「最後のトマト」 ヒロシマを自分の「ことば」で。 <英訳あり>
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「最後のトマト」 ヒロシマを自分の「ことば」で。 <英訳あり> (団子, 2005/12/1 14:15)
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Re: 「最後のトマト」ヒロシマを自分の「ことば」で。竹本成徳氏の手記【二】 (団子, 2005/12/7 19:14)
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「最後のトマト」ヒロシマを自分の「ことば」で。竹本成徳氏の手記【三】 (団子, 2005/12/12 21:18)
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「最後のトマト」ヒロシマを自分の「ことば」で。竹本成徳氏の手記【四】 (団子, 2005/12/19 22:02)
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「最後のトマト」ヒロシマを自分の「ことば」で。竹本成徳氏の手記【四】 (団子, 2005/12/19 22:02)
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「最後のトマト」ヒロシマを自分の「ことば」で。竹本成徳氏の手記【三】 (団子, 2005/12/12 21:18)
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Re: 「最後のトマト」ヒロシマを自分の「ことば」で。竹本成徳氏の手記【二】 (団子, 2005/12/7 19:14)
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投稿日時 2005/12/1 14:15
団子
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昭和二十《1945》年八月六日、午前八時十五分十七秒…。
一発の原子爆弾の投下で、広島の町は一瞬にして廃墟《はいきょ=荒れ果てた跡》と化しました。その時間、わたしは爆心地からわずか一キロという広島市役所の建物の西側にある植え込みの中にいました。
「ピカッ、ドーン!」と、ものすごい光とものすごい音がしたかと思うと、まわりは一瞬のうちにまっ暗になってしまいました。これまで、おおぜいの人が広島について書いたり、語ったりしていますが、あの“きのこ雲”の下は、先が見えないほどまっ暗になってしまうということは、意外に知られていません。
そのまっ暗やみのなかを、わたしは何時間も逃げまどいました。逃げる途中で、死んだ人、大やけどをした人も数え切れないほど見ました。瓦礫《がれき=かわらや小石など》の下のうめき声も聞きました。いまでもその声が耳の奥によみがえることがあります。ごぞんじのように、ヒロシマの記録はたくさんあります。しかし、それですべてが語りつくされたかというと、そうはいえません。
なおもわたしがお話ししておかなければならないと考えたのは、わたしのヒロシマを、わたし自身の「ことば」で語らなければならない。わたしの「こころ」で語らなければならないと思ったからです。これは、その八月六日のわたしの体験を中心としたお話です。
(一)
わたしは昭和六《1931》年八月二十二日、広島市西部の草津町(現在は広島市西区)というところで生まれました。いまでは周辺の町村を合併して市域が広くなりましたが、広島市内といっても当時はいちばん西の端で、すぐとなりは郡部(佐伯郡)でした。草津町は背後の山と瀬戸内海が接近したところで、海岸にせまるようにして山陽本線が走っています。すぐ目の前は穏やかな広島湾で、家から走っていけば、そのままドボンと海へ飛びこむことができました。毎朝早くからボンボン船の音が聞こえます。天気のよい日には、わたしの家の二階からは日本三景のひとつ、安芸《あき》の宮島が遠望できました。
草津町は半農半漁の町でしたが、昔から広島の中央魚市場がありました。広島湾や伊予灘《なだ》で獲《と》れた近海魚が中央魚市場に水揚げされてきます。目の前の広島湾は、広島カキの一大養殖地としても有名なところでした。遠浅の海でしたから冬は海苔《のり》の養殖ができました。アサリ、ハマグリという海産物にも恵まれています。かつては大小百三十軒ものカマボコ工場もありました。私の家は畑のなかの一軒家でした。ニワトリを飼っていましたから卵に日付を書いて大事に籾殻《もみがら=籾米の外皮》のなかに入れて、ヒヨコに孵《かえ》したりしていました。卵をお日さまにかざすと、なかがすけて見えます。「ああ、まだ血液ができていない。いつごろ孵るかな」などといいながら待っているのが子供のころの楽しみのひとつでした。家のまわりは田んばと畑ばかりですから、夏休み、昼寝をしていると、そこらじゆうでキリギリスが鳴いているのが聞こえます。昼寝から目覚ざめると、トンボ釣りにいったり、カエルを捕りにいったりします。ウサギもモルモットも犬も猫も、全部飼っていたような自然でした。伝書鳩《でんしょばと=ハトの帰巣性を利用して通信に用いた》も三十羽位いて、すぐ上の兄と熱中して「勉強しない」と母親からよく叱《しか》られました
このように豊かな自然に恵まれて、じつにのんびりとした、平和なくらしのつづく町でした。ところが、わたしが生まれた昭和六年は、満州事変《1931年9月、日本軍の鉄道爆破事件により日中戦争のきっかけとなった》が勃発《ぼっぱつ=突然始まること》した年です。翌年には第一次上海事変が起き、満州国が建国《=日本が中国東北部に作り上げた仮の国家、終戦により消滅》されるなど、日本の大陸侵攻がはじまっていきます。
昭和十二《1937》年、小学校に入学した年の夏には、日中戦争がはじまりました。その年、わたしの兄は中国へ出征して、海岸線から六百キロ以上も奥に入った長沙というところまで進軍していました。その兄に宛《あ》てて 手紙や慰問袋《いもんぶくろ=戦地の兵を慰めるために、日用品、娯楽品、手紙などを入れた袋》を送った覚えがあります。四年生の十二月八日には、ついに太平洋戦争がはじまりました。真珠湾攻撃の臨時ニュースを小学校の教室で聞いて、子供ながらも非常に興奮したことを覚えています。
そして、昭和二十《1945》年の八月六日がやってきます。広島に原爆が投下されたとき、わたしは広島修道中学の二年生でした。
(二)
明治時代から重要な軍都だった広島
八月六日の広島地方は、朝から抜けるような青空が広がっていました。その日、わたしたちのクラスは家屋の倒壊作業員として動員《=戦時中労働力不足を補うため中等学校以上の生徒・学生を強制的に就労させた》を受けていました。朝七時五十分に広島市役所に集合するために、わたしは弁当を持って家を出ました。当日のいでたちは白の半袖シャツに国防色《=カーキ色》のズボン、上着、それに脚にはゲートルをまいていました。靴だけは手に入らず、履き物はわら草履でした。その左足には白い包帯が巻かれていました。包帯は前の晩、あやまって釘《くぎ》を踏んでしまったからでした。風呂《ふろ》の炊きつけにするために、姉といっしょに大八車《だいはちぐるま=人が引く荷物運搬用の二輪車》を引き壊された家屋の廃材を拾いにいったのですが、うっかりしていて釘を踏みつけてしまったのです。たいしたけがではありませんでしたが、黴菌《ばいきん》が入ってはいけないと思い、朝、出がけに包帯を巻いたのです。旧制中学ですから五年制の学校です。
家の最寄り駅から、己斐という駅までの電車通学は許されていましたが、己斐から先は一年生から五年生までがそろって、学校まで片道四十五分の道を集団で徒歩通学していました。戦争中でしたから、からだを鍛《きた》えるためにみんな歩いたのです。わたしたちの学年は五クラスありましたが、その日、ひとつのクラスは汽車で一時間ほど離れた山のなかで穴掘、もうひとつのクラスは学校で勉強することになっていました。残りの三クラス、百五十人が倒壊作業員として動員を受けたのです。
倒壊作業とはなにかというと、家屋疎開《かおくそかい》という作業をするのです。家屋疎開というのは、街の一定の区域にある家を幅八十メートルにわたって全部壊して木材を運び出し、空き地をつくるのです。家が密集しているところへ焼夷弾《しょういだん=油脂とさく薬を混ぜた爆弾》の攻撃を受ければ、火がつぎつぎに延焼してしまうおそれがあります。燃えるもののない防火帯を作っておけば、もし火災が発生しても、燃え広がる心配はありません。
こうして街の東西南北には、いくつかの防火区画がつくられました。動員されたのはわたしたちだけではありませんでした。他の中学校や女学校の生徒たち、年をとった男の人、お腹に子供がいるおかあさん、おばあさんたちなど、激しい労働はできなくても、軽作業ならできるという人たちが全部かり出されていました。
なかには一時間以上もかかるところからきている人もいて、市内はいつも以上に人で埋めつくされているような状態でした。それ以外にも、ふだんどおり勤めめに出てきた人、朝食を終えて家でくっろいでいた人など、八時十五分の時点で、広島市内には二十七万から二十八万人の人がいただろうと推測されています。
(三)
春ごろから、広島上空に飛来する飛行機の数がだんだんふえるようになっていました。夜が明けると、ラジオから「西部軍管区司令部発表・・・・・・。ただいま、土佐湾のはるか洋上敵空母現る」という放送が流れます。
敵機がそのまま土佐湾上空に近づいてくると、「敵機はただ今、土佐湾上空を四国本土に向かって飛来中」と放送され、警戒警報が出されます。敵機は四国を越えて、愛媛県と広島県、山口県のあいだにある瀬戸内海の伊予灘を、なおも北上してきます。すると、広島に空襲警報が出ます。市内の全部の小学校のサイレンが町じゅうに鳴り響きます。さらにラジオが「敵機は広島湾上空に侵入」と告げるころには、艦載機の何十という編隊が、はるかむこうの島陰からまっ黒になって飛んでくるのが見えます。編隊はだいたい十機から十二、三機で構成されていましたが、その編隊がいくつもいくつもやってきて、目の前に見える似の島の向こう側にある江田島や呉軍港に向かって急降下しながら爆弾や爆雷を落として帰っていくのです。
広島は戦争中、西部軍管区司令部が置かれていたように、軍都でしたから、要塞《ようさい》基地でもありました。湾内の島々には敵機を迎え撃つために、何門もの高射砲や機関砲が配備されていました。あるいは、広島のすぐ近くにある呉は日本最大の軍港でしたから、日本海軍の主要な軍艦がほとんど入港していました。
編隊がやってくると、地上からも軍艦からも、いっせいに砲弾が浴びせられます。しかし、猛スピードで飛ぶ飛行機にはなかなか命中するものではありません。けれども、ときには火ダルマになって墜落していく飛行機を見ることもありました。こうして毎日のように空襲を受けるのはあたり前のようになっていましたが、わたしが不思議に感じていたのは、広島にはよその都市が受けたような、大規模な空襲がないということでした。昭和十九《1944》年から米軍による本土空襲がはじまりました。
二十年になると、三月にはB29《アメリカボーイング社製の大型爆撃機》三三四機という大編隊による東京大空襲があったのをはじめ、名古屋、大阪という大都市が軒並み空襲にさらされるようになりました。広島の近くでも、呉、岩国、徳山などが大規模な空襲を受けていました。広島は太平洋戦争中だけではなく、すでに日清《日本と清国1984年》・日露《日本とロシア1904年》戦争があった明治時代に大本営《最高の統率機関》が置かれたという歴史を持つ、たいへんに重要な軍都でもあり、軍人の数も多い街でした。当時は馬も重要な兵器のひとつでした。
広島は軍人と馬と兵器と食料を運び出す一大軍事基地でもありました。現在の南区には宇品という港があり、毎日夕方になると、この港から軍用船が煙をはきながら、広島から山口ヘ、豊後水道《ぶんご=愛媛県西岸と大分県海岸との間の海岸》を越えて中国や南方へ、また関門海峡《=下関,門司間》を越えて朝鮮半島や旧満州に向かって航行していました。わたしの家からも広島湾をゆきかう軍用船を見ることができました。眼前に開けた広島湾のむこうは、有名な海軍兵学校のあった江田島です。その向かい側が呉《くれ》です。呉にはいまも海上自衛隊の基地があります。
そんなところですから、どこよりも先に爆撃にさらされる都市ではないかと感じていたのです。大規模な空襲がないということがふしぎでした。
なぜ大規模な空襲を受けなかったかは、戦後になって明らかにされました。アメリカの統合参謀本部は原爆の効果をはっきりさせるために、当初、原爆投下目標としていた広島、京都、小倉、新潟の四つの都市は通常爆弾や焼夷弾で爆撃することを禁止していたのでした。これもあとになって「そういうことだったのか」と思ったことがあります。それは原爆投下前に米軍がまいた宣伝ビラを拾ったことです。家の近くの海ヘアサリを獲《と》りにいったときにそのビラを拾ったのですが、そこには日本地図が掛かれ、ちょうど広島のあたりに「?」のマークがついていました。なんとなくへんな気がして、いつまでも気にかかっていましたが、まさか「?」が原爆であったとは想像もしてみませんでした。
(四)
ピカッ、ドーン! ものすごい光と音
点呼が終わると、私たち150人の生徒全員は4列縦隊になって家屋疎開の場所へ歩きはじめました。私は比較的背の高いほうでしたから、前から2列目を歩いていました。200メートルか300メートル歩いたところで、担任の岩崎先生が私を呼び止めました。そして、「竹本、君はここから弁当の番に帰ってくれ」と言われたのです。「弁当の番とはおもしろくないな。みんなと一緒に行って作業する方がおもしろいのにな」と思いましたが、命令ですから帰らなければなりません。みんなはそのまま作業現場へ向かっていきましたが、私は隊列を離れて、ひとりトボトボと市役所に戻りました。
なぜ先生が私に「帰れ」といわれたのか、わかりませんでした。もしかすると私の足に巻かれた包帯をみて、作業は出来ないと思われたのかもしれません。たいした怪我ではなかったのに、大袈裟《おおげさ》に包帯を巻いて来た事を「しまった」と思いました。もう一つは後で解《わ》かった事ですが、他のクラスはふたりづつ弁当の番を残していたのに、私のクラスは一人残しただけでした。先生が途中でそのことに気付かれたのかもしれません。
集合したころから、すでに夏の太陽がジリジリと照りつけていました。日陰になった市役所の建物の西側の植え込みの中に、弁当とみんなが脱いでいった上着が置いてありました。戻ると、わたしのクラスの斉藤陽二くんがひとり弁当の番をしていました。「なんだ、竹本。帰ってきたのか」「おう、斉藤。帰ってきた。ふたりで弁当の番をやろう」というわけで。彼の横に腰をおろしましたが。弁当の番をするといっても、見ているだけですから、とくにやることはありません。なにか暇つぶしをやらなければ、みんなが弁当を食べに戻ってくるお昼まで、時間をもてあますだけです。そこで、軍人勅諭《ちょくゆ》からはじまる教練の教科書を、おたがいがどれだけ暗唱できるか、確かめあおうということになりました。教練の教科書は中学の一年から二年のあいだに、どうしてもマスターしておかねばならないことでした。どうせ将来は軍人になると考えていましたから、そのために覚えておかなければならないこともたくさんありました。「さぁ、はじめようか」と、かけ声をかけたところで、突然「ピカッ、ドーン!」という、ものすごい光と音がしました。それはいままで見たこともないような、
ものすごい光でした。そして、
ものすごい音でした。
それに、ものすごい熱さです。
昔は写真店で写真を写してもらうとき、ストロボのかわりにマグネシウムというものを焚《た》きました。撮影技師の合図で、「さぁ、光るぞ」とわかっていてもびっくりしてしまったものですが、その何千倍、何万倍、いや何億倍という強い光が、私達の目の前でパーッとはぜたのです。同時にものすごい音がしました。体がぐらぐらと揺れたかとおもうと、ものすごい熱い空気に包まれていました。
空襲を受けた時は、鼓膜がやられないように手の親指を耳の中突っこみ、目の玉がとびでないように残りの指で目をおさえて伏せる、という訓練を身に着けていましたから、とっさに耳と目をおおって、植え込みの陰にからだを伏せました。空襲をうけたかどうか、このときはまだ、知りませんでしたが、ものすごい光と音に、からだがとっさに反応したのです。
午前8時15分17秒。一瞬のうちの出来事でした。、、、つづく、、、