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終戦と引き揚げ、、北朝鮮編(二)、、いよいよ引き揚げはじまる。野崎 博氏の手記

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/12 22:18
団子  半人前   投稿数: 22
(一)
引き揚げ近し。何月何日と言うデマに何回となく騙《だま》されながらも、すがりつくように噂《うわさ》に飛びつき、今度こそ本当だと信じ明るくなるのであった。興南に北朝、西朝から6万6千余の日本兵捕虜が集められて、興南港から乗船した。捕虜はソ連兵に騙されシベリア送りになるのだがこの時期は解からない。港に向かって行進する隊列を警備するソ連兵に「モスクウ」と聞くと「ニエット」(否)。「トウキョウ」と聞けば「ダアー」(可)と答えた。日本兵も、帰国するものと思い込み「先に帰っているからなぁ。頑張れよ」と声をかけて港に向かった。兵隊はポツダム宣言によってすみやかに帰国させるが、一般民は自分の意志で渡鮮したのだから、兵隊の後になると言うまことしやかな噂は説得力があった。飢えと寒さ窮乏のどん底に、屈辱にまみれ、ムシロ巻きの死体を眺め、絶望のさなかにあって唯一の支えが日本に帰ることであった。

(二)
年が明けるとぼつぼつ帆かけの漁船を雇い南朝に向かう人が出てきた。闇《やみ=正当な値でないやみの相場》船といって船賃は一人千円が相場だった。千円は生きるのがやっとと言う生活の一般日本人には手が出ない。人夫仕事が日給8円だったから余裕のある人だけが利用した。警戒が厳しかったり、朝鮮人ブローカーの客の奪い合いから他の船を保安隊に密告したりで失敗することが多かった。失敗すると金はとられ、荷物は没収された。

日本人大量脱出に道をつけたのは松村義士氏と磯村季次氏である。松村氏は引き揚げの恩人である。日本人世話会とは別に「朝鮮共産党咸興市党部日本人部」という看板をかけ事務所を設立して日本人の救済と引き揚げの活動をしていた。磯谷氏は共産党員で咸興刑務所に服役したことがある。松村氏は西松組にいて、共産党員ではないが、市党部が諒解《りょうかい》して党員と認め便宜を与えてくれたのである。松村氏は京城に、西松組の金を取りに行くという名目で、2月に京城に密行した。京城日本人世話会会長、穂積氏と面談、8万円の資金と薬品を受け取った。

この時期、京城の日本人は引き揚げて、少数になっていた。松村氏は帰る途中、脱出路を偵察《ていさつ》して、通路に当たる保安署に、南下日本人の諒解工作をしながら3月、咸興に帰ってきた。氏は具体的な計画をまとめた。

それは38度線《注1》まで移動させ自力で越境《=北鮮から韓国へ》させるというものである

1)
ソ連軍は越境を絶対認めないから、朝鮮機関に黙認をとりつけ、日本人側が自主的に実施する。
2)
出稼ぎ《でかせぎ》、食料事情緩和の為疎開《そかい》などの理由で38度線近くに集団移住させる。
3)
闇船を黙認してもらう。

次いで両氏は道保安部長李粥奎氏を訪れ脱出について協力を依頼する。李粥奎氏は誠心真剣に対応して公然とした許可は不可なれど、大体においての黙認を得た。
李粥奎氏は日本人脱出成功の恩人である。

黙認がなければ、女、子供、老人をかかえた集団は目立ちすぐ捕まる。3、4、5、3ヶ月に興南在住の75%2万6千名大量脱出南下は実現しなかった。当時この情報は全く知らず保安隊に逮捕逆送《=北鮮へ》されなかったのがうなずける。

、、、、、、、、、、、、、、つづく、、、、、、、
《注1》  《38度線》
《朝鮮半島中央部を横断している北緯38度線、第2次大戦後、この線を境に朝鮮は南北に縦断され、朝鮮動乱を経て二つの国になった》
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/15 7:31
団子  半人前   投稿数: 22
(三)
竜興地区世話会の会長の熊崎氏は地区全員を徒歩南下させる計画を立て、元山に連絡員を置き、保安隊に建国資金を献じて黙認を取り付け、リーダーをつけて、4月23日第1次100名を送りだした。

私の家族8名はこの集団に加わった。父は残った。竜興工場分院の医師だった。元山に着いたら汽車に乗せると言う経画だった。残り少ない衣類を売り、布団を売った。捕まって逆送されたら何もない死である。

ソ連軍票を日銀、朝鮮銀行券に替え、肌着、もんぺの紐《ひも》に縫い隠し、各自それぞれ米、豆3合あて炒《い》って非常食とした。4月23日午前8時、世話会の前に集合。さあ!出発。開放の旅、第一歩という感慨はない。不安ばかりだった。幼児、女子供、老人を抱え飢えた身に全財産の大きなリュックを背負った集団の足はのろく、進まない。日没少し前野営《やえい=屋外で仮寝すること》する。今日1日の行程は13Kぐらい、振り返れば街の灯りが見える。

野宿一夜は、連浦飛行場の少し手前の道路下だった。幅広い軍用道路は盛土した蒲鉾《かまぼこ》型の、その南斜面にごろ寝した。食事は持参したから火は使わない。4月とはいえ、北朝の夜は寒く眠られない。母は風呂敷をかけてくれた。なんと1枚の風呂敷が、毛布のように暖かかった。

朝は早立ち。1時間も歩いたろうか右手に飛行機の発着が見えた。かっては日の丸をつけた隼《はやぶさ=日本の戦闘機》や、97戦《=97型戦闘機》が、今はソ連幾だ。このあたりでアスフアルト舗装《ほそう》が切れてじゃり道になる。末の弟は5才、疲れるとすぐぐずった。次姉はリュックの上に弟を乗せるのだが重くて続かぬ。歩かせては乗せ、乗せては歩かせた。病み上がりの母は青い顔をしてついてくる。

この日、多くの人が荷物を捨てた。欲張って大きなリュックにしても、長時間歩けない。道に捨てられた物が点々と続いていた。夜小川がながれる草地に泊まる。手早く火を起し高粱粥《こうりゃんがゆ》を炊《た》く。
蒸し釜《むしがま》という深鍋《ふかなべ》に弓状の取っ手がついている蒸し器が便利だった。水汲《く》みにはバケツの代わりになった。明日の昼弁当も高粱粥だ、深鍋のままリュックに入れて運ぶ。次弟の役目だ。時にはこぼれリュックの中を赤く染めた。高粱の煮汁は赤い。

25日、3日目、何処《どこ》をどう歩いたのか記憶にない。ソ連兵に見つからぬよう田舎道ばかり歩いた。見つかったら最後、荷物は奪われ逆送される。その点、保安隊は建国資金を献上するから逆送の恐怖はない。

永興の街は大きく咸興についで賑《にぎ》わいある街だ。運動場のような中庭がある保安署に全員が連行され、中庭に座らされた。所持品検査だ。偉い人が出てきて、「前に通過した日本人が井戸に毒を入れた。死者が出た。よって毒物と武器の検査をする。各人所持品を見やすいように並べ協力するように。そうすれば早く出発できるであろう。」3人ほどの署員が検査するのだが、毒物を検査する態度はなかった。廻《まわ》りながらめぼしい物があると取り上げた。関東大震災において朝鮮人虐殺とされる事件の口実に使われた(朝鮮人が井戸に毒を入れた)と言う流言に同じである。北朝では流言でなく、官署がつかう。北朝で飢餓線上に生きて、山野に流亡している日本人が毒を井戸に入れて、何の利益があるというのか。日本に帰りたい、それだけを願って南下している。南下した日本人が何度となく聞かされた台詞《せりふ》である。その都度所持品検査があり、なけなしの金品が消えた。

ある日、丘陵地帯の畑地を歩いた。広い畑では一家族なのか、5、6人が種をまいていた。若い男が突然走り寄って大声でわめいた。左手首がない。傷口は新しい。話の内容は判らないが怒っている。徴用《ちょうよう=強制的に動員して働かせる》の事故か、空襲に手首をとられたのだろう。突然日本人が多勢現れ、怒りが込みあげ、ぶっつけたに違いない、立ち止まった私たちに、父親らしい男が、行け、行けと合図した。

、、、、、、、、、、、、、つづく、、、、、
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/16 17:52
団子  半人前   投稿数: 22
(四)
ただ歩いた。風景はない。疲労がたまり、女、子供を抱えた家族の足はおそく、遅れを取り戻すのは難しい。小休止にやっと追いついても、前の人は歩き出している。行列は延びて先頭集団と後尾は4Kも離れた。

その日私は後尾の集団14,5人と一緒にいた。田舎の部落を突っきり、村はずれの処で朝鮮の若者、5、6人が行き手をさえぎり、とり囲んだ。棒を持ち、一人は鎌《かま》を持っていた。彼等は大声を出して威嚇《いかく》した。朝鮮語だからわからないが、皆は小さく固まり立ちすくんだ。

幸い私達の集団に朝鮮語を話す中年の男がいた。彼が話しを始めた時、一人の老人が若者たちを制した。諭《さと》すような話だった。やがて若者は囲みをといた。男性の話では「36年の怨み《うらみ》をはらす」と言ったそうだである。「要するに金だ。金が欲しいんだ」と強く言った。老人は「日本には200万人の朝鮮人が残っている。彼等は人質だ。日本人に危害を加えれば、彼等が報復される」と諭したと言う。朝鮮は儒教《じゅきょう=孔子を祖とする教学》の国だから老人の言う事をよくきく。偉いものだと感心していた。

興南を出て4日、5日は何処に眠たのか記憶がない。家族を全部亡くしたのか一人ぼっちのオバサンがいた。栄養不足に腫《は》れた青い顔をして食べ物を貰《もら》って歩いていた。食事時手を出して1口くれという。私はソッポを向くが、母は2、3さじ与えた。乏しい食事から与える母を馬鹿だと思ったが口は出さぬ。オバサンはついて来たのか覚えがない。気の触れた中年の男がいた。いつも笑顔で訳の判らぬ事を言っていた。リュックだけは必ず背負っていた、終わり頃いなくなった。

この頃になると末弟は事態が飲み込めたのか歩いた。姉のリユックに乗らなくなった。よその子も置き去りを怖れるのか必死について来る。ぐずる子は一人もいない。

4月28日、6日目昼3時頃、元山府に着く!やっと着いた。

台地になり丘が連なり、赤松の疎林《そりん=まばらな林》があった。リーダーは元山には3時間で着くが、夕方になり混雑して、元山の受け入れも整わないから今夜はここで野営する。元山には明朝入る。太陽は高くもうすぐ5月だ。暖かい。元山が合言葉だった。

明朝、足どり軽く出発。昼前に到着、東本願寺に入る。興南からの集団は東本願寺に指定されていた。右手に庫裏《くり=寺の台所》がある大きな寺は難民でごった返していた。

元山に着いたら汽車に乗せるという約束は情勢変化によって、中止。代わりに老人、女子供は特別料金をだせば乗せるとリーダーから報告があった。そこで我が家は、母、妹二人(小2、4)末弟(5才)。私と姉二人、次弟(小6)4人4人に分かれた。元山に2泊した。

汽車に乗る母達を残して、新しく100名の集団を組みなおし、5月1日午前9時、第二の脱出行を出発した。汽車に乗れない事情があったのか女、子供が多かった。半日歩いて変電所がある川の右岸で昼食になった。偶然、全く偶然隣の男性から声をかけられた。朝鮮語が上手な30歳位の男性だった。「女子供と一緒では捗《はかど》らない。別ルートを行くが、一緒にいかないか」次姉は即答した。年少者が弟6年生、上は40歳代の遊郭《ゆうかく》の親父だったという二人組がリーダーになって30名ほどのグループを組んだ。実質は朝鮮語の上手な男性が道案内リーダーであった。午後集団に分かれて川を渡る。左岸は急斜面の山が屏風《びょうぶ》のように岸まで迫っている。高さ300m級だったが迂回路《うかいろ=回り道》はない。キコリ道のような道をよじ登った。なるほど、これは女子供には無理である。大きなリュックを担いでの上り坂は地獄の苦しみだった。

2時間も登っただろうか。頂上に達した。心地よい風が吹きあげて、反対側は嘘《うそ》のようになだらかなスロープだった。楽々降りて大きな木の下で野営した。あたりは草地で少し離れて大きな農家があった。雨模様だった。今夜は雨を覚悟した。夜になって農家から人が来て、「雨になるから納屋《なや=倉庫》に入れ」と勧《すす》められた。頼みもしないのに親切である。感謝の言葉もない、有り難かった。お蔭様で雨にあわずに済んだ。朝、客間に招かれ、朝食を食べる。交渉したのか忘れたが、白米の白いご飯にキムチ、味噌《みそ》汁、モヤシなど沢山の副食の豪華な食事だった。家族の女性全員がもてなす客人のような接待は真底、心のこもった誠のものだった。腹は満ち、心は晴れた。

、、、、、、、、、、、、、つづく、、、、
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/18 20:49
団子  半人前   投稿数: 22
(五)
5月2日朝から気分がいい。幸先よい《さいさきよい=良い事のある前ぶれ》旅立ちだ。足弱がいないから道は捗《はかど》った。その夜早めに野営した。綺麗《きれい》に落ち葉を掃いた松林が続き、野宿には最適であった。近くに線路があり、なだらかな丘陵地帯は北の方向に降り気味に広がっていた。陽は高く充分に明るく、弟と小枝を拾っていた。

遠くに汽笛が聞こえてきた。あ、汽車なんだ、ひょっとしたら母達が乗っていないかなと思ったが、そんな馬鹿《ばか》な、広い朝鮮で別れて、2日たった今、都合よく母が乗った汽車が来るはずがないと打ち消しながらも汽車を待った。汽車が見え、段々近づいてくると胸騒ぎがした。やがて目の前を通過した。

乗っているではないか。母と妹が。こちら側に立っている。貨車が無蓋車《むがいしゃ=屋根の無い貨車》を連結し、それに日本人がいっぱい乗っていた。その中に乗っているのは、まさしく母だった。元山駅を1時間ばかり前に発ったのであろう。弟と顔を見合わせた。その夜、兄弟に嬉しさが広がった。それでよし。すべてよし。暗闇《くらやみ》の時代によくめぐり逢《あ》えたものだ。

長い時間をかけて山岳地帯をいく。すでに江原道に入ったのか高い山が連なっている。山を縫うように砂利舗装《じゃりほそう》した広い一級道路が峠に向かっていた。どうした訳か、トラック一台通らない。人影もなかった。登りつめた峠に一軒の家があった。井戸があり、使わせて貰《もら》い昼食をとった。晴れ渡り5月の空だった。見渡せば山々が遠くまで連なり、鶯《うぐいす》の声がした。

家の中から本を読む、素読のような唱和が聞こえた。子供のだ。近寄って覗《のぞ》いた。小学校2年ぐらいの子供が、5,6人あぐらをかいて座っている。もっとも、あぐらが正式だが、先生は書見台に本を置き、論語を教えていた。先生が一節読み、子供が唱和する。更に近づいた、先生の後ろからよく見れば、木判刷り《もくはんずり=木の板に文字を彫って紙に印刷したもの》を和とじした本に、四角く大きな字で、子曰《しのたまわく》と刷ってあった

この地も北朝鮮である。下界で繰り広げられている日本人の苦難が嘘《うそ》のようだった。峠を降りて行った。陽がかげった頃、部落を通った。村道にそって八軒ほど農家が並んでいた。わらぶきの家だった。数人の年寄りが我々を見物している。素朴な人々である。弟と後尾を歩いていた。

一人の女性が小走りに近づいてきた。黒いチマに白いチョゴリ、髪を真ん中から分け後ろにとめ、長めのカンザシを横にさしていた。風俗誌に見るような農村婦人だった。彼女は小さな紙包みを私にみせながら、「持って行きなさい。早く人に見られないように隠しなさい」という手真似でしめし、私の手に押し込んだ。振り返ると見送るように立っていた。包みは2枚の餅《もち》だった。丸く平らな朝鮮の餅に、きな粉がまぶしてある。先祖を祀《まつ》る祝い事があって餅をついたのであろうか、有難かった。

人目をしのんでくれた餅は、どんな食べ物よりも心がこもっていた。山の中での暮らしは決して豊かでない筈《はず》だ。清潔だが、洗いざらしの黒いチマは折り目に布目が白くあらわれていた。村の人に見られると非難されるだろう。江原道の山の中で日本人を見る事なく暮らしていたのだろう。女性の顔のすんだ瞳《ひとみ》は、今でもはっきり浮かんでくる。

大小権力の、フアッショ的民族虐待《ぎゃくたい》にさらされたさなか、朝鮮一般民族の人間性あふれた高い精神にふれて、私の凍った心に、陽光がうららにしみわたった。

、、、、、、、、、、、、、、、つづく、、、、、、
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/8/25 0:50
団子  半人前   投稿数: 22
(六)
5月4日、田舎の保安署で所持品検査を受ける。駐在所なのか署員は一人であった。彼も例の「井戸に毒を入れた、刃物は没収と演説したが検査は大まかに済んだ」。人柄がいいのだ。この時、遊郭《ゆうかく=いろまち》の親方をしていたというリーダーは交渉が全く情けない。ペコペコし過ぎる。対抗せよとは言わないが、態度が極端に卑屈だ。膝《ひざ》を折りすぎる。リーダーは自然に案内役の男性に移っていた。私もそれが安心だ。新しいリーダーは奥地で数百人の朝鮮人を使っていたと言う、朝鮮語が達者で道を聞くたびに「朝鮮人のくせに、日本人を案内して、恥ずかしくないのか」と責められ非難された。

鉄原はソ連軍が多数駐屯《ちゅうとん=土地に留まっていること》していたから危険だと判っていたから大きく迂回《うかい=回り道》した。街を右をみて左手に広がる田園の中の自動車道路を南に向かっていた。昼過ぎ後方からトラックが来た。避けようと端に寄ったらトラックが急停車、3人のソ連兵が降りてきた。「ワァー」誰言うことなく叫んでパッと散り田園の中を山に向かって走った。「ここまで来て捕まるもんか。逆送されてたまるか。」必死だった。それこそ命がけだったが、リユックを担ぎ早く走れない。ソ連兵は銃を持っていなかった。田園の中まで追ってこなかった。

危険はさった。山に入ったらボツボツ集まってきた。ほっとして顔を合わす私達に、リーダーは少しでも離れるよう強行軍を指示した。幾つかの丘を超え、山を登った。この夜、月があり明るかった。早起きした。リーダーは皆を集め状況を説明した。野営した山のすぐ下から平地が続き遠くに見える連峰が38度線地帯である。これから山を降りて一本道を連峰に向かう。道が狭いからソ連兵のトラックは通れないが平地が続くので注意するように。ソ連兵が来たら南の山に向かって走れ。山を降りて一本道を歩く。山は安心だが平地は不安だ。姿を隠す所がない。

もう一息で連峰だという部落まで来たら、保安隊に捕まった。村の真ん中を走る道路にそって、保安隊と学校が並んでいた。学校は教室四っ程の分校といった建物だった。その学校の教室に入れられた。例の井戸に毒がで始まり、薬品、刃物は没収と言ういつもの通りだ。隣の教室に村人が、それも女性が多く見物している。国境に近いから入念に調べた。二人の隊員が右側から、もう一人が左から調べた。2度調べることになる。長姉が救急用に隠し持っていた傷薬を、米袋の下に隠した。それを見たのか見物の中から鋭い声がとんだ。隊員が姉にかけより、取り上げパンとビンタを一つ張った。瞬間ヒヤとしたが、あとは何事もなかった。ホッとした。「出て行って宜《よろ》しい」私たちはゾロゾロ出て、元の道に戻り、一本道を南に向かった。隊員の一人が銃を持ち出して我々の方にむけて、一発撃った。銃声が響いた。驚いて振り返る我々を隊員は笑った。

連峰の麓《ふもと》に四時頃着いた。「ここで夜10時まで休みます。各自三食のおにぎりを持って下さい。今夜は一晩中歩くことになるかも知れません。眠っておいて下さい。」と指示された。それは無理だ。眠れない。いつでも出発できるように用意して待つが落ち着かない。頭の真ん中が熱くなる。

十時になった。月が明るい。さぁ出発だ。三時間も山あい、谷間を縫って歩く。部落がある。月明かりに照らされて、土塀《どべい》の家々がしずまり、浮かび上がる陰影が少年倶楽部《1914年発行の少年向月刊誌》の樺鳥勝一の挿絵《さしえ》のようだ。足音を忍ばせて歩くが、30人の足音は、ザァザァとなって犬が吠《ほ》えた。つられて村中の犬が吠えた。心配だったが、村をぬけると吠えがやんだ。夜の一時頃か、小さな川が月に光っていた。そこが38度線だった。

北朝在住日本人、3万7百人を殺し、20数万人を海に山野に流亡させた38度線が、月を浴びて白く光っている。ズボンを捲《まく》くり川に入る。底は砂地だった。巾2m位の川が何も知らぬげに、ゆっくり流れ深さは膝《ひざ》までのただの川だった。ソ連兵の歩哨《ほしょう=見張り》がいるかも知れない。警戒して、声だすな、音たてるな、渡りきった。ここが本当に38度線か、誰かが走った。皆が一斉に走った。空が白みがかった。リーダーが農家に聞いて安心した。国境を越えたのだった。地名も場所も判らないが国境だった。
興南から220k。
、、、、、、、、、、、、続く、、、、、、、
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/8/26 22:27
団子  半人前   投稿数: 22
(七)
急流の川を左に見て右岸に沿った自動車道を京城に向かう。もうソ連兵も保安隊も怯《おび》えることはない。のんびり歩いた。トラックが来た。帰り車だから安くする、京城は遠いという。交渉成立してトラックに乗った。車は軽やかに川に沿って走った。何時間走ったのか、京城の入口にある学校に着いた。

米軍の防疫所だ。例のDDT《=殺虫剤》をかける所だ。ここで初めて鬼畜米英《きちくべいえい=戦争中、敵アメリカ、イギリス人は鬼、畜生と同じと言われた》に逢《あ》う。米兵は親切だった。明るく難民を人間として扱った。

鬼畜米英を教えられ、皇軍《こうぐん=天皇の軍隊、日本軍のこと》不敗にだまされ、朝鮮人は統治能力がないから天皇が治めると嘘《うそ》を教えられた我々が、DDTの粉にまみれている。ここから龍山駅に近い東本願寺まで歩く。途中、韓国の青年が我々に「北からですか、ご苦労様です」礼儀正しく、丁寧な言葉使いだった。同じ民族がこうもなぜ違う。

ご苦労様です。この一言は雨宿りを勧めた農家、餅をくれた山家の女性に通ずる人間の心の底の暖かさ、優しさだった。私はほのぼのと和《なご》やいだ。東本願寺で受付を済ませ、本堂裏の大部屋に案内された。夕食にのりの瓶《びん》詰め「磯《いそ》じまん」がついた。その夜、野宿14日、初めて布団に寝た。興南から300k、

5月8日朝、整列して竜山駅まで歩く。近くだった。駅前広場に座り汽車を待った。3時間もまったか貨車に乗車。ソ連兵を怖れ、やっとの思いで超えた38度線が、川一つまたいだだけで次の日は汽車に乗って釜山に出発する。何とも手品のような手際の良さは何なんだろうか。

今。私がこうしている間に北朝では人が死に、所持品検査があり、人が流れている。この調子なら2日後は下関だ。時計がないから判らないが3時ごろ発車、文明の利器とはよく言ったものだ。貨車であっても300k歩いた難民には一等車に同じ、朝には釜山着、海を見おろす高台にある寺に泊まる。船待ち二泊、
自炊した。食料の食い延ばしはもう必要ない。米の飯を炊いた。

5月11日午後4時頃乗船。船は小型貨物船。ボロ船で右に10度程傾斜している。引き揚げ業務が終わると中国に返還するという。海軍が拿捕《だほ=捕らえる》した中国の貨物船だった。5月11日午後6時、船は岸壁を離れた。日本に行くのだ。別天地に旅立つのだ。朝鮮生まれの私には、帰る故郷がない。帰郷の喜びはない。開放感だけだった。釜山の街が小さくなった。もう2度と来る事はないだろう。もう来たくもない。やがて海は暗くなった。

5月12日博多に着く。コレラ予防の為、約1週間沖で停泊した。コレラ患者が出なければ上陸できる。一週間寝て暮らした。非常食の炒《い》り米、大豆をかじりながら寝た。麦飯の給食が美味《おい》しく、満ちたり、満足だった。演芸会が催され、美人の娘さんが唄《うた》った。「サヨンの歌」が明るく印象に残っている。皆の顔は楽しく開放感にあふれていた。船の通信室のラジオが「炭鉱に送る夕」を放送していた。「帰り船」「リンゴの歌」を知った。

上陸して手続きを終え、何もすることがなく、散歩がてら港に行った。次の団体が上陸してくる。私は迎えるかたちになって、眺めていた。この時なぜか、この団体に母がいるような予感がした。予感と言うより、いないかなぁと言う願いだった。団体が顔が判るまで近づいた。そうしたら、あった!母の顔があった!続いて妹も弟も現れた。青い顔をした母は、足を引きずって歩いてくる。

私自身が驚いた。もし、この時他所《よそ》にいたら逢えなかった。なぜ港に足が向いたのか判らない。苦難の北朝で別れ別れになって漂流した家族が、3週間余りにして帰国駅の博多で逢えるなんて奇跡だ。引き揚げ港は他所にもある。強運としか言いようがない。引き揚げ所に届けて家族8人が一緒に父の故郷武生に着いたのは3日後、5月22日。興南を出てから1ヶ月経っていた。

父はソ連兵に捕まり、医師の仕事をさせられていたため、家族と一緒に帰れなかったが、脱走し一人で帰国を果たした。苦労はあったが、家族9人全員無事帰国できた事は奇跡、幸運としか言えない。
                                                         完

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