Re: 夕陽残照ー渡満篇ー 澤田恵三氏の文章から
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夕陽残照ー渡満篇ー 澤田恵三氏の文章から (grue, 2005/8/25 16:10)
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Re: 夕陽残照ー渡満篇ー 澤田恵三氏の文章から (grue, 2005/8/26 10:28)
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Re: 夕陽残照ー渡満篇ー 澤田恵三氏の文章から (grue, 2005/8/27 11:33)
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Re: 夕陽残照ー渡満篇ー 澤田恵三氏の文章から (grue, 2005/8/27 17:30)
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Re: 夕陽残照ー渡満篇ー 澤田恵三氏の文章から (grue, 2005/8/27 18:12)
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(その2) 満州へ ー契機ー
私は昭和6年(1931)7月の生まれである。その同じ年の9月18日に満州事変《注1》が起こっている。そして6才(1937)の時、日中戦争が開始された。その後も重要な歴史的事件の節目節目にぶつかっている。これも何かの因縁かもしれない。
ところで、私の祖父は、大正の始め(1913)に満州「本渓湖」に渡りお寺を建てた。その祖父は、政治的右翼であり、昭和十一年(1936)の二.二六事件《注2》で反乱軍側に荷担《かたん=味方する》関係したため、私達家族は、その満州のお寺を維持するために、交代として満州に渡ることになった。
《注1 満州事変》
《1931年9月 柳条湖の鉄道爆破事件で始まる日本軍の中国東北侵略。1932年、日中戦争に発展》
《注2 二.二六事件》
《1936年2月26日、陸軍の皇道派青年将校達が首相官邸他を襲撃したクーデター事件。事件後軍部の政治支配力が著しく強化された》
(その3) 満州へ ー朝鮮鉄道ー
私は昭和十二年(1937)春、父母と二歳うえの姉と親子四人、九州大分県から朝鮮半島を経由して南満州の本渓湖という町へ移住した。既に述べたように、それより二五年前(1913)、祖父も同じ道筋をたどって単身満州へ渡った。明治の末(1911)から昭和十年代(1935―1944)にかけて、何百万という多くの日本人がこのわたしたちと同じ朝鮮経由で、満州と日本内地のあいだを行き来している。大正のころ(1912-1926)に流行《はや》った「馬賊《ばぞく=馬を使った盗賊》の唄《うた》」というのがあるが(参考1)、これはその当時の日本人の気持ち・心情をよく表している。
それら「満州移民」の通った最も主要なルートが、朝鮮半島を経由するルートであり、私の家族も同じ道をたどった。まず山ロ県下関港から涙のテープで別れを惜しみ、玄海灘《げんかいなだ》を関釜《かんぷ》連絡船で九時間、朝鮮の釜山港へ上陸する。そこははじめての異郷の地だ。
釜山駅から朝鮮鉄道(参考2)を半島の西海岸にそって、京釜線(京城ー釜山)及び京義線(京城ー新義州)に乗って北上し.ソウル(京城)ーピョンヤン(平壌)を経由して鮮満国境のシンイチュ(新義州)の町にはいる。
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(参考1) 「馬賊の唄」
『僕《ぼく》も行くから君も行け
狭い日本にゃ住みあいた
浪の彼方にゃ支那《しな》がある
支那にゃ四億の民が待つ』
『御国(みくに)出てから十余年
いまじゃ満州の大馬賊
亜細亜《あじあ》高根の間から
くり出す手下が数千人』
このあとにつづく歌詞の支那の中身はすべて満州であった。熊本県人で孫文と親交厚く中華民国革命を助けた志士.宮崎滔天《みやざきとうてん》が、各地演説会を開くごとに、この歌をうたって聴衆の喝采《かっさい》をあびたという。
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(参考2) 朝鮮鉄道建設の経緯
朝鮮鉄道の敷設はさまざまな経緯はあったが(アメリカ又はロシアに敷設される可能性があった)、すべて日本の手によってなされたものだ。半島の縦貫線は日露戦争(1904・2月-05・9月)の最中、軍事戦略上の急務から日本政府の手によって急ピッチで強力に進められ、京釜線(釜山-京城)は明治三八年(1905)一月に完成したが、京義線(京城-新義州)の全面開通は戦後の同年(1905)一二月までかかった。
ちなみに、日本政府はいろいろ紆余曲折《うよきょくせつ=いろいろ変化すること》はあったがこの朝鮮・「満州」貫通鉄道の軌道《きどう=レール》の巾に、日本本土とは違った世界標準軌巾の四フィート八インチ半(一四三五ミリ)を、いわゆる広軌を採用して敷設した。今日でも日本本土の一般鉄道のゲージ巾は三フィート六インチ(一〇六七ミリ)の狭軌であり、広軌が採用されたのは一九六四年になってから新幹線に対してである。
ところで、ロシアの鉄道は標準軌よりも広いロシア広軌(5フィート、1524ミリ)であった。日清戦争(1894)以降も韓国に影響力を持っていたロシアがもし京釜線の敷設権を得ていれば(王妃(閔妃)暗殺事件(1895)は韓国をロシア側に追いやり危機であった)、モスクワから釜山までロシア広軌で直接繋《つな》がる鉄道ができていたかもしれない。日本政府・軍部がそれをどれほどおそれていたか言うまでもない。
当時、大陸に渡った日本人がまず驚かされたのが、日本より広い標準軌ゲージで作られ迫力にみちた機関車の大車輪と、ゆったりとした大陸列車の雄姿であった。昭和十年代「満州」在住の日本人が最も誇りにしていたものは、大連・新京(現・長春)をつなぐ満鉄本線「連京線」を驀進「color=CC9900」《ばくしん》「・color」する、最新流線型の特急「あじあ」号であったことも付記しておきたい。
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続く