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お米と世相の移り変わりーその1

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/10/3 15:47
としつる  半人前 居住地: 東京  投稿数: 31
【お米と世の移り変わり】初めに
皆さん10月に入りましたね、台風も去っていよいよ実りの秋になりました。自然の猛暑は日本の作物を豊富にする筈《はず》ですが、台風がその大切な時季に襲来したり人災的?な天災とも言える洪水《こうずい》や地震が起こると折角の作物がみなパーとなり、生産者は元より消費者も含めて物価の高騰など被害甚大《じんだい》になってしまいます。我々が子供の頃、即ち昭和の初めから敗戦の頃までは、この10月17日が神嘗祭(かんなめさい)と言い天皇陛下《へいか》が今年の新米を伊勢神宮に献上する慣わしがあり昔は祭日でした。

次の11月23日は今では勤労感謝の日で祝日ですが戦前は新嘗祭(にいなめさい)と申して、その年新たに採れたお米を天皇陛下が天地の神々に捧《ささ》げ、自らもお食べになる日とされ、今では我々も美味《おい》しい新米を頂いたものです。
それが愉《たの》しみで日本の人々は全ての国民が秋の収穫時に期待し、神仏に祈り汗を流して働いた結果の産物を嬉《うれ》しく頂戴《ちょうだい》したものです。

現在のように1日3度の食事も家庭や職場で、もしくは時に同じテーブルを囲み家族ぐるみやお仲間が集って賑《にぎ》やかにあらゆる形で懇親会を和洋取り混ぜ楽しむ風情も多くなり、飲める仲間、飲まないでもお喋《しゃべ》りの集まりなどその光景は様々でしょう。

やがてこの世に生を受け80年に近い老生《ろうせい=高齢の男性の自称》も皆さんと昔を思い浮かべて幼児期、青少年期、壮年期から現在まで「三度のお米」への感謝を込め過ぎ去った昔の世相を衣食住を中心に振り返ってみたいと思います。
老生の育ちは群馬高崎の街中で両親家族で製材業が親父の職業でした。
以下何回かに分けて記します。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/10/4 11:46
としつる  半人前 居住地: 東京  投稿数: 31
【お米と世相の移り変わり-2】
1、昭和初期から敗戦(1945年)前後まで
昭和の初期と言うか明治、大正から続く時代です。如何《いか》に士農工商《=江戸時代の身分制度、上から武士、農業、工業、商業、この下に非人があった》と身の程は違っていても「お米」そのものの変化は無かった筈《はず》ですが、少なくとも一般庶民は謂《い》わば「お米」を中心に健康やら栄養を考え、大麦を適宜《てきぎ=適当に》混ぜたご飯を食べ育ったようです。

乳児の時は母乳が主で1歳近くなった時点から、無論白米だけのお粥《かゆ》(お粥:白米を水分を多くして柔らかく(粥状に)炊いた流動食を最初に、やがて歯が出揃《そろ》って来たら大人と同じ様に普通のご飯で育ったものです。それが段々と小学校にあがる時点には、昼食にはアルミ弁当《=弁当箱は普通アルミニューム製だった》に詰め家庭によって様々なお菜:オカズを入れて、持って行ったものです。

クラスの中では貧富の差による暮らしぶりの家庭によって卵焼きやら、焼いた塩引きの鮭《さけ》、沢庵《たくわん》など又大根や野菜の煮物漬物など、この当りなら上等の部類で、日の丸弁当と言うてしょっぱい梅干1個を真ん中に置いただけの子供もありました。
それでもお米ご飯なら立派なものでした。

夕飯は又家庭によって種々な環境で異なっていた筈で、私共では親父が(名前が丑《うし》五郎の所為《せい》だけでなく)或る種の目的を神仏に誓っていたため、好きであった牛肉は食べず精々安い 豚肉、鶏肉を代用していた母親でしたから子供達も牛肉でスキヤキの機会は極少なく年に1,2回でした。

でも戦前は皆さんが自由に、しかも全てが自由経済でしたから魚も肉も野菜も豊富で、主食の「お米」は白米から七分搗《つ》き(お米の胚芽《はいが》を残す割合)、麦や豆や色々の雑穀(麦をはじめ稗《ひえ》,粟《あわ》など)など生活経済と健康を考え様々な食生活でした。無論街中であれば食堂も和食洋食の店があったのですから、時折親に連れられ成績が良かったからとか何かで入ったこともありました。
 
当然のことながらお米、糯《もち(米)》の話しですが餅に搗《つ》いたり、正月なり、祝い事のお祝いには紅白の餅にして、又小豆を入れて赤飯にして、その家から親戚《しんせき》や知人に配って共に祝ったこともありました。

そのような一般市民の生活の中に日頃見掛ける気の毒な姿もありました。現在の一般世間では考えられませんが、当時の穏やかな時代“物乞《ご》い”即ち一般的には乞食《こじき》と蔑視称《べっししょう=さげすんで言った》した、善く言えば浮浪者?が何処《どこ》の土地にも住み着き言わば働き稼《かせ》ぐ人間本来の性分から外れた人間も居たのです。

一般的な家でも当時は未だ不衛生なゴミ箱《ふた付きの木製の箱を戸外に置いた》が道路に出されたままで存在しましたから、そのゴミ箱の中を漁《あさ》って食い物や金目の物を探しそれを食し、持ち去っては野原や橋の下で生活をしていた風景も見られたものです。戦後間もなくこの風景は自然消滅と言うか、許されないこととして見えなくなりましたが、これも良き時代の最後の名残でもあったようです。

【いま暫《しばら》く続けます】としつる

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/10/5 14:59
としつる  半人前 居住地: 東京  投稿数: 31
【お米と世相の移り変わり-3】
やがて昭和の12年夏前後でしょうか、国内での一部のリーダーが現在の中国大陸へ野望を抱き始め戦時色が強まると共に、内地に残る国民は「戦地優先」「贅沢《ぜいたく》は敵だ」と統制経済の名の許に時の為政者《いせいしゃ=政治を行う者》から一般家庭は厳しくなり、食糧、衣料など全て配給統制制度で管理され1日の食糧が年齢別、職業別などに分類され戦争が深みに嵌《はま》って行く段階で徐々にではあったが、最後的には急激にダウンして行ったのです。

無論食糧のみならず衣類も男は背広姿は許されず、カーキ色の謂《い》わば国防色と決められた国民服《軍服に似た服装》に統一され、同じ色の戦闘帽が決められ、女性は着物姿は襷《たすき》掛けのモンペ姿に変り、一億国民が全て戦時一色に拘束され胸に姓名と血液型を表示した返付を付け「自由は敵だ」と拘束されて行ったのです。
 
少ないながらも一般国民は食料を持参し、列車の乗車券すら枚数制限内で購入せねばならず、東京など他所への物見遊山や行楽は無論、自由な行動も出来ず制限されての生活でした。
国のリーダーから率先しての統制でしたから、我々一般国民は全てその命令に従い
勝手気侭《きまま》は許されず、全ての日本人はそう言うものだ、それに従わない者は非国民だと罵《ののし》られたものです。

 無論中には云うことを聴かず強情に自由に振り回っていた人も居たようだが、それでは戦時に相応《ふさわ》しからずと判断され、要注意人物と軍の憲兵《けんぺい=軍事警察科の軍人》や警察がマークし、常に付き纏《まと》うと言う様なご時世でした。

無論男女の恋愛などと言う文字は縁遠く全てが滅私奉公《めっしほうこう》ですから、男女二人ずれなど許される筈も無くこれまた白眼視されたものでした。

農家の大切な男衆が兵隊に、工場に招集され動員され始めると、我々街中に育った学校生徒も、その農家へ動員され《=学徒動員、学業は捨てて農業や工場で労働に従事した》お米のご飯に有り付けると学校での勉強はゼロになるが、成長期の腹膨《ふく》れる喜びで厭《いと》いはせず、唯ひたすら日夜を忘れ頑張ったものです。

でもやがては農家だけという訳には行かず、いわゆる兵器生産の軍需工場に動員され、女学生と言えどもアメリカ攻撃に使う風船爆弾など造らせられたり一億総決起と邁進《まいしん》したものです。
今の歳で言えば中学生になれば総て動員の対象になった筈ですから「一億火の玉」で戦争と言う国難に立ち向かったものです。
【更に続く】としつる
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/10/6 11:07
としつる  半人前 居住地: 東京  投稿数: 31
【お米と世相の移り変わりー4】
【敗戦からの食事情】
戦争の結果は悲惨そのものでした。日本人の総てが経験の無い敗戦と言う現実に打ちひしがれ、唯呆然《ぼうぜん》とその日暮しを余儀なくされました。

 農家との直接な縁は切れたとは言いながら、街中の我が家始め多くの一般家庭でトイレの汲《く》み取りは農家への肥料供給で繋《つな》がっていた筈です。これがその後の直接的ご縁となりました。

「お米」とは名ばかり統制管理された米穀食糧通帳《=主食配給のため各世帯に配布された、1941~1982年》での配給米の他、圧倒的に多量の輸入された外米《がいまい=外国産の米》が、インドやタイのバンコックやビルマのラングーンなどから輸入されそれを頼りに、雑炊(ぞうすい)と言う言葉が庶民の三食の常だったのです。

また芋類は沖縄やら台湾から芋焼酎にするような馬鹿《ばか》デッカイ味の無いものだったそれに変り、唯減り過ぎた腹を満たすだけ、それも充分とは言えず、米が浮くような粥《かゆ》状に、しかも野菜と言う立派なものでなく、野草やら乾燥芋を入れた混ぜ物で、戦前の米飯には程遠い僅《わず》かな量を分けてですから、何時《いつ》も空腹感の連続でしたし、後は我慢の一点張りでした。

一方正規流通以外の言わば闇米(やみごめ)をどなたも色々な手段方法で探し求め歩きました。
その闇米を原料にした酒や炭なども厳しい取締りの対象でしたから、ご法度《はっと=禁制》の輸送など一斉取調べで検挙されたのもこの頃でしたし、裁判官で配給品だけで生きて来られた立派な方が餓死《がし》されたと言う報道などもこの頃の話しでした。

幸い3年後ですか鉄道職員に就職出来た老生は勤め始めてから数ヵ月後、労務加配米と称する米を時々僅かでしたが加配を受け、家族の糊口を塞いだ《ここうをふさいだ=暮らしを立てること》ものです。休みが来れば母親と農家などへ買出しに、それも昔の背広や昔の祝い着など珍しいものを持ち出して行って、物々交換で口に入る物を分けて貰《もら》ったのです。
 
 さらに2年後以降だったか勤務明けに先輩知人などを頼り、信州や福島へリンゴの買出しに出掛け、それを農家へ持って行って米麦に取替えてもらい、美味しい里芋などが入ると小躍りしたものです。

それでも今にして思えば占領軍がロシアでなくアメリカであったから、マッカーサー元帥のお陰か、辛い思いも昭和25年頃までで、後は朝鮮戦争勃発《ぼっぱつ=突然起こる》で総てが様変わり、民謡酒場やダンスホール、麻雀《マージャン》クラブなど活気ある発展が続き、粕取り《かすとり=粗悪な密造酒》焼酎《しょうちゅう》ならまだしも、メチルアルコールなどで命を落とした呑《の》み助やらもいて、それが日本の根強い労働復活とバブルと言う名に値する現在に繋《つな》がって来たのであろうと思う昨今です。
【次回で結びとします】としつる
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/10/7 11:38
としつる  半人前 居住地: 東京  投稿数: 31
【終わりに】
【只今《ただいま》現在の衣食住を如何《いかが》お考えですか?】
老生などこれほど恵まれた環境で暮らせる世間には唯ただ感謝あるのみです。と言うのは海外から即外敵が襲うような状況でも無ければ、考えられる大地震も緊迫していると言う訳でもないからでしょう。

確かに近時毎日のように恐ろしいニュースばかりで、物騒な世の中で殺人やら強盗など事件の無い日が無いという有様ですが、差し当たり経済的にも量的には不自由はありませんから、いつ何時災害が降り掛かって来るか、その時は如何《いか》に対処すべきか、現在回りの人々と共にどう行動すべきかなど考えても想像すら出来かねます。と言うかさっぱり検討も付かない、纏《まと》まらないのが現実というものです。

恐らく周囲の皆さんも似たり寄ったりの飽きれた気分でお暮らしだろうと思います。それだけに、逆に現在が何となく怖いような感じも反面するものです。別段こうあるべきだとか言う結論は出さなくても、十分に暮らしていられるからだと思います。

どうぞ皆さん、既に老生には何も出来かねますが過去の歴史を学び、これからの人生を如何に過ごすべきか、二度と経験できない人生です、是非日頃の勉強をお続けなさってお過ごし下さい。
下らぬ昔話しの拙文雑筆を長いことお読み下さって有難うございました          2004.10.07.としつる原澤利雄
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