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Re: 終戦と引き揚げ、、北朝鮮編、、いよいよ引き揚げはじまる。野崎 博氏の手記

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団子

通常 Re: 終戦と引き揚げ、、北朝鮮編、、いよいよ引き揚げはじまる。野崎 博氏の手記

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/15 7:31
団子  半人前   投稿数: 22
(三)
竜興地区世話会の会長の熊崎氏は地区全員を徒歩南下させる計画を立て、元山に連絡員を置き、保安隊に建国資金を献じて黙認を取り付け、リーダーをつけて、4月23日第1次100名を送りだした。

私の家族8名はこの集団に加わった。父は残った。竜興工場分院の医師だった。元山に着いたら汽車に乗せると言う経画だった。残り少ない衣類を売り、布団を売った。捕まって逆送されたら何もない死である。

ソ連軍票を日銀、朝鮮銀行券に替え、肌着、もんぺの紐《ひも》に縫い隠し、各自それぞれ米、豆3合あて炒《い》って非常食とした。4月23日午前8時、世話会の前に集合。さあ!出発。開放の旅、第一歩という感慨はない。不安ばかりだった。幼児、女子供、老人を抱え飢えた身に全財産の大きなリュックを背負った集団の足はのろく、進まない。日没少し前野営《やえい=屋外で仮寝すること》する。今日1日の行程は13Kぐらい、振り返れば街の灯りが見える。

野宿一夜は、連浦飛行場の少し手前の道路下だった。幅広い軍用道路は盛土した蒲鉾《かまぼこ》型の、その南斜面にごろ寝した。食事は持参したから火は使わない。4月とはいえ、北朝の夜は寒く眠られない。母は風呂敷をかけてくれた。なんと1枚の風呂敷が、毛布のように暖かかった。

朝は早立ち。1時間も歩いたろうか右手に飛行機の発着が見えた。かっては日の丸をつけた隼《はやぶさ=日本の戦闘機》や、97戦《=97型戦闘機》が、今はソ連幾だ。このあたりでアスフアルト舗装《ほそう》が切れてじゃり道になる。末の弟は5才、疲れるとすぐぐずった。次姉はリュックの上に弟を乗せるのだが重くて続かぬ。歩かせては乗せ、乗せては歩かせた。病み上がりの母は青い顔をしてついてくる。

この日、多くの人が荷物を捨てた。欲張って大きなリュックにしても、長時間歩けない。道に捨てられた物が点々と続いていた。夜小川がながれる草地に泊まる。手早く火を起し高粱粥《こうりゃんがゆ》を炊《た》く。
蒸し釜《むしがま》という深鍋《ふかなべ》に弓状の取っ手がついている蒸し器が便利だった。水汲《く》みにはバケツの代わりになった。明日の昼弁当も高粱粥だ、深鍋のままリュックに入れて運ぶ。次弟の役目だ。時にはこぼれリュックの中を赤く染めた。高粱の煮汁は赤い。

25日、3日目、何処《どこ》をどう歩いたのか記憶にない。ソ連兵に見つからぬよう田舎道ばかり歩いた。見つかったら最後、荷物は奪われ逆送される。その点、保安隊は建国資金を献上するから逆送の恐怖はない。

永興の街は大きく咸興についで賑《にぎ》わいある街だ。運動場のような中庭がある保安署に全員が連行され、中庭に座らされた。所持品検査だ。偉い人が出てきて、「前に通過した日本人が井戸に毒を入れた。死者が出た。よって毒物と武器の検査をする。各人所持品を見やすいように並べ協力するように。そうすれば早く出発できるであろう。」3人ほどの署員が検査するのだが、毒物を検査する態度はなかった。廻《まわ》りながらめぼしい物があると取り上げた。関東大震災において朝鮮人虐殺とされる事件の口実に使われた(朝鮮人が井戸に毒を入れた)と言う流言に同じである。北朝では流言でなく、官署がつかう。北朝で飢餓線上に生きて、山野に流亡している日本人が毒を井戸に入れて、何の利益があるというのか。日本に帰りたい、それだけを願って南下している。南下した日本人が何度となく聞かされた台詞《せりふ》である。その都度所持品検査があり、なけなしの金品が消えた。

ある日、丘陵地帯の畑地を歩いた。広い畑では一家族なのか、5、6人が種をまいていた。若い男が突然走り寄って大声でわめいた。左手首がない。傷口は新しい。話の内容は判らないが怒っている。徴用《ちょうよう=強制的に動員して働かせる》の事故か、空襲に手首をとられたのだろう。突然日本人が多勢現れ、怒りが込みあげ、ぶっつけたに違いない、立ち止まった私たちに、父親らしい男が、行け、行けと合図した。

、、、、、、、、、、、、、つづく、、、、、

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