特攻インタビュー(第2回)
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- 特攻インタビュー(第2回) その31 (編集者, 2012/2/3 7:28)
- 特攻インタビュー(第2回) その32 (編集者, 2012/2/4 8:58)
- 特攻インタビュー(第2回) その33 (編集者, 2012/2/5 7:52)
- 特攻インタビュー(第2回) その34 (編集者, 2012/2/6 8:01)
- 特攻インタビュー(第2回) その35 (編集者, 2012/2/7 7:45)
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陸軍航空特攻 中村 真 氏
◆オーストラリアの捕虜収容所で終戦(2)
--------軍用機に乗って戦死された方は、何万人もいらっしゃると思うのですが、特に特攻で亡くなった方に対して、中村さんご自身の体験から特別な想いはあるのでしょうか?
中村‥それが特攻であろうと普通の死に方であろうと、戦争であるとか災害だとか、歴史の大きな流れの中の渦巻きのようなもんで、ある時代に生まれ合わせた人間の宿命だと思っています。これは個人ではどうしようもない。いくら人間が騒いでも防ぎようもない。ま、特攻ということについて言うなれば、もうちょっと生き残って帰った奴らを丁重に扱うべきだと思いますよ。私なんか帰ってきたら「感状、上聞に達しているから、お前のはお詫び言上だ!」ってなことを復員官が言うわけですよ。「感状、上聞に達しているからどうだって…てめえが勝手にやったことじゃないか!」ってね。こっちがお願いして頼んだわけでも何でもないのに、お詫び言上だとは何事だ!つて、ねぇ! (笑) そういう扱いでしたよ。これ、私の葬式のときの弔辞ですけど (資料を出して)、この師団とか連隊だとかで慰霊祭をやったときの紙ですよ。このお粗末さ、見てください!(笑)それがね、ま、何百人も特攻で死んだから「当時としては良い紙使っているんじゃないですか?」なんて…ガリ版刷りですからね。
--------たしかにそうですね。やっとの思いで命賭けて戦って、こんな紙ベラベラで帰ってくるかと思うと…。
中村‥これもう現物の文字が劣化して消えちゃうから、コピーとってあるんだけど(笑)、現物も残しておかないとね。
--------でも、特攻で亡くなったと思っていたのに、戦後生きて帰って来て、ご家族もビックリされたでしょうね。
中村‥そうだねえ。あの、いつ帰るとも何とも音信がねぇ。で、帰って来てから戦死公報を持って、第二復員局に出頭しろなんて…そんな通知が来て、もう死んだことになっているから、戸籍はなくなっているしね。死亡通知取り消しなんてね、筒単なハガキ1枚がちょこんと来るだけでしょ。その扱いをもう少し丁寧にね…。生命を捨てて戦う精神こそが立派であって、死んだ生きたというのは、あくまでも結果だからね。
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陸軍航空特攻 中村 真 氏
◆オーストラリアの捕虜収容所で終戦(3)
--------今思えば、援護の戦闘機もなく重爆だけで特攻だと命令され、敵艦の位置確認さえろくにしていないのに真昼間から突っ込まされて、…そんな命令をする軍上層部に対して怒りが込み上げると言いますか、何か思われることはありましたでしょうか?
中村‥これはもう怒りを通り越して、なんて拙劣で下手な戦争指導者たちだったんだろうと…。戦後いろいろ本を読んでみると、まあ一番の元凶は軍司令官の富永恭次陸軍中将のようですね。最初我々には60機の援護戦闘機が付くという情報で飛んでったでしょ。行ったら1機も見えないんだもん。ある本によれば3機来たとか、そんなことを書いてあります。私が見たのは軍偵1機。こうして見たら軍偵が飛んでるんですよ。「あれが、戦果確認機かなあ?」なんて思ったけど、それがいつの間にかいなくなっちゃったし…。そのときには怒りを感じることはありませんでしたよ。後になって考えるとね、なんて下手くそな戦争のやり方なんだろうと思います。
敵の船が1隻もいないということについても、歴史学者の秦郁彦さんの調査では、12月13日にミンダナオ海を埋め尽くすほどの軍艦・輸送船・その他が集まったと。ネグロス島を越えて、海軍の特攻機が2機か3機、ナッシュビルという旗艦に突入して大損害を与えて司令官が替わった、っていうんでしょ。その新しい司令官がコースを変更したことが原因で、日本軍が大船団を見失ったということなんですけどね。ある本では日本軍は183機の特攻機を出したけど、輸送船団を発見できないまま、ほとんどが撃墜されたと書いてある。ネグロス島なのかパナイ島なのか上陸地点がはっきりしない輸送船団を、アメリカ軍がこっちの別な島に上陸するように見せかけたっていうんだけど……そういった細かい点は当時の私には分かりません。それで結局、敵の輸送船団はその翌日ミンドロ島に上陸します。だから、あの付近にいたことは間違いない。ネグロス島だとかスール海だとかね。だけれども1隻も見つけられなかった…。
捕虜収容所で一緒だった海軍の士官候補生が、日本に帰って来てから調べてくれたんですが、海軍もあのとき我々と同じ目標に対して、特攻機そのほか約40機を出撃させたんだけれども、結局、敵の輸送船団は発見できなかったそうです。そしたらマニラの上空で、敵の戦闘機群と特攻機群が遭遇したという記録が海軍に残っているそうです。あれについては日本軍の特攻機183機と書いてありましたがね。飛び出したけど大半が撃墜されたと。その中に我々菊水隊の9機も入っているんだろうと思いますね。まあ我々の方でも、特別攻撃隊というものの存在について、ほとんど事前に知識はなかったから。ただ《体当たり》だと。普通、そんな特別に爆弾を抱えて直接体当たりするようなことをしなくても、大暴れして弾尽き矢折れ…(笑)、もうどうしようもなくなれば自爆ると、敵の陣地に突っ込むというのは、これは昔から特別攻撃隊なんて言わなくても、空軍の兵士の最期の死に方としては、それが当たり前だったんですよ。それを特別攻撃隊というような形でもう…。私らは3000時間くらい乗っているわけだから中堅パイロットでしょ。後の沖縄戦の頃の特攻隊員のように、飛行時間も少ないのにブーツと離陸すればあとは体当たり、では戦争になりませんよ。やり方としては一番ダメな末期的症状でしょうね…。
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陸軍航空特攻 中村 真 氏
◆オーストラリアの捕虜収容所で終戦(4)
--------特攻とかいろいろ戦争体験があるんですけども、そういうことを周囲に語れるようになったのも、戦後しばらくしてからでしょうか?
中村‥なるべくね、忘れたいとは思ってましたよ。私の戦争体験のことで、秦さんが警視庁に取材に来るまでは、誰にも特攻のことは話したことなかった。両親にも亡くなるまで黙っていたね。警部補になってからですよ、「中村警部補、こういう人が戦争のことで聞きたいって、インタビューに来てるぞ」っていうことで、私の部屋に来てもらって、それでいろいろ秦さんと話が始まったわけだ。そうなると話をするのにいろいろ思い出さなくちゃなんないわけだ。ところが、当時のことを確かめようと思っても、みんな死んじゃってるから、確かめる相手がどこにもいない。
他に生き残ったのでは、出納軍曹っていうのが大分県にいたけれども、帰ってから山本という家に養子に行って、ポコツと死んじゃったんだね。出納軍曹は編隊長機の通信士で少年飛行兵。だから戦後よく顔を合わせて話をしたんだけれど、最後に中隊長 (丸山大尉) はどうして亡くなったの?って話を聞いても、どうも要領を得なくてはっきりしないんで、現地で捕虜になって「お助けください」って降参したのかなあ。そんで死んだのかなあなんて思うんだけど。でもそう思うのはちょっと失礼だもんね。本当のところは分かんないんだから。出納軍曹本人も言わないんだもんな。
隊長機が不時着して乗員が海に投げ出されたっていうことが書いてある本もあるし、海岸に不時着してゲリラと丸山大尉とみんなとの間でピストルで撃ち合いになって、それで戦死して自分は捕虜になったと書いてある本もあるし。その辺りがはっきりしない。何か思い出しながら書いていても、あれはどうだったかねって、確かめる人がいないんだもん、誰も…。
今、第五飛行団会の世話人は、私と大原申造というのと松田功っていうのと3人でやっているけど、特別操縦見習士官だったり陸軍士官学校57期生だったり戦場には行ってないんです。だから留守隊で基地に残っていた人たちが、第五飛行団会っていうのを作ったんですね。第五飛行団会も松田さんっていう人が、戦後は全日空に勤めていたのかな、それで田中角栄の贈収賄事件でロッキード社からお金を貰ったじゃない。それの証人として国会喚問を受けた松田さんっていう人だ。ロッキード事件が終わってから松田さんが呑龍で死んだ人を慰めるのに何か作ろうじゃないかと発案をして、島根県の山奥からお地蔵さんを探して来て、北条時宗の建てた北鎌倉で有名な円覚寺、あそこの閻魔堂の前に《呑龍地蔵大菩薩》として置いてあるんですよ。毎年9月にお祭りをやっています。
--------中村さんも、そのお祭りに参加されているのでしょうか?
中村‥私は世話人だから毎回参加しています。みんなよりちょっと年下になっちゃってるんで、連絡から通知から名簿作りから何から、全部こっちがやらないといけないんで…でも去年で終わりだね、年に1回やってたんだけど、もうくたびれたよ(笑)。
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陸軍航空特攻 中村 真 氏
◆若い人たちに伝えたいこと
--------書かれたご本にも、おじいちゃんが孫に伝えるみたいな形式で書かれているんですけれど、我々若者に対して、これだけは伝えておきたいとか、これだけは忘れないで欲しいとか、そうい
う思いはありますか?
中村‥うん。だからやっぱり、人間は無理をしないで生きていくつてことに、徹底した方が良いと思うね。さっきも言ったように、時代の流れの渦巻きの中に生まれた人間は、その宿命としてその時代に果たさなくちゃいけない、若者としてやらなくちゃなんないことが必ずある。兵隊が必要なら兵隊をやると。渦巻きから逃れた時代に生まれた人たちは、今もその時代だけど…いかにも平穏だ。ところがここに北朝鮮がボンとミサイルを撃ち込んできたら、たちまち時代の渦巻きが大きくなって、若い者は銃を取って戦う立場にならないとも限らない。あるいは、日本が核兵器で武装するというような状況にならないとも限らない。だから、その時代時代の流れに逆らわないで、その運命のままに生きていくというような生き方がいいよと。無理をして逆らうなと。無理した奴は、あんまり良い結果に終わってないから…。
--------今仰ったように、北朝鮮問題などがクローズアップされて、改めて戦争が話題になったりしますが、中村さん自身が激しい戦争体験をされて振り返り、改めて戦争とは何でしょうか?
中村‥戦争についてはいろいろ言われているけれど、結局、国と国との外交の手段の末端、外交が破綻した状況で始まるのが戦争であろうと思うので、政治家を選ぶ場合には、戦争に国の進路を持っていくような政治家を選んではダメだね。その代わり、もしどうしても戦争になるという形になったら、これはもう全国民を挙げて戦争に参加して絶対に勝たなくちゃいけない。戦争になったら食うか食われるかだよ。だから戦争になるような状況を迎えるような政治家を選んではダメだということが根本だね。戦争というのは国益を巡る究極の外交手段ということだから、国益を損なわず戦争にならないような外交をする政治家を選ぶということ。でも、そのときの雰囲気によっては、何とも言えないよなあ…。日本が国際連盟を脱退したときに松岡洋介外務大臣が、イガクリ頭をバッと振り立てて、国際連盟の会場を大手を振って歩いて、堂々と「国際連盟脱退」と言ったときは、もう日本国民は拍手大喝采。
「よくぞ松岡、偉いな、よくやった!」というような雰囲気が誰からの押し付けでもなく国民全体にあったからね。それが結局、日独伊三国軍事同盟になり、戦争突入したからこそ今現在があるわけだから。その時代時代の風潮もあるからね。一概に「戦争はこうだ」とは言えないけれども、その時代に相応しいことを生きてゆく生き方がいいよと私は言いたいですね。そんなとこだな(笑)。
--------今日は貴重なお話をありがとうございました。(……了……)
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中村 真(飛行第九五戦隊・陸軍曹長)軍歴
1923年(大正12年)3月
福島県郡山市で生まれる。
1941年(昭和16年)3月
逓信省航空局仙台地方航空機乗員養成所入所。
1942年(昭和17年)3月
同所卒業。
5月
飛行第二戦隊入隊。岐阜陸軍飛行学校派遣。
10月
同校卒業。下士官候補者課程修業。
11月
任陸軍伍長。
飛行第一〇五戦隊配属(浜松)。
1943年(昭和18年)5月
教導飛行第九五戦隊配属(満州国鎮東)。
11月
任陸軍軍曹。
1944年(昭和19年)11月
出戦命令により飛行第九五戦隊と改称。
12月
任陸軍曹長(特攻出撃により)。
陸軍特別攻撃隊菊水隊二番機正操縦員として出撃。
1946年(昭和21年)12月
故陸軍少尉任官・功四級勲六等旭日章授与内定通知あるも生還のため取り消し。