電気通信大学藤沢分校物語 (6) 2
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電気通信大学藤沢分校物語 (編集者, 2015/2/13 12:19)
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編集者
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5・2 藤沢市の先史から中世まで
藤沢市域に人々の暮らしが見られるようになったのは、今から凡そ、3万年前のク期旧石器時代とされる。(途中省略) 時代は下がり、735年 (天平7) の 「相模国封戸租交易帳」に、鵠沼辺りと推定される 「土甘 (とかみ) 郷」が、古代藤沢として初めて公的な記録に登場する。文学作品「更科日記」 には藤沢付近の 「村岡」 の地名がでてくる。(途中省略) 「延喜式神名帳」 に載る古社としては、大庭神社・宇部母知神社 (打戻)・石楯尾神社 (鵠沼) がある。石楯尾神社の地にはのちに皇大神宮が勧請され、相模国甘郷総社神明宮と称されることとなる。
平安時代末期、鎌倉に住んでいた平景正 (鎌倉権五郎) が境川から相模川に至る高座郡の南部一帯を開発し、大庭御厨と称される荘園として伊勢神宮に寄進して大庭氏を名乗った。
1144年(天養元)源義朝が大庭御厨郷に乱入したことが伊勢神宮の記録「天養記」に出ている。之が鵠沼という地名の初出である。
1192年(建久3)平氏と藤原氏を平定した頼朝は征夷大将軍に任じられ、鎌倉に幕府を開いた。(途中省略) 鎌倉に隣接する藤沢の地は人々の往来が格段に増加したが、当時の湘南砂丘地帯は、砥上ケ原、八校(八的)ヶ原と呼ばれる淋しい砂地の荒野だった。その光景は、ここを通る歌人(西行法師)の心を捉えて歌枕となった。頼朝をはじめ、鎌倉の坂東武者は時折馬の遠乗りや鷹狩のために相模野台地の原野まで訪れ、渋谷氏の居館などを宿所とした。鎌倉においては武家社会に支持された臨済宗が「五山」と呼ばれる大伽藍を持つ寺院を中心に興隆する一方、念仏や題目をひたすら唱えること説く宗派も庶民に支持された。これら鎌倉仏教と呼ばれる動きのうち、藤沢に関連深いのは浄土真宗(鵠沼)・時宗(藤沢)・日蓮宗(片瀬)である。
1333年 (元弘3)、新田義貞軍が鵠沼に放火し、村岡辺りで幕府軍と交戦し、稲村ケ崎を経て鎌倉に攻め込み、幕府を滅亡させた。二年後に中先代の乱が起こるが、辻堂・片瀬原の合戦で北条残党を滅ぼした足利尊氏は京都室町に幕府を開く。政治の中心は京都に戻ったが、鎌倉には関東管領が置かれ、主に上杉氏が支配した。この時代に編まれた「太平記」に「藤沢」 の地名が初めて出てくる。大庭御厨は一時結城氏が地頭となるが、その後上杉氏の支配下に入る。15世紀半ば頃、扇谷上杉氏が支配権を振り、その家臣太田道連が大庭城を修理築城したといわれる。