お米と世相の移り変わりーその2
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お米と世相の移り変わりーその1 (としつる, 2004/10/3 15:47)
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お米と世相の移り変わりーその2 (としつる, 2004/10/4 11:46)
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お米と世相の移り変わりーその3 (としつる, 2004/10/5 14:59)
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Re: お米と世相の移り変わりーその4 (としつる, 2004/10/6 11:07)
- Re: お米と世相の移り変わりーその5終り (としつる, 2004/10/7 11:38)
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Re: お米と世相の移り変わりーその4 (としつる, 2004/10/6 11:07)
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お米と世相の移り変わりーその3 (としつる, 2004/10/5 14:59)
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お米と世相の移り変わりーその2 (としつる, 2004/10/4 11:46)
としつる
居住地: 東京
投稿数: 31
【お米と世相の移り変わり-2】
1、昭和初期から敗戦(1945年)前後まで
昭和の初期と言うか明治、大正から続く時代です。如何《いか》に士農工商《=江戸時代の身分制度、上から武士、農業、工業、商業、この下に非人があった》と身の程は違っていても「お米」そのものの変化は無かった筈《はず》ですが、少なくとも一般庶民は謂《い》わば「お米」を中心に健康やら栄養を考え、大麦を適宜《てきぎ=適当に》混ぜたご飯を食べ育ったようです。
乳児の時は母乳が主で1歳近くなった時点から、無論白米だけのお粥《かゆ》(お粥:白米を水分を多くして柔らかく(粥状に)炊いた流動食を最初に、やがて歯が出揃《そろ》って来たら大人と同じ様に普通のご飯で育ったものです。それが段々と小学校にあがる時点には、昼食にはアルミ弁当《=弁当箱は普通アルミニューム製だった》に詰め家庭によって様々なお菜:オカズを入れて、持って行ったものです。
クラスの中では貧富の差による暮らしぶりの家庭によって卵焼きやら、焼いた塩引きの鮭《さけ》、沢庵《たくわん》など又大根や野菜の煮物漬物など、この当りなら上等の部類で、日の丸弁当と言うてしょっぱい梅干1個を真ん中に置いただけの子供もありました。
それでもお米ご飯なら立派なものでした。
夕飯は又家庭によって種々な環境で異なっていた筈で、私共では親父が(名前が丑《うし》五郎の所為《せい》だけでなく)或る種の目的を神仏に誓っていたため、好きであった牛肉は食べず精々安い 豚肉、鶏肉を代用していた母親でしたから子供達も牛肉でスキヤキの機会は極少なく年に1,2回でした。
でも戦前は皆さんが自由に、しかも全てが自由経済でしたから魚も肉も野菜も豊富で、主食の「お米」は白米から七分搗《つ》き(お米の胚芽《はいが》を残す割合)、麦や豆や色々の雑穀(麦をはじめ稗《ひえ》,粟《あわ》など)など生活経済と健康を考え様々な食生活でした。無論街中であれば食堂も和食洋食の店があったのですから、時折親に連れられ成績が良かったからとか何かで入ったこともありました。
当然のことながらお米、糯《もち(米)》の話しですが餅に搗《つ》いたり、正月なり、祝い事のお祝いには紅白の餅にして、又小豆を入れて赤飯にして、その家から親戚《しんせき》や知人に配って共に祝ったこともありました。
そのような一般市民の生活の中に日頃見掛ける気の毒な姿もありました。現在の一般世間では考えられませんが、当時の穏やかな時代“物乞《ご》い”即ち一般的には乞食《こじき》と蔑視称《べっししょう=さげすんで言った》した、善く言えば浮浪者?が何処《どこ》の土地にも住み着き言わば働き稼《かせ》ぐ人間本来の性分から外れた人間も居たのです。
一般的な家でも当時は未だ不衛生なゴミ箱《ふた付きの木製の箱を戸外に置いた》が道路に出されたままで存在しましたから、そのゴミ箱の中を漁《あさ》って食い物や金目の物を探しそれを食し、持ち去っては野原や橋の下で生活をしていた風景も見られたものです。戦後間もなくこの風景は自然消滅と言うか、許されないこととして見えなくなりましたが、これも良き時代の最後の名残でもあったようです。
【いま暫《しばら》く続けます】としつる
1、昭和初期から敗戦(1945年)前後まで
昭和の初期と言うか明治、大正から続く時代です。如何《いか》に士農工商《=江戸時代の身分制度、上から武士、農業、工業、商業、この下に非人があった》と身の程は違っていても「お米」そのものの変化は無かった筈《はず》ですが、少なくとも一般庶民は謂《い》わば「お米」を中心に健康やら栄養を考え、大麦を適宜《てきぎ=適当に》混ぜたご飯を食べ育ったようです。
乳児の時は母乳が主で1歳近くなった時点から、無論白米だけのお粥《かゆ》(お粥:白米を水分を多くして柔らかく(粥状に)炊いた流動食を最初に、やがて歯が出揃《そろ》って来たら大人と同じ様に普通のご飯で育ったものです。それが段々と小学校にあがる時点には、昼食にはアルミ弁当《=弁当箱は普通アルミニューム製だった》に詰め家庭によって様々なお菜:オカズを入れて、持って行ったものです。
クラスの中では貧富の差による暮らしぶりの家庭によって卵焼きやら、焼いた塩引きの鮭《さけ》、沢庵《たくわん》など又大根や野菜の煮物漬物など、この当りなら上等の部類で、日の丸弁当と言うてしょっぱい梅干1個を真ん中に置いただけの子供もありました。
それでもお米ご飯なら立派なものでした。
夕飯は又家庭によって種々な環境で異なっていた筈で、私共では親父が(名前が丑《うし》五郎の所為《せい》だけでなく)或る種の目的を神仏に誓っていたため、好きであった牛肉は食べず精々安い 豚肉、鶏肉を代用していた母親でしたから子供達も牛肉でスキヤキの機会は極少なく年に1,2回でした。
でも戦前は皆さんが自由に、しかも全てが自由経済でしたから魚も肉も野菜も豊富で、主食の「お米」は白米から七分搗《つ》き(お米の胚芽《はいが》を残す割合)、麦や豆や色々の雑穀(麦をはじめ稗《ひえ》,粟《あわ》など)など生活経済と健康を考え様々な食生活でした。無論街中であれば食堂も和食洋食の店があったのですから、時折親に連れられ成績が良かったからとか何かで入ったこともありました。
当然のことながらお米、糯《もち(米)》の話しですが餅に搗《つ》いたり、正月なり、祝い事のお祝いには紅白の餅にして、又小豆を入れて赤飯にして、その家から親戚《しんせき》や知人に配って共に祝ったこともありました。
そのような一般市民の生活の中に日頃見掛ける気の毒な姿もありました。現在の一般世間では考えられませんが、当時の穏やかな時代“物乞《ご》い”即ち一般的には乞食《こじき》と蔑視称《べっししょう=さげすんで言った》した、善く言えば浮浪者?が何処《どこ》の土地にも住み着き言わば働き稼《かせ》ぐ人間本来の性分から外れた人間も居たのです。
一般的な家でも当時は未だ不衛生なゴミ箱《ふた付きの木製の箱を戸外に置いた》が道路に出されたままで存在しましたから、そのゴミ箱の中を漁《あさ》って食い物や金目の物を探しそれを食し、持ち去っては野原や橋の下で生活をしていた風景も見られたものです。戦後間もなくこの風景は自然消滅と言うか、許されないこととして見えなくなりましたが、これも良き時代の最後の名残でもあったようです。
【いま暫《しばら》く続けます】としつる