電気通信大学藤沢分校物語 (5) 4
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電気通信大学藤沢分校物語 (編集者, 2015/2/13 12:19)
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4.7
電信協会創立五十周年祝賀会
官立移管後の約 1年を経た 1943年(昭 18) 4月 17日夜、帝国ホテルに於いて電信協会創立 50周年の祝賀会が開催された。電信協会 50年史には次のように記載されている。
「世は決戦体制下、一億緊張の極に達し、昨年 4月に敵機の帝都来襲を見てから丁度満一年に当たるので、予てよりアメリカの与論は一年前失敗に終わった日本本土空襲を、本年 4月一周年を期して再挙するぞという宣伝も行われて居た。帝都は道行く男女何れも巻脚絆、もんぺ姿で、心の緩みを互いに警戒し合っている時であった。それ故、時局の様相に鑑み、若宮会長は極めて質素にしかも最も有意義に之を挙行した。来賓として荒木貞夫大将、逓信省側からは寺島逓信大臣、中村電務局長、隅野無線課長その他、又その他陸海軍、船舶、航空、電気通信事業或いは新聞報道関係、各界の名サ有力者多数。更に電信協会側からは若宮会長、宮崎、杉の両部長、商議員、古老新進の諸会員等、約 200名がテーブルに集まった。」
若宮会長の挨拶
「本日は御多忙中特にお繰り合せご来臨を賜りまして、主催者として洵に光栄の至り、衷心より厚く御礼申し上げます。電信協会は明治 25年末の創立から昨年を以って満 50年に達したのでありますから、昨年末にこの記念会を開催するのが順当であり、左様致したいと思って居りましたが、色々の事情もあり、その上協会の結末をつけるべき諸般の事項の処理途中でありましたので、結局今日に持ち越したのであります。
50年と申しますと、俗に云う人の一生に相当する長い期間であり、この間協会は終始一貫、我国電気通信事業の為に奉公させて頂いたのでありますが、時勢の推移に伴って、協会の事業にも変化があり、又会運にも自然消長があったのであります。今日は協会 50年記念会の事でありますから、ご迷惑は万々拝察いたしますが、この際少しく過去を回顧させて頂きたいと存じます。
電信協会は時の電気通信界の権威者であった浅野、大井、五十嵐の三博士、その他この分野の中堅幹部の方々並びにサ・・徒涯苗垢鯡海瓩撞錣蠅泙靴針管禺禝楡飢仕銈・臂Г靴董¬声・25年 12月3日に結成されたものでありまして、その事跡を顧みますと、大体、創立以来大正 6年に至る 25年間の前期と、大正 7年より現在に至る 25年間の後期とに区分する事が出来、前期は専ら電気通信一般に関する技術並びに行政を調査研究して、事業の改良進歩に貢献いたし、後期は主として無線通信士の養成を担当し、我国私設無線に国家の要求する有資格者を提供する事によって国家に貢献するに努めて来たのであります。その前半の業績は単に科学の基礎的研究、又は行政の事務的改善と云う事の一方にのみ偏しないで、この両者を調和結合して電気通信事業の改良進歩を図ると云う点、即ち科学と運営の結合実施と云う点に特異性を帯びて居り、これに依ってこの分野に貢献した所が、少なからずあります。これはあながち手前味噌だけではありません。当時、遺憾ながら我国の文化程度はまだ低いと思われて居た時代に、外人が電信協会なるものの存在を知って、日本には電気通信の為に斯様な団体があり、機関雑誌まであると驚嘆したと云う話が伝わって居るのを見ても、凡そ推察し得る事と存じます。素よりそこに若干の成果を挙げるに就きまして、先輩諸公が精神的に或いは又物質的に大なる犠牲を払い続けられた事は申す迄もない次第であります。しかる所、時勢の推移に伴い、会運やや衰退の色を呈して来まして、先輩諸公は夫々私財を寄付して、些かの基金を造り、持久方の途を講ずるのも止むを得ないと云う時代に出会ったのでありますが、丁度このような時、前欧州大戦の影響を受けて、我国船舶は世界的な活躍の時代となりましたが、海外雄飛には無線電信設備の必要があり、その機械は辛うじて製作し得ても、これを操縦する通信士を獲る途がなく、官も民もこれには頗る悩まされた結果、期せずして官民双方から協会に対して「通信士養成を担当せよ」との要望がもたらされました。協会では「元来この種の事業は国営の性質を帯びるもので、民間団体のよくし得る所でない」との考えで躊躇したのでありますが、時の逓相、田男爵の強いお勧めに従い、「国家事務の代行機関たる心得」を以って協会で担当する事となりまして、ここに協会後半生の成果が生まれて来たのであります。
そこで協会は大正 6年から準備にかかり、翌 7年先ず組織を改めて社団法人として(筆者注:承認は田逓信大臣)、海運界造船界の有志から設立費用の寄贈を受けて。無線電信講習所」を設立致しました。何分民間団体として初めての試みで、早やその創設の時から校舎、器具機械の設備、教育の整備等幾多の困難に出会ったのでありますが、関係諸方面の熱烈なる支援の下に幸いに内容を充実する事が出来、政府に於かれても教育の充実に伴い卒業者に対し無試験で国家免状を授与すると云う特権を与えられ、又最近に及んでは現官の官吏を講習所へ配属せしめて教授の任に当たらせると云う、国家の代行機関たる特異性を明らかにせらるる事となったのであります。
講習所の設備がやや整った以後も、決して坦々たる大路のみを歩んだのではなく、矢張り幾多の試練と苦難とはかわるがわる来往致しました。現にある時は経営甚だ困難に陥り、代行機関に対する政府の庇護の厚からざる事を恨み歎きながら頑張った時代もあり、又ある時は海運界不況の影響を受け、卒業者の就職難に悩んだ時代もありました。この失業苦は最も悩みの大きなものでありましたが、さりながら経済界の盛衰は一時的な現象であり、皇国の前途を見渡すと無線通信は海にも、陸にも、空にも益々其の利用を増加すべきものであるとの確信の下に、協会は終始積極方針を堅持致しまして、昭和 12年以来、引。海・3回の拡張を致しました。特にその第 3回目は広く海運界、航空界、陸上電気通信界、電気機器製作界から支援を得て一大拡張を断行いたし、是によって幸いにその後、俄に起きて来た需要激増に応じて、国法に依る絶対必要量だけは供給する事が出来たのであります。第一回拡張の直前、昭和 11年の秋の頃と記憶致しますが、宮崎、杉両理事から「新造船の状況に鑑みると、近く通信士の不足を生ずると云う予感がある。今からその対策を講じておく必要がある」と提唱され、先ず政府筋、民間筋の意向を聴いて見ると「今は質の問題であって量の問題ではない」と云われ、尚、退いて順を追って調査して見ると、両理事の見通しが当たって居ると思われるので、直ちに第一次拡張計画を立て、同年末神戸へ参り船主協会幹部の方々へ再び若干の寄付をおねだりして、昭和 12年に着工致しましたが、両理事見通しの通り、その竣工前に早や校舎の不足を告げ、引続き第 2次拡張をしたと云う事もありました。斯くして講習所開設以来 25年間に相当多数の通信士を海、陸、空へ送り出し、殊に船舶無線の 8~ 9割までは当講習所出身者で操縦されて居る実情であります。