さんは湘洋中学に泊まった事があった」と言った所、「えぇ!どうしてなの?」、「かくかくしかじか」といっとき会話がはずんだ。

 大学2年の1955年(昭30)夏同級生数人でこの鵠沼の学校寮に泊まり、麻雀、海水浴を楽しんだ。その後、この土地に住んだ私は、大学の浜見寮に気付き、この辺に学校寮があったなとボヤーと思っていたのであるが、それ以上を考えた事は無く、深く追求する事は無かった。鵠沼郷土資料展示室で写真・資料を見て初めてうかつにも「エッ、そうだったのだ」と気付いたのである。私の知った藤沢の殆どの人達はこの地に電気通信大学が存在した事も浜見寮があるのも知らない。卒業生は寮があることは知っていても、湘洋中学校が、電気通信大学の跡地にできたと知っている人は多くないだろう。この私自身も詳しいことは知らない。そこでこの機会に、目黒会、大学、藤沢市、先輩や関係者達に残る資料をたどり、証言などを求め、藤沢分校にスポットライトを当てた、「藤沢分校の歴史」を甦らせたいと思ったのである。

 電気通信大学は1918年(大7)12月7日社団法人電信協会管理無線電信講習所としてここの声をあげ、その後校名が3度変更された。即ち

 1942年(昭17) 逓信省所管官立無線電信講習所、
 1945年(昭20)逓信省所管中央無線電信講習所、
 1949年(昭24)文部省所管電気通信大学である。

 藤沢分校の歴史を紐解くには電信協会管理無線電信講習所の前身である電信協会から語られねばならない。そこで本稿では逓信省所管官立無線電信講習所の成立までを、主に電気通信大学60年史(以下60年史という)を参考に、特に校名変更時の背景の流れを重点に抜粋、要約し、紹介する。


1電信協会

 1.1電信協会の成立

 1879年(明12)1月「万国電信条約」に加盟し、同年4月ロンドン第2回万国電信会議にも参列したにも拘わらず、依然として不公平な取り扱いを受けていた。関係当局は勿論、関係者は通信の技術、行政に関する強力な研究、調査の機関を必要とする機運が高まっていた。若宮正音電務局長(後、電信協会会長)は電務局電気試験所浅野応輔博士(1903年、水銀検波器の発明)の進言を受け、電気通信事業に関する「①学術技芸ヲ講究スルコト、②法理ヲ講究スルコト、③事業ノ拡張整理ノ方法ヲ講究スルコト」を目的として1893年(明26)電信協会を組織した。入会者は790名であった。マルコーニは1895年(明28)電波式の無線電信送受信に成功した。

 電信協会は当時としては電気通信関係全般にわたる研究、事業の唯一の機関であったといえる。特に1904年(明37)の日露戦争における作戦、戦略、戦術、後方支援等のための電気通信が日本海海戦に象徴されるような驚異的威力を発揮した。その陰には本会及び会員のたゆまぬ努力と熱意が効果を上げていたことはいうまでもないことである。













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