電気通信大学藤沢分校物語
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- 電気通信大学藤沢分校物語 (4) 2 (編集者, 2015/2/13 14:07)
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- 電気通信大学藤沢分校物語 (6) (編集者, 2015/2/13 14:40)
- 電気通信大学藤沢分校物語 (6) 2 (編集者, 2015/2/13 14:42)
編集者
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前号では、藤沢市会に上程された「官立無線電信講習所新設費起債に関する件」について、逓信省側の説明がされ、質疑が行われた事を述べた。今号も、引き続き市会での質疑応答を紹介する。
4.2逓信省説明と質疑応答(続き)(注41)
○番外(逓信事務官石川武三郎君)
逓信省の石川でございます。私からご説明申上げます。
ご質問の第一は260万円の起債額の中に土地、建物、機械設備を全部含むものであるかどうかと云うお訊ねのように拝聴いたしました。この点に付いては先程無線課長から説明申し上げましたように約2千人の生徒を収容するのでありますから、それに対する土地、建物だけで、約260万円はかかると云う見込みをつけて居るのであります。
それ以外に相当設備費がかかる訳でありますが、これに付いては現有の逓信協会(注42:電信協会の誤り)の目黒講習所の設備を移管する他、各省に於いても関連の予算額の中から、相当額の支出をして頂ける見込みであります。現在、目黒の講習所の土地建物其の他の設備を売却すると時価約100万円位になります。そこで其の売却金をこちらに貰うよう大蔵省と交渉中でありますが、若しそれが出来れば260万円の中からその分だけ引ける訳で、従って藤沢市にご厄介になるとすれば、160万円で済む訳であります。併しこれは目下交渉中でありますので、はっきりしたお約束はできないので、一応260万円全部を藤沢市でやって頂く事にして、賃借料としては起債額の7分6厘の予定で、予算を計上致して居ります。
次に、起債に当たって時局柄認可が困難のように思われるが、逓信省側として大蔵省の方に認可になるよう積極的に斡旋して欲しいと云うようなお訊ねに承りましたが、これに付いては、勿論言われる迄もなく逓信省側としては尽力するつもりで居ります。この事に付いては先程も無線課長から申上げましたように大ツ省でも其の緊急なる必要性は十分認めて居るので、そうご心配になる程の事ではないかと思います。尤も起債を認可する方と、予算を承認する方との部局は違うかも知れませんが、多少の曲折はあるかも知れませんが、国として其の趣旨を認めている以上、多少の日時を要することがあるかも知れませんが、これは最後に於いては纏まるものと信じて居ります。
次に償還年限の25年と云うのは長きに過ぎはしないか、成るべく早い機会に於いて買収して貰いたいと云うご希望のように承りましたが、これに付いても、国の財政が許すならば、出来るだけ早く国有のものとしなければならぬと云うふうに考えて居ります。私共としてもこれは言われなくても、出来るだけ早く実現するように尽力するつもりで居ります。
次に初年度に於いて建物が出来上がらない中に賃借料を払って貰えるかどうかと云うお訊ねのように承りましたが、之は其の場合の契約に依って決まる問題でありますが、前にも申しましたように、市の財政に悪い影響を及ぼさないようにと云う事は十分考慮して居りますので、或る程度の金利は勿論支払わなければならぬと云うふうに考えて居ります。以上の通りであります。
○25番(中田吉堯君)
詳細なるご説明がありまして大体の事は承知致しましたが、尚重ねて一寸伺って置きたいと思います。起債認可の点に付いては、予算を取る方と認可の方は部局が違うから多少の曲折はあるかも知れないと云う事でありましたが、これは勿論の事でありますが、確実に認可になるように大蔵に対して十分に交渉をなさって居られるのでありますか。或いは多分認可になるであろうと云う見込みなのですか、それとももっと突っ込んだ交渉をなさって、既に諒解済みなのでありますか。
次に買収期限の問題でありますが、成るべく早い機会に、云う事でありましたが、凡そどの位の期間と云うご予定でありますか、確実な事が分かって居れば序に伺いたいと思います。
○番外(逓信事務官石川武三郎君)
大蔵省の起債認可の件に付いては、実はご当市の方と具体的な事が決りましてから、其の方に出向いて交渉しようと云うように考えて居りました。未だ連絡はして居りません。併しこれは確実に認可になるだろうと云う信念を持って仕事を運んで居ります。
次に買収の時期でありますが、只今の所では、こうした時局でありますから何時になったならば、それが実現するか、はっきりした時期は私共にも分かりません。今後何年間の中に確実に買収できると云う見透しは、只今の所実は出来かねます。出来るだけ早い機会に、国有に移すよう十分努力するつもりでありますから、この程度にご諒承願いたいと思います。
○25番(中田吉堯君)
大変失礼な事を伺いましたにも関わらず、お咎めも無くご親切なご答弁を頂きまして、当局の意のある所は十分に諒解しました。本件は時局下、重大なる国家的事業であり、而も緊急を要する事業でありますので、市と致しましても喜んでお仕事に協力致そう、云う事で、本日本案を提出された事と思います。本市としては国家の重大事業と云う事を抜きに致しましても、私共の、住んで居ります市の発展のために貢献する所、又大なるものでありと信じて居ります。従って本案に対しては喜んで賛成を致すものであります。併し何分にも斯様な時節でありますので、実際に仕事をする上に於いて市財政上の点に付いても色々と考慮すべき点があると思いますので、本件執行に当たっては、9名乃至10名の委員を挙げて本事業の完成を期すると同時に一方財政的にも考慮して行きたいと思います。
委員会を設けて仕事を進めて行くように希望意見を述べまして本案に賛成するものであります。
編集者
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○19番(山内泉君)
色々ご説明を伺いまして、其の事業が国家的に緊急且つ必要なものであると云う事はよく承知して居りますが、先日の全員協議会に於いて承りました事、本日の石川事務官のご説明とは少し喰い違いがあるように思いますので、一寸重ねてお訊ね致します。先日のお話では、これは政府の仕事であるが、予算を取る関係上それが間に合わない、急を要するものであるからお願いする、自治体にあまり長い間の負担をかけたくない、逓信省としては出来るだけ早く予算を取って買収するつもりである、既設の目黒の講習所の土地、建物等を売却すれば相当財源も入って来るから長い事ではない、急速に近い間に逓信省で買収すると云う意味に、私はセ知して居りました。この点に付いて今少し皆さんにはっきり諒解の出来るように説明して頂きたいと思います。
○番外(逓信事務官石川武三郎君)
政府事業であると云う事は先程も無線課長が説明申し上げた通りで、其の買収も出来るだけ早い機会に於いて実現するよう努力する事は当然でありますが、それが先程も申し上げましたように、来年であるか、5年先であるか、確実な見透しは、今の所はっきり付いて居りません。直ぐに買収出来るのだと云うように諒解されて居ると困ります。そう云う意味で申し上げたのではなかったのであります。
○19番(山内泉君)
起債の形式に依ると償還期限が25ヶ年になって居りますが、金銭の貸借関係は官庁の間でも個人の間でも、期間が長いと其の間に予定通りに行かない事が起きる心配があります。若し、金利に追われて25年経過して元金が支払えないと云うような事になりますと困りますので。
○番外(逓信事務官石川武三郎君)
そうしたご心配は一応ご尤もの事と思いますが、若し最悪の場合25ヶ年かかると致しましても、その間に於いて金利、元金も償還出来るよう予定してある事でありまセ垢・蕁・br />
○19番(山内泉君)
其の間の修繕その他の費用は如何になるものですか。
○番外(逓信事務官石川武三郎君)
それは契約に依る事でありますが、大体今迄の例に依りますと、借主の国に於いてやって居るようであります。実際の状況から言っても使用して居る方で、暇がかかったり、手続きが面倒でありますと不便を感じますので、成るべく借主の国に於いて修繕をやると云うのが例になって居るようであります。
○番外(逓信省隅野無線課長)
私からも附け加えて申上げておきます。成るべく早い時期に買収したい、政府のものにしたいと云う念願をもって居る事は、これは間違いのない事であります。ただ、其の時期に付いては今の所、はっきりと何年後と云う見透しはつかない訳でありますが、現在の所では少なくとも2,3年或いは5,6年間は手が出ないのではなかろうかと思います。
次に起債償還に付いてのお訊ねでありますが、こうした例は他にもあるのであります。逓信省としては、名古屋市で郵便局を建てて貰って之を賃借する、そうして25年経てば大体元利金一切を償還して政府のものとなる、若し25 年ー内に予算の都合が付けば、其の差額を払って、決済して行くと云う方法を執って居ります。尚、本件に付いては御当市に色々と迷惑をかける事もあるかと存じますが、何れ実行委員のお方が出来れば、詳しい数字をお目にかけられると思いますから。
次に修繕の件でありますが、これは只今石川事務官が申し上げましたように、今迄の例に依ると、逓信省の営繕係がやって居るようでありますから、そう云うようなやり方になると思います。
編集者
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投稿数: 4298
○30番(小川桂助君)
先程のご説明に依り無線通信士の養成と云う事は、国家的に緊急且つ重要性を持つものであると十二分に認識して居ります。こうした時局下に在っては、個人たると団体たるとを問わず、国家目的達成のためには相当の犠牲を忍ばなければならぬ事は当然の事と思います。而もご説明に依りますと、其の国家目的を十分に達すると共に市の発展がそれに伴うと云う事になりますので、洵に結構の事と思います。
ただ問題は財政上の事であります。私の聴かんとする所を平ったく申上げますれば、本市が本件のために起債を致しまして、相当膨大なる所の金額でありまするが、これを年々歳々償還して行かなければならぬのでありますが、この償還に当たって、こちらから償還すると同時にそちらから入って来ると云う建前の下に計画されたものであろうと思いますが、それが円滑に行けば問題はありませんが、こちらは払うが、そちらからは入って来ないと云う事になると困ると思います。それから金利でありますが、これも平ったく言うと当市で借りる方は4分5厘でそちらからは7分6厘に相当する賃借料をお払い下さると云うお話でありましたが、そうすると当市の方で3分儲かると云う事になりますが、それが円滑に確実に行けば、強いて買収云々と云う事を考慮する事もないと思います。市に於いて土地、建物を提供するのか、或いは又金だけ借りて提供するのか、其の点を今一度はっきり伺っておきたいと思います。
○番外(逓信事務官石川武三郎君)
ご心配の点ご尤もの事と思いますが、これは政府で賃借するのでありますから、支払いの点に於いてはご心配ないと思います。又其の賃借料も市で借入されるのは4分5厘で、逓信省で払う賃借料は7分6厘でありますから、ご当市に於いてご損になるような事は絶対にないと思います。先程も25年も継続して償還する事は如何かと云うご質問もあったよう、ありますが、其のまま据置いた所でそうご厄介になるものではなかろうかと思います。併し念のために申上げて置きますが、只今お訊ねのように3分1厘全部が儲かる訳では(笑声)ありません。
○13番(広瀬久君)
只今のご説明でよくわかりました。修繕を確実にお引き受け下さると云う事であれば安心であります。金の方は償還すればそれだけ宛て金額は減って参りますが、建物の方は海岸でもあり、風のひどい場所でありますので25年も経ちますと相当に傷むと思いますので、修繕を確実にやって頂くと云う事であれば安心であります。
○番外(逓信事務官石川武三郎君)
今迄の例に依りますと主家(筆者注:おおや)さんはなかなかやってくれないのでどうしても借主の方でやるようになります。本件もそう云うふうになるであろうと思います。(「それならば安心だ」と呼ぶ声があり)
○番外(市長大野守衛君)
この問題に付いては逓信当局と市との間に固い契約を結ぶ必要がありますので、理事者に於いても慎重に考えまして、其の契約の案文に付いては又改めてお願いする事に致したいと思います。
その辺の事はご安心下さるようにお願い致します。(注43)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
○5番(石井光三君)
皆さん方のご質問で大変よく分かりました。今迄の質問は市に損が行きはしないかと云う点に重点があったようであります。(笑声)私は反対に市に得が行きはしないかと云う意味で重ねてお訊ね致します。中途に於ける買収と云う事を抜きに致しまして年々償却致して参りますと、25年後にはそれだけ財産が残ると云う事になります。私の考えますのは、それだけ市の得になるのではないかと思います。そうして最後に償還を終わった際には、其の土地、建物を献納すべきものであるかどうか。そう云う事が契約書に入りますかどうか、其の点を伺いたい、私は得が行く方で心配になる。(笑声)私共はそうは思いませんが市民の中には25ヶ年の償還年限が過ぎれば其の土地、建物はそれだけ丸儲けになる、市がそれだけ得をすると云うふうに考える人があると困りますので、そう云う点に付いてのお見込みをはっきり伺って置きたいと思います。
○番外(逓信事務官石川武三郎君)
大体契約書の中にそう云うような事が入ると思います。25年過ぎれば無償で国に寄付をすると云うような契約になるであろうと思います。(笑声)
○16番(山上八造君)
私は、一番最初の協議会に出席してませんでしたので、当時の内容に付いては全く知りませんのでございますが、初めて本案が提出になりまして各方面からの意見、質問等を聴きまして、洵に時代に相応しい、而も今日の場合、急速なる必要性と云う事を痛感致しました一人でございます。この場合細かい内容其の他に付いて、彼是申上げる意思は毛頭持って居りません。斯くなりました以上は一日も早く本校舎の建設事業が出来るように、理事者に於いても今一段のご配慮、ご心配をお願致しまして、これが迅速に何とか国家のお役に立つように地元民としては熱心に献身的にこれが実現に寄与するように致したい、こうした希望を述べお願いをする次第であります。
○議長(鈴木勇君)
他にご質問はありませんか。
○議長(鈴木勇君)
それでは議案第29号の第一讀会はこれで終わる事に致しまして決を執りたいと思いますが。
(「異議なし。賛成」と呼ぶ者あり)
○議長(鈴木勇君)
それでは左様取扱う事に致します。議案第29号にご賛成のお方は御起立をお願いします。
(総員起立)
藤沢市会に於ける逓信省の説明は、「現有の逓信協会の目黒の講習所の設備を移管した」としているが、「逓信協会」は誤りである。即ち、昭和17年3月24日付の公文書「電無367号」「官立無線電信講習所設立ニ関スル件」に於いて逓信大臣寺島健は、「昭和17年度より無線通信士養成事業を、直接逓信省に於いて経営する事に決定し、時節柄、経費及び資材等の関係もあり、電信協会管理無線電信講習所施設を移管し、継承の事とすれば大きな便益があるので、ご配慮を賜りたい」と社団法人無線電信協会会長若宮貞夫宛てに申入れている。(本物語②参照)
次号で、更に「逓信省の説明」の内容について触れる事にする。 (以下次号)
注) 本稿で引用した資料は最終稿にまとめて記載します。
注41) 藤澤市會々議録(昭和17 年3月26日)
注42) シ号で述べる。
注43) 同年5月「官立無線電信講習所校舎等貸借要綱」が成立した。
編集者
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投稿数: 4298
4.3
藤沢市会に於ける逓信省説明の真意前号まで 2回にわたり藤沢市「官立無線電信講習所新設費起債」の議事録を紹介した。議事録には、逓信省の説明に誤りがあり、また読者からの同様なご指摘により、その都度ト正したが単純なミスとは考えられないので本号で検証する。ミスの箇所とは「現有の逓信協会の目黒講習所の設備を移管する」「一切を逓信協会から移す」(注 51)のくだりで、何故電信協会を逓信協会と発言したのかの疑問がある。更に新たに指摘するのは「元の逓信大臣田健次郎閣下がやっておられる東京目黒の無線講習所が」のくだりで(注 52)、何故、田健次郎を若宮貞夫としなかったのかの 2箇所である。尚、文中の氏名敬称は略させていただいた。
1942年(昭 17) 3月に行われた主な進捗経過を下表に示す。
3月 26日の藤沢市会での逓信省発言の疑問箇所は、他の資料とは全く整合性が無くむしろその違いの大きさは奇異にさえ感じられる。各資料が示すように電信協会を中心に進んでいた官立移管が突如 3月 26日だけ逓信協会に変わり、 3月 28日には再び電信協会に戻るのである。これは何故か?
結論から云うと「逓信協会」を「電信協会」に、「元の逓信大臣田健次郎閣下」を「元の逓信次官若宮貞夫電信協会会長」に訂正するのが妥当であろう。
1)第 1の疑問:前号で説明の通り「逓信協会は」は「電信協会」が正しい。
2)第 2の疑--------------------------------------------------------------------1930年(昭5)に死去しており、 1918年(大7)から 1942年(昭17)の移管まで経営をしていた貞夫が最大の功労者である事は多くの資料で明白である。
「若宮貞夫先生の追憶」(注 53)の中で「大東亜戦争の勃発により、俄に無線電信講習所の官立移管機運が高まり昭和 17年 1月に至り電信協会の若宮会長の内諾を得て官立無線電信講習所の経費が追加予算に計上され閣議決定された」と宮本吉夫氏は述べている。その経過を充分に承知している筈の担当の、隅野無線課長、事務官が計 3度も逓信協会と発言した事は単なるミスとは考えられない。又、議会書記のミスとも考え難い。
それではどのような理由があったのだろうか?
私はその謎を次のように推定する。その疑問を解く鍵は電信協会会員総会の開催日、即ち「講習所設備一切の寄付」の決議が行われる 3月 28日にある。即ち、 26日に講習所の財産を説明する藤沢市会では、「寄付の決議」は 2日後になるため、「逓信省に電信協イから財産が寄付された」との公表は出来ないとし、やむなく逓信省に関係の深い「逓信協会」、「田男爵」の名を使っての苦しい説明にせざるを得なかったのではないか?私には、今、確たる資料がないので断定は出来ないが、恐らく「寄付未決の対処策」であったと推定する。
4月 1日開所に向けての準備段階の時間の不足が最大の原因であり、更に後年、藤沢市会々議事録が、一般公開される事も想定外であったので、このような説明を考えたと思われる。ところで、総会が 28日に設定された経過は不明である。尚、電通大 60年史には財産寄付問題に関して興味深い事が語られている。「官立に移管する時、財産をどうするか問題になった事がある。当然電信協会は解散する手筈になっていたが、当時の隅野無線課長からか、それとも他の誰かが若宮会長に話されたのか不明であるが、一説によると無線同窓会を社団法人に改組して協会所有の無線講習所の土地並びに建物一切を継承させ、その土地と建物を逓信省が借り受け、賃借料を無線同窓会に支払い、その金で生徒の寄宿舎や食堂などを経営させてはどうかという事であったが、この案は残念と云うべきか実現しなかった。当時の金額で約 160万円であった--------------------- 年月日主 題関 係 部 署会報No、資料(出典)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1942年(昭17)3月の官立移管のための主な進捗経過
(以下、上段より「年月日」「関係部署」「会報No.資料(出典)」)
3月19日
講習所設立に関する件
逓信大臣→若宮電信協会会長
vol. 23-2、目黒無線同窓会誌
無線通信士養成事業の経営を、昭和 17年度より実施するので貴会講習所設備の移管をお願いしたい。
3月23日
逓信大臣講習所視察
逓信省、講習所電信協會 50年史
講習所発展の経過、教育方針、現況の概要説明、校舎の案内、無線電信実験室の設備、通信術練習及び授業の実況等の現場説明を受けた。生徒全員に対し訓示した。
3月24日
校舎等借入の依頼
逓信省電務局長→藤沢市長
vol. 23-2、官立新営関係書類
無線通信士養成事業の実施に当たり校舎、寄宿舎は借入に依るとの方針で、昭マ 17年度予算が成立した。
政府は、藤沢市に校舎等新営の依頼をして、政府に貸与方のお願いをした。
3月26日
官立無線講新設の起債
藤沢市会
Vol. 24-1、藤澤市會々議録
逓信省の説明①教育其の他一切を逓信協会から本省に移す。②若宮会長については一 -----------------------------
3月28日
設備寄付の決議
電信協会臨時総会
Vol. 23-2、電信協會 50年史
電信協会はこの目的のために政府が使用する事は本懐とする所で設備一切を寄付する事を決議した。
同上
感謝状の授与
逓信大臣→若宮会長及び両理事
Vol. 25-1、電信協會 50年史
無線通信士の養成事業に対する功績洵に大なり。社団法人電信協会管理無線講習所を政府へ移譲せられるに際して、多年の功労に対し深甚なる感謝の意を表す。
4月1日
官立無線講業務開始
中村所長事務取扱い
電気通信大学 60年史
藤沢市会に於ける逓信省説明の真意前号まで 2回にわたり藤沢市「官立無線電信講習所新設費起債」の議事録を紹介した。議事録には、逓信省の説明に誤りがあり、また読者からの同様なご指摘により、その都度ト正したが単純なミスとは考えられないので本号で検証する。ミスの箇所とは「現有の逓信協会の目黒講習所の設備を移管する」「一切を逓信協会から移す」(注 51)のくだりで、何故電信協会を逓信協会と発言したのかの疑問がある。更に新たに指摘するのは「元の逓信大臣田健次郎閣下がやっておられる東京目黒の無線講習所が」のくだりで(注 52)、何故、田健次郎を若宮貞夫としなかったのかの 2箇所である。尚、文中の氏名敬称は略させていただいた。
1942年(昭 17) 3月に行われた主な進捗経過を下表に示す。
3月 26日の藤沢市会での逓信省発言の疑問箇所は、他の資料とは全く整合性が無くむしろその違いの大きさは奇異にさえ感じられる。各資料が示すように電信協会を中心に進んでいた官立移管が突如 3月 26日だけ逓信協会に変わり、 3月 28日には再び電信協会に戻るのである。これは何故か?
結論から云うと「逓信協会」を「電信協会」に、「元の逓信大臣田健次郎閣下」を「元の逓信次官若宮貞夫電信協会会長」に訂正するのが妥当であろう。
1)第 1の疑問:前号で説明の通り「逓信協会は」は「電信協会」が正しい。
2)第 2の疑--------------------------------------------------------------------1930年(昭5)に死去しており、 1918年(大7)から 1942年(昭17)の移管まで経営をしていた貞夫が最大の功労者である事は多くの資料で明白である。
「若宮貞夫先生の追憶」(注 53)の中で「大東亜戦争の勃発により、俄に無線電信講習所の官立移管機運が高まり昭和 17年 1月に至り電信協会の若宮会長の内諾を得て官立無線電信講習所の経費が追加予算に計上され閣議決定された」と宮本吉夫氏は述べている。その経過を充分に承知している筈の担当の、隅野無線課長、事務官が計 3度も逓信協会と発言した事は単なるミスとは考えられない。又、議会書記のミスとも考え難い。
それではどのような理由があったのだろうか?
私はその謎を次のように推定する。その疑問を解く鍵は電信協会会員総会の開催日、即ち「講習所設備一切の寄付」の決議が行われる 3月 28日にある。即ち、 26日に講習所の財産を説明する藤沢市会では、「寄付の決議」は 2日後になるため、「逓信省に電信協イから財産が寄付された」との公表は出来ないとし、やむなく逓信省に関係の深い「逓信協会」、「田男爵」の名を使っての苦しい説明にせざるを得なかったのではないか?私には、今、確たる資料がないので断定は出来ないが、恐らく「寄付未決の対処策」であったと推定する。
4月 1日開所に向けての準備段階の時間の不足が最大の原因であり、更に後年、藤沢市会々議事録が、一般公開される事も想定外であったので、このような説明を考えたと思われる。ところで、総会が 28日に設定された経過は不明である。尚、電通大 60年史には財産寄付問題に関して興味深い事が語られている。「官立に移管する時、財産をどうするか問題になった事がある。当然電信協会は解散する手筈になっていたが、当時の隅野無線課長からか、それとも他の誰かが若宮会長に話されたのか不明であるが、一説によると無線同窓会を社団法人に改組して協会所有の無線講習所の土地並びに建物一切を継承させ、その土地と建物を逓信省が借り受け、賃借料を無線同窓会に支払い、その金で生徒の寄宿舎や食堂などを経営させてはどうかという事であったが、この案は残念と云うべきか実現しなかった。当時の金額で約 160万円であった--------------------- 年月日主 題関 係 部 署会報No、資料(出典)
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1942年(昭17)3月の官立移管のための主な進捗経過
(以下、上段より「年月日」「関係部署」「会報No.資料(出典)」)
3月19日
講習所設立に関する件
逓信大臣→若宮電信協会会長
vol. 23-2、目黒無線同窓会誌
無線通信士養成事業の経営を、昭和 17年度より実施するので貴会講習所設備の移管をお願いしたい。
3月23日
逓信大臣講習所視察
逓信省、講習所電信協會 50年史
講習所発展の経過、教育方針、現況の概要説明、校舎の案内、無線電信実験室の設備、通信術練習及び授業の実況等の現場説明を受けた。生徒全員に対し訓示した。
3月24日
校舎等借入の依頼
逓信省電務局長→藤沢市長
vol. 23-2、官立新営関係書類
無線通信士養成事業の実施に当たり校舎、寄宿舎は借入に依るとの方針で、昭マ 17年度予算が成立した。
政府は、藤沢市に校舎等新営の依頼をして、政府に貸与方のお願いをした。
3月26日
官立無線講新設の起債
藤沢市会
Vol. 24-1、藤澤市會々議録
逓信省の説明①教育其の他一切を逓信協会から本省に移す。②若宮会長については一 -----------------------------
3月28日
設備寄付の決議
電信協会臨時総会
Vol. 23-2、電信協會 50年史
電信協会はこの目的のために政府が使用する事は本懐とする所で設備一切を寄付する事を決議した。
同上
感謝状の授与
逓信大臣→若宮会長及び両理事
Vol. 25-1、電信協會 50年史
無線通信士の養成事業に対する功績洵に大なり。社団法人電信協会管理無線講習所を政府へ移譲せられるに際して、多年の功労に対し深甚なる感謝の意を表す。
4月1日
官立無線講業務開始
中村所長事務取扱い
電気通信大学 60年史
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
4.4
若宮正音・貞夫と田健次郎3人の親密度の深さを想像させる略歴を示す。
若宮正音:1854(安元)-1924(大13)現兵庫県豊岡市に生まれる。
田健次郎:1855(安2)-1930(昭5)現兵庫県丹波市に生まれる。
若宮貞夫:1875(明8)-1946(昭21)現兵庫県豊岡市に生まれる。
*若宮正音: 1886(明19)逓信省書記官、 1888(明21)逓信大臣秘書官、 1890(同 23)工務局長兼秘書官、電話創業、 1891(同 24)初代電務局長、電気試験所創立、 1893(同 26)電信協会会長、農商務省商工局長、 1896(同29)健康を理由に退官。 1918(大 7)社団法人電信協会会長(注56)
*田健次郎: 1890(明23)逓信省書記官、 1897(同30)電務局長、 1898(同 31)逓信次官兼鉄道局長、1901(同34)衆議院議員(政友会)、1903~ 06(同 36~39)逓信次官、 1906 (同39)貴族院議員、1907(明40)男爵、1916(大5)逓信大臣、その後司法大臣、農商務大臣、台湾総督、枢密顧問官等を歴任。参議院議員田英夫{1923(大12)~ 2009{平21)}は孫。(注57)
*若宮貞夫:1899(明32)逓信省入省、1922(大11)逓信次官、1924(大13)第 2代社団法人電信協会会長、衆議院議員、 1931(昭 6)陸軍政務次官、 1934(同 9)政友会幹事長。
元高知県知事橋本大二郎{ 1947(昭 22)~}は外孫。(注58)
① 3人は同県人で、共に逓信省高級官僚。
② 田健次郎、若宮貞夫は衆議院議員、政友会。
③ 逓信大臣田男爵社団法人電信協会設立を認可。
④ 男爵は若宮正音電信協会会長亡き後の会長を若宮貞夫に継ぐように指示。(4.7 参照)
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4.5
講習所業務の引継ぎ(注54)待望の官立無線電信講習所はいよいよ 4月 1日から新しく発足する事となった。この朝( 3月 28日)事務引継ぎの為、電信協会側から若宮会長及杉、宮崎両理事、逓信省側から中村所長事務取扱、隅野電務局無線課長等出席、先ず官立設置の祝福を交換した後、事務引継ぎとなった。引継ぎは物件や書類だけではない、生きた人間の身柄が主体であるところに学校の引継ぎらしいところがある。偶々学年期である為大多数の生徒は巣立った後でもあり引継ぎ学生数としては 736名であったが、別に新入学生として選定済みの者を加えると引継ぎ合計 1,930名の多数で専属教員数は合計60名であった。全ての引継ぎが終わると中村所長は正門に至り、寺島大臣が揮毫せられた墨痕新しき「官立無線電信講習所」の表札を掲げた。
4.6施設一切の寄付願の提出と感謝状(注55)
3月 28日臨時総会終了後、午後 5時若宮会長は杉、宮崎両理事同伴、寺島逓信大臣を官邸に訪ねて、臨時総会の決議に依る無線電信講習所施設一切の寄付願を提出した。官邸では寺島大臣以下列席し、之を受領せられ、丁重なる挨拶があり、尚大臣からは会長及び両理事に対し、次の感謝状と共に心を込められた記念品を贈与せられた。
感謝状(その1)
君は大正 7年 9月 25日社団法人電信協会理事に就任すると共に無線通信士養成機関設立の事に従い画策宜しきを得て同会管理無線電信講習所の創立を見たり。次いで大正 13年 5月 4日同会会長に就任し、爾来二十有四年の長きに亘り終始一貫奉仕的精神を以って国家に須要(筆者注:どうしても必要なこと)なる無線通信士の養成事業に盡瘁(筆者注ジンスイ:自分の事はかまわず全力を尽くす事)し、其の間幾多の困難に遭遇するも克く之を突破して鋭意施設の整備拡充と所風の刷新向上とに努めたり、又時代の要求を察知して政府の方針に即応し常に施策の適切な実施を誤らず、特に支那事変勃発以来無線通信士の需給急激に逼迫を告げるや寝食を忘れて養成人員の増加充実の措置に奔走し為に克く斯界の養成に応え得たるのみならず、今次大東亜戦争に於ける陸、海、空各般の重要なる無線通信の遂行上遺憾なきを得たるは、偏に君が献身的努力の賜物にして其の功績洵に大なり。今般社団法人電信協会管理無線電信講習所を政府へ移譲せられるに際し、君が多年の功労に対し茲に深甚なる感謝を表す。
昭和17年3月28日
逓信大臣従三位勲一等 寺島 健
社団法人電信協会
会長 若宮貞夫殿
(感謝状その 2以降省略)
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4.7
電信協会創立五十周年祝賀会
官立移管後の約 1年を経た 1943年(昭 18) 4月 17日夜、帝国ホテルに於いて電信協会創立 50周年の祝賀会が開催された。電信協会 50年史には次のように記載されている。
「世は決戦体制下、一億緊張の極に達し、昨年 4月に敵機の帝都来襲を見てから丁度満一年に当たるので、予てよりアメリカの与論は一年前失敗に終わった日本本土空襲を、本年 4月一周年を期して再挙するぞという宣伝も行われて居た。帝都は道行く男女何れも巻脚絆、もんぺ姿で、心の緩みを互いに警戒し合っている時であった。それ故、時局の様相に鑑み、若宮会長は極めて質素にしかも最も有意義に之を挙行した。来賓として荒木貞夫大将、逓信省側からは寺島逓信大臣、中村電務局長、隅野無線課長その他、又その他陸海軍、船舶、航空、電気通信事業或いは新聞報道関係、各界の名サ有力者多数。更に電信協会側からは若宮会長、宮崎、杉の両部長、商議員、古老新進の諸会員等、約 200名がテーブルに集まった。」
若宮会長の挨拶
「本日は御多忙中特にお繰り合せご来臨を賜りまして、主催者として洵に光栄の至り、衷心より厚く御礼申し上げます。電信協会は明治 25年末の創立から昨年を以って満 50年に達したのでありますから、昨年末にこの記念会を開催するのが順当であり、左様致したいと思って居りましたが、色々の事情もあり、その上協会の結末をつけるべき諸般の事項の処理途中でありましたので、結局今日に持ち越したのであります。
50年と申しますと、俗に云う人の一生に相当する長い期間であり、この間協会は終始一貫、我国電気通信事業の為に奉公させて頂いたのでありますが、時勢の推移に伴って、協会の事業にも変化があり、又会運にも自然消長があったのであります。今日は協会 50年記念会の事でありますから、ご迷惑は万々拝察いたしますが、この際少しく過去を回顧させて頂きたいと存じます。
電信協会は時の電気通信界の権威者であった浅野、大井、五十嵐の三博士、その他この分野の中堅幹部の方々並びにサ・・徒涯苗垢鯡海瓩撞錣蠅泙靴針管禺禝楡飢仕銈・臂Г靴董¬声・25年 12月3日に結成されたものでありまして、その事跡を顧みますと、大体、創立以来大正 6年に至る 25年間の前期と、大正 7年より現在に至る 25年間の後期とに区分する事が出来、前期は専ら電気通信一般に関する技術並びに行政を調査研究して、事業の改良進歩に貢献いたし、後期は主として無線通信士の養成を担当し、我国私設無線に国家の要求する有資格者を提供する事によって国家に貢献するに努めて来たのであります。その前半の業績は単に科学の基礎的研究、又は行政の事務的改善と云う事の一方にのみ偏しないで、この両者を調和結合して電気通信事業の改良進歩を図ると云う点、即ち科学と運営の結合実施と云う点に特異性を帯びて居り、これに依ってこの分野に貢献した所が、少なからずあります。これはあながち手前味噌だけではありません。当時、遺憾ながら我国の文化程度はまだ低いと思われて居た時代に、外人が電信協会なるものの存在を知って、日本には電気通信の為に斯様な団体があり、機関雑誌まであると驚嘆したと云う話が伝わって居るのを見ても、凡そ推察し得る事と存じます。素よりそこに若干の成果を挙げるに就きまして、先輩諸公が精神的に或いは又物質的に大なる犠牲を払い続けられた事は申す迄もない次第であります。しかる所、時勢の推移に伴い、会運やや衰退の色を呈して来まして、先輩諸公は夫々私財を寄付して、些かの基金を造り、持久方の途を講ずるのも止むを得ないと云う時代に出会ったのでありますが、丁度このような時、前欧州大戦の影響を受けて、我国船舶は世界的な活躍の時代となりましたが、海外雄飛には無線電信設備の必要があり、その機械は辛うじて製作し得ても、これを操縦する通信士を獲る途がなく、官も民もこれには頗る悩まされた結果、期せずして官民双方から協会に対して「通信士養成を担当せよ」との要望がもたらされました。協会では「元来この種の事業は国営の性質を帯びるもので、民間団体のよくし得る所でない」との考えで躊躇したのでありますが、時の逓相、田男爵の強いお勧めに従い、「国家事務の代行機関たる心得」を以って協会で担当する事となりまして、ここに協会後半生の成果が生まれて来たのであります。
そこで協会は大正 6年から準備にかかり、翌 7年先ず組織を改めて社団法人として(筆者注:承認は田逓信大臣)、海運界造船界の有志から設立費用の寄贈を受けて。無線電信講習所」を設立致しました。何分民間団体として初めての試みで、早やその創設の時から校舎、器具機械の設備、教育の整備等幾多の困難に出会ったのでありますが、関係諸方面の熱烈なる支援の下に幸いに内容を充実する事が出来、政府に於かれても教育の充実に伴い卒業者に対し無試験で国家免状を授与すると云う特権を与えられ、又最近に及んでは現官の官吏を講習所へ配属せしめて教授の任に当たらせると云う、国家の代行機関たる特異性を明らかにせらるる事となったのであります。
講習所の設備がやや整った以後も、決して坦々たる大路のみを歩んだのではなく、矢張り幾多の試練と苦難とはかわるがわる来往致しました。現にある時は経営甚だ困難に陥り、代行機関に対する政府の庇護の厚からざる事を恨み歎きながら頑張った時代もあり、又ある時は海運界不況の影響を受け、卒業者の就職難に悩んだ時代もありました。この失業苦は最も悩みの大きなものでありましたが、さりながら経済界の盛衰は一時的な現象であり、皇国の前途を見渡すと無線通信は海にも、陸にも、空にも益々其の利用を増加すべきものであるとの確信の下に、協会は終始積極方針を堅持致しまして、昭和 12年以来、引。海・3回の拡張を致しました。特にその第 3回目は広く海運界、航空界、陸上電気通信界、電気機器製作界から支援を得て一大拡張を断行いたし、是によって幸いにその後、俄に起きて来た需要激増に応じて、国法に依る絶対必要量だけは供給する事が出来たのであります。第一回拡張の直前、昭和 11年の秋の頃と記憶致しますが、宮崎、杉両理事から「新造船の状況に鑑みると、近く通信士の不足を生ずると云う予感がある。今からその対策を講じておく必要がある」と提唱され、先ず政府筋、民間筋の意向を聴いて見ると「今は質の問題であって量の問題ではない」と云われ、尚、退いて順を追って調査して見ると、両理事の見通しが当たって居ると思われるので、直ちに第一次拡張計画を立て、同年末神戸へ参り船主協会幹部の方々へ再び若干の寄付をおねだりして、昭和 12年に着工致しましたが、両理事見通しの通り、その竣工前に早や校舎の不足を告げ、引続き第 2次拡張をしたと云う事もありました。斯くして講習所開設以来 25年間に相当多数の通信士を海、陸、空へ送り出し、殊に船舶無線の 8~ 9割までは当講習所出身者で操縦されて居る実情であります。
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逓信省が、藤沢市議会で 「官立無線電信講習所新設費起債」をお願いした経緯を説明した。その中で、特に藤沢市に場所を求めた理由として
①学生2000人を収容可能
②船で通信訓練をするため海軍方面とも連絡の便が良く、日常何時でも海員に関する訓練を行う事が可能な場所、
③校舎、寄宿舎を建設し政府に貸してくれる適当な公共団体である」と述べた (注61)。
理由の 「藤沢市は海軍方面とも連絡の便が良く…」とはどのようなことなのか、を探る。
本章では先ず藤沢市の一般的な歴史的・地域的特質の経緯について紹介する。
5.藤沢市の特質(注62)
5・1 湘南の中心都市・藤沢
藤沢市は首都東京の南西方向ほぼ50キロに位置し、湘南地方とよばれる神奈川県の相模湾南東岸の中心にある。周囲は横浜市、鎌倉市、茅ヶ崎市、大和市、綾瀬市、海老名市、寒川町に囲まれ南北12キロ、東西6・55キロと南北に細長く、面積は69・51平方キロで神奈川県総面積の約2・9%を占める。地形は大きく三つに区分できる。南東部は第三紀層からなる三浦丘ホの北西部端で、陸繋島の江の島もその一部である。北部はかつて相模川が形成した大きな扇状地が隆起した洪積台地であり、相模野台地の南部にあたる。平坦な地形で東に境川、中央に引地川が谷底平野を形成して南流する。台地の西部は高座丘陵とよばれる部分で、相模川支流の目久尻川・小出川が南西方向に流れる。南部は縄文時代後期まで浅い海底だった所が陸化して形成された海岸平野で、湘南丘陵地帯とよばれる。
西の辻堂、中央の鵠沼、東の片瀬で砂丘列が見られる。気候は南部ほど海洋性気候の影響が強く、温和で、リゾート地形成の要因となっているが、飛砂や煙害を被りやすいという側面をもっている。
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5・2 藤沢市の先史から中世まで
藤沢市域に人々の暮らしが見られるようになったのは、今から凡そ、3万年前のク期旧石器時代とされる。(途中省略) 時代は下がり、735年 (天平7) の 「相模国封戸租交易帳」に、鵠沼辺りと推定される 「土甘 (とかみ) 郷」が、古代藤沢として初めて公的な記録に登場する。文学作品「更科日記」 には藤沢付近の 「村岡」 の地名がでてくる。(途中省略) 「延喜式神名帳」 に載る古社としては、大庭神社・宇部母知神社 (打戻)・石楯尾神社 (鵠沼) がある。石楯尾神社の地にはのちに皇大神宮が勧請され、相模国甘郷総社神明宮と称されることとなる。
平安時代末期、鎌倉に住んでいた平景正 (鎌倉権五郎) が境川から相模川に至る高座郡の南部一帯を開発し、大庭御厨と称される荘園として伊勢神宮に寄進して大庭氏を名乗った。
1144年(天養元)源義朝が大庭御厨郷に乱入したことが伊勢神宮の記録「天養記」に出ている。之が鵠沼という地名の初出である。
1192年(建久3)平氏と藤原氏を平定した頼朝は征夷大将軍に任じられ、鎌倉に幕府を開いた。(途中省略) 鎌倉に隣接する藤沢の地は人々の往来が格段に増加したが、当時の湘南砂丘地帯は、砥上ケ原、八校(八的)ヶ原と呼ばれる淋しい砂地の荒野だった。その光景は、ここを通る歌人(西行法師)の心を捉えて歌枕となった。頼朝をはじめ、鎌倉の坂東武者は時折馬の遠乗りや鷹狩のために相模野台地の原野まで訪れ、渋谷氏の居館などを宿所とした。鎌倉においては武家社会に支持された臨済宗が「五山」と呼ばれる大伽藍を持つ寺院を中心に興隆する一方、念仏や題目をひたすら唱えること説く宗派も庶民に支持された。これら鎌倉仏教と呼ばれる動きのうち、藤沢に関連深いのは浄土真宗(鵠沼)・時宗(藤沢)・日蓮宗(片瀬)である。
1333年 (元弘3)、新田義貞軍が鵠沼に放火し、村岡辺りで幕府軍と交戦し、稲村ケ崎を経て鎌倉に攻め込み、幕府を滅亡させた。二年後に中先代の乱が起こるが、辻堂・片瀬原の合戦で北条残党を滅ぼした足利尊氏は京都室町に幕府を開く。政治の中心は京都に戻ったが、鎌倉には関東管領が置かれ、主に上杉氏が支配した。この時代に編まれた「太平記」に「藤沢」 の地名が初めて出てくる。大庭御厨は一時結城氏が地頭となるが、その後上杉氏の支配下に入る。15世紀半ば頃、扇谷上杉氏が支配権を振り、その家臣太田道連が大庭城を修理築城したといわれる。