Re: 夕陽残照ー渡満篇ー 澤田恵三氏の文章から
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夕陽残照ー渡満篇ー 澤田恵三氏の文章から (grue, 2005/8/25 16:10)
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Re: 夕陽残照ー渡満篇ー 澤田恵三氏の文章から (grue, 2005/8/26 10:28)
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Re: 夕陽残照ー渡満篇ー 澤田恵三氏の文章から (grue, 2005/8/27 11:33)
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grue
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(その4) 満州へ ― 満州鉄道・安奉線1
満州の「安奉線」について語る前に、地図(下図)を見ていただきたい。満鉄創立時(1906)のものである(下に写真あり)。 又、満州鉄道に関する記述に関しては、「満州の誕生ー日米摩擦の始まりー」著者・久保尚之(丸善ライブラリー)を参考にした。
本の面積の三倍もある広大な「満州国」の玄関廊下といってもよい安奉線は安東(現・丹東)から奉天(現・瀋陽)に近づくまで、その全線の八割が「緑山碧水《りょくざんへきすい=緑の山、青く澄んだ川》」の山岳地帯を走り、二四のトンネルをくぐり、二〇五の鉄橋を渡り変化に富んだ風景の連続である。日本の鉄道と少しも変わらないような鉄道であり風景であった。
昭和四年(1929)に満鉄〔南満州鉄道株式会社〕が発行した「南満州鉄道旅行案内」という満州の旅行案内書がある(参考4)。この頃になると、満鉄はすでに営業路線六(連京線・安奉線・旅順線・営臼線・撫順線・煙台炭鉱線)一一五〇キロにおよび、満鉄がなければ満州はないといわれたほど満州開発の尖兵《せんぺい=先頭に立って物事を進める人》であった。この旅行案内を抜粋しながら、安奉線の車窓の景観を見てみる。これが当時の安奉線沿線の様子をよく描写している。
(大連の満鉄本社(1942年まで))
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(参考4) 安奉線の沿線
『安奉線は安東を起点として北行し、奉天に至る一七一哩《マイル》(約二七五キロ)の鉄道である。全線のうち、平坦な地区は僅《わず》かに奉天石橋子間の三〇余哩に過ぎずその他は長白山系の山岳渓谷地で、分水嶺《ぶんすいれい》たる祁家塗(しかほ)駅を境として鉄道は勾配を以て徐々に上り、また徐々に下っている。この間如何《いか》に山多きは大小二四箇所の随道《すいどう=トンネル》、また如何に多くの河川に接するかは総数二〇五の橋梁《きょうりょう=橋》にみても伺い知ることができる。従ってこの沿線は満鉄本線(連京線)の車窓から眺めた広漠《こうばく=果てしなく広いさま》たる平原の景観はなく、これに反して緑山碧水、あたかも木曾川を思わしめ、耶馬渓《やばけい》を偲《しの》ばしむる極めてチャーミングな風景に接し得る』
『この線を行く人、心して、往年日露の役の流血の跡がこの全線に亘《わた》って遺《のこ》れることを偲び給え。車窓から望見する記念碑、戦蹟道標、各駅構内の戦蹟案内標のことごとくが諸子の注意を喚起するであろう。その外、沿線村落に散見する満州族の建築を知り、あるいは杭木、薪炭等の産物を積む駅多きこと及び全線の北半に木粉を挽《ひ》く水車、南半に鮮支人経営の水田多きことに沿線産業の輪郭を悟り給うであろう』
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続く