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終戦と引き揚げ、、北朝鮮編(二)、、いよいよ引き揚げはじまる。野崎 博氏の手記

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団子

通常 終戦と引き揚げ、、北朝鮮編(二)、、いよいよ引き揚げはじまる。野崎 博氏の手記

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/12 22:18
団子  半人前   投稿数: 22
(一)
引き揚げ近し。何月何日と言うデマに何回となく騙《だま》されながらも、すがりつくように噂《うわさ》に飛びつき、今度こそ本当だと信じ明るくなるのであった。興南に北朝、西朝から6万6千余の日本兵捕虜が集められて、興南港から乗船した。捕虜はソ連兵に騙されシベリア送りになるのだがこの時期は解からない。港に向かって行進する隊列を警備するソ連兵に「モスクウ」と聞くと「ニエット」(否)。「トウキョウ」と聞けば「ダアー」(可)と答えた。日本兵も、帰国するものと思い込み「先に帰っているからなぁ。頑張れよ」と声をかけて港に向かった。兵隊はポツダム宣言によってすみやかに帰国させるが、一般民は自分の意志で渡鮮したのだから、兵隊の後になると言うまことしやかな噂は説得力があった。飢えと寒さ窮乏のどん底に、屈辱にまみれ、ムシロ巻きの死体を眺め、絶望のさなかにあって唯一の支えが日本に帰ることであった。

(二)
年が明けるとぼつぼつ帆かけの漁船を雇い南朝に向かう人が出てきた。闇《やみ=正当な値でないやみの相場》船といって船賃は一人千円が相場だった。千円は生きるのがやっとと言う生活の一般日本人には手が出ない。人夫仕事が日給8円だったから余裕のある人だけが利用した。警戒が厳しかったり、朝鮮人ブローカーの客の奪い合いから他の船を保安隊に密告したりで失敗することが多かった。失敗すると金はとられ、荷物は没収された。

日本人大量脱出に道をつけたのは松村義士氏と磯村季次氏である。松村氏は引き揚げの恩人である。日本人世話会とは別に「朝鮮共産党咸興市党部日本人部」という看板をかけ事務所を設立して日本人の救済と引き揚げの活動をしていた。磯谷氏は共産党員で咸興刑務所に服役したことがある。松村氏は西松組にいて、共産党員ではないが、市党部が諒解《りょうかい》して党員と認め便宜を与えてくれたのである。松村氏は京城に、西松組の金を取りに行くという名目で、2月に京城に密行した。京城日本人世話会会長、穂積氏と面談、8万円の資金と薬品を受け取った。

この時期、京城の日本人は引き揚げて、少数になっていた。松村氏は帰る途中、脱出路を偵察《ていさつ》して、通路に当たる保安署に、南下日本人の諒解工作をしながら3月、咸興に帰ってきた。氏は具体的な計画をまとめた。

それは38度線《注1》まで移動させ自力で越境《=北鮮から韓国へ》させるというものである

1)
ソ連軍は越境を絶対認めないから、朝鮮機関に黙認をとりつけ、日本人側が自主的に実施する。
2)
出稼ぎ《でかせぎ》、食料事情緩和の為疎開《そかい》などの理由で38度線近くに集団移住させる。
3)
闇船を黙認してもらう。

次いで両氏は道保安部長李粥奎氏を訪れ脱出について協力を依頼する。李粥奎氏は誠心真剣に対応して公然とした許可は不可なれど、大体においての黙認を得た。
李粥奎氏は日本人脱出成功の恩人である。

黙認がなければ、女、子供、老人をかかえた集団は目立ちすぐ捕まる。3、4、5、3ヶ月に興南在住の75%2万6千名大量脱出南下は実現しなかった。当時この情報は全く知らず保安隊に逮捕逆送《=北鮮へ》されなかったのがうなずける。

、、、、、、、、、、、、、、つづく、、、、、、、
《注1》  《38度線》
《朝鮮半島中央部を横断している北緯38度線、第2次大戦後、この線を境に朝鮮は南北に縦断され、朝鮮動乱を経て二つの国になった》

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