Re: 終戦と引き揚げ、、北朝鮮編、、いよいよ引き揚げはじまる。野崎博氏の手記
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終戦と引き揚げ、、北朝鮮編(二)、、いよいよ引き揚げはじまる。野崎 博氏の手記 (団子, 2005/8/12 22:18)
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Re: 終戦と引き揚げ、、北朝鮮編、、いよいよ引き揚げはじまる。野崎 博氏の手記 (団子, 2005/8/15 7:31)
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Re: 終戦と引き揚げ、、北朝鮮編、、いよいよ引き揚げはじまる。野崎 博氏の手記 (団子, 2005/8/16 17:52)
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Re: 終戦と引き揚げ、、北朝鮮編、、いよいよ引き揚げはじまる。野崎博氏の手記 (団子, 2005/8/18 20:49)
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団子
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(五)
5月2日朝から気分がいい。幸先よい《さいさきよい=良い事のある前ぶれ》旅立ちだ。足弱がいないから道は捗《はかど》った。その夜早めに野営した。綺麗《きれい》に落ち葉を掃いた松林が続き、野宿には最適であった。近くに線路があり、なだらかな丘陵地帯は北の方向に降り気味に広がっていた。陽は高く充分に明るく、弟と小枝を拾っていた。
遠くに汽笛が聞こえてきた。あ、汽車なんだ、ひょっとしたら母達が乗っていないかなと思ったが、そんな馬鹿《ばか》な、広い朝鮮で別れて、2日たった今、都合よく母が乗った汽車が来るはずがないと打ち消しながらも汽車を待った。汽車が見え、段々近づいてくると胸騒ぎがした。やがて目の前を通過した。
乗っているではないか。母と妹が。こちら側に立っている。貨車が無蓋車《むがいしゃ=屋根の無い貨車》を連結し、それに日本人がいっぱい乗っていた。その中に乗っているのは、まさしく母だった。元山駅を1時間ばかり前に発ったのであろう。弟と顔を見合わせた。その夜、兄弟に嬉しさが広がった。それでよし。すべてよし。暗闇《くらやみ》の時代によくめぐり逢《あ》えたものだ。
長い時間をかけて山岳地帯をいく。すでに江原道に入ったのか高い山が連なっている。山を縫うように砂利舗装《じゃりほそう》した広い一級道路が峠に向かっていた。どうした訳か、トラック一台通らない。人影もなかった。登りつめた峠に一軒の家があった。井戸があり、使わせて貰《もら》い昼食をとった。晴れ渡り5月の空だった。見渡せば山々が遠くまで連なり、鶯《うぐいす》の声がした。
家の中から本を読む、素読のような唱和が聞こえた。子供のだ。近寄って覗《のぞ》いた。小学校2年ぐらいの子供が、5,6人あぐらをかいて座っている。もっとも、あぐらが正式だが、先生は書見台に本を置き、論語を教えていた。先生が一節読み、子供が唱和する。更に近づいた、先生の後ろからよく見れば、木判刷り《もくはんずり=木の板に文字を彫って紙に印刷したもの》を和とじした本に、四角く大きな字で、子曰《しのたまわく》と刷ってあった
この地も北朝鮮である。下界で繰り広げられている日本人の苦難が嘘《うそ》のようだった。峠を降りて行った。陽がかげった頃、部落を通った。村道にそって八軒ほど農家が並んでいた。わらぶきの家だった。数人の年寄りが我々を見物している。素朴な人々である。弟と後尾を歩いていた。
一人の女性が小走りに近づいてきた。黒いチマに白いチョゴリ、髪を真ん中から分け後ろにとめ、長めのカンザシを横にさしていた。風俗誌に見るような農村婦人だった。彼女は小さな紙包みを私にみせながら、「持って行きなさい。早く人に見られないように隠しなさい」という手真似でしめし、私の手に押し込んだ。振り返ると見送るように立っていた。包みは2枚の餅《もち》だった。丸く平らな朝鮮の餅に、きな粉がまぶしてある。先祖を祀《まつ》る祝い事があって餅をついたのであろうか、有難かった。
人目をしのんでくれた餅は、どんな食べ物よりも心がこもっていた。山の中での暮らしは決して豊かでない筈《はず》だ。清潔だが、洗いざらしの黒いチマは折り目に布目が白くあらわれていた。村の人に見られると非難されるだろう。江原道の山の中で日本人を見る事なく暮らしていたのだろう。女性の顔のすんだ瞳《ひとみ》は、今でもはっきり浮かんでくる。
大小権力の、フアッショ的民族虐待《ぎゃくたい》にさらされたさなか、朝鮮一般民族の人間性あふれた高い精神にふれて、私の凍った心に、陽光がうららにしみわたった。
、、、、、、、、、、、、、、、つづく、、、、、、
5月2日朝から気分がいい。幸先よい《さいさきよい=良い事のある前ぶれ》旅立ちだ。足弱がいないから道は捗《はかど》った。その夜早めに野営した。綺麗《きれい》に落ち葉を掃いた松林が続き、野宿には最適であった。近くに線路があり、なだらかな丘陵地帯は北の方向に降り気味に広がっていた。陽は高く充分に明るく、弟と小枝を拾っていた。
遠くに汽笛が聞こえてきた。あ、汽車なんだ、ひょっとしたら母達が乗っていないかなと思ったが、そんな馬鹿《ばか》な、広い朝鮮で別れて、2日たった今、都合よく母が乗った汽車が来るはずがないと打ち消しながらも汽車を待った。汽車が見え、段々近づいてくると胸騒ぎがした。やがて目の前を通過した。
乗っているではないか。母と妹が。こちら側に立っている。貨車が無蓋車《むがいしゃ=屋根の無い貨車》を連結し、それに日本人がいっぱい乗っていた。その中に乗っているのは、まさしく母だった。元山駅を1時間ばかり前に発ったのであろう。弟と顔を見合わせた。その夜、兄弟に嬉しさが広がった。それでよし。すべてよし。暗闇《くらやみ》の時代によくめぐり逢《あ》えたものだ。
長い時間をかけて山岳地帯をいく。すでに江原道に入ったのか高い山が連なっている。山を縫うように砂利舗装《じゃりほそう》した広い一級道路が峠に向かっていた。どうした訳か、トラック一台通らない。人影もなかった。登りつめた峠に一軒の家があった。井戸があり、使わせて貰《もら》い昼食をとった。晴れ渡り5月の空だった。見渡せば山々が遠くまで連なり、鶯《うぐいす》の声がした。
家の中から本を読む、素読のような唱和が聞こえた。子供のだ。近寄って覗《のぞ》いた。小学校2年ぐらいの子供が、5,6人あぐらをかいて座っている。もっとも、あぐらが正式だが、先生は書見台に本を置き、論語を教えていた。先生が一節読み、子供が唱和する。更に近づいた、先生の後ろからよく見れば、木判刷り《もくはんずり=木の板に文字を彫って紙に印刷したもの》を和とじした本に、四角く大きな字で、子曰《しのたまわく》と刷ってあった
この地も北朝鮮である。下界で繰り広げられている日本人の苦難が嘘《うそ》のようだった。峠を降りて行った。陽がかげった頃、部落を通った。村道にそって八軒ほど農家が並んでいた。わらぶきの家だった。数人の年寄りが我々を見物している。素朴な人々である。弟と後尾を歩いていた。
一人の女性が小走りに近づいてきた。黒いチマに白いチョゴリ、髪を真ん中から分け後ろにとめ、長めのカンザシを横にさしていた。風俗誌に見るような農村婦人だった。彼女は小さな紙包みを私にみせながら、「持って行きなさい。早く人に見られないように隠しなさい」という手真似でしめし、私の手に押し込んだ。振り返ると見送るように立っていた。包みは2枚の餅《もち》だった。丸く平らな朝鮮の餅に、きな粉がまぶしてある。先祖を祀《まつ》る祝い事があって餅をついたのであろうか、有難かった。
人目をしのんでくれた餅は、どんな食べ物よりも心がこもっていた。山の中での暮らしは決して豊かでない筈《はず》だ。清潔だが、洗いざらしの黒いチマは折り目に布目が白くあらわれていた。村の人に見られると非難されるだろう。江原道の山の中で日本人を見る事なく暮らしていたのだろう。女性の顔のすんだ瞳《ひとみ》は、今でもはっきり浮かんでくる。
大小権力の、フアッショ的民族虐待《ぎゃくたい》にさらされたさなか、朝鮮一般民族の人間性あふれた高い精神にふれて、私の凍った心に、陽光がうららにしみわたった。
、、、、、、、、、、、、、、、つづく、、、、、、