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「最後のトマト」ヒロシマを自分の「ことば」で。竹本成徳氏の手記【四】

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団子

通常 「最後のトマト」ヒロシマを自分の「ことば」で。竹本成徳氏の手記【四】

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/12/19 22:02
団子  半人前   投稿数: 22
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おまえ、生きとったかぁ

 わたしは陸軍病院からもう一度桝本くんの家に戻って、おにぎりをふたついただいて食べました。それから天満川、太田川の放水路とわたって、やっとのことで広島から下関に通じる国道二号線に出ました。ここまでくれば、わたしの家まではあと四キロはどでした。すでに原爆投下の瞬間から十時間が過ぎて、夕方の六時をまわっていました。国道二号線も、市中に助けに向かおうとする人、ふとんや家財道具を持って市中から逃げる人、道端に倒れてしまった人たちが入り乱れて、大変な雑踏でした。その雑踏をかきわけるようにして歩いていくと、前方で、「しげのりツ!」と自転車に乗った男の人が叫んでいます。わたしの父でした。

「あっ! おとうさん」「おまえ、生きとったかぁ。死んどると思っとったぁ」父はわたしの姿を見つけて、びっくりした様子でした。どうしてかというと、すでに父のもとには、広島修道中学二年生の三クラスがいた広島市役所は全滅だ、という情報が入っていたので、もう生きていはいまいと、わたしのことはあきらめていたからです。せめて日銀に勤めていた娘の安否だけでも確かめようと、自転車を走らせてきたのでした。

 父はわたしにあとのことをいいふくめると、まだボウボウと燃えさかつている廃墟《はいきょ》の街へ自転車を漕《こ》ぎだしていきました。わたしは急いで家に戻り、リヤカー《=荷物運搬用の二輪車》をひっぱり出しました。そのリヤカーにふとんを敷いて、近所に嫁いでいたもうひとりの姉といっしょに、あらかじめ父と打ちあわせておいた、家から三キロほど広島寄りの場所へ急いで引きかえしました。夜九時ごろになって、自転車のうしろに姉を乗せて父が戻ってきました。姉は日銀の地下にいたということでした。すぐに姉のからだをリヤカーのふとんの上に横たえ、家まで三キロの道のりを必死の思いで走りました。何度も息が切れそうになりましたが、姉を少しでもはやく畳《たたみ》の上に寝かしてやりたいという思いで、無我夢中でした。暗やみのなかでも、姉の症状が相当にひどいことがわかったのです。日本銀行のある場所は、爆心地から五百メートルも離れていないところでした。座敷に寝かせた姉のからだをあらためて見ると、全身に大やけどを負っていて、見る影もありませんでした。

 姉を寝かせると、父はまた外へ出ていきました。町内会の会長をしておりましたので、地元の小学校で救護班の責任者をつとめなければなりませんでした。小学校は、広島から逃げてきた人たち収容所になっていました。いのちからがら逃げてきても、どんどん死んでいきます。死んでしまった人は、つぎつぎに教室から運動場へ運び出さなければなりません。そうでないと、まだ生きている人の手当てができないという状態でした。いまに死んでいこうとする娘がいても、父は出かけていかなければならなかったのです。かわりに、わたしがずっと姉のそばについていました。姉の意識はしっかりしていて、しばらくすると、「便所にいきたい」といいだしました。

 まだ自分で立とうとする気力は残っているようでしたが、ふとんの脇にはオマル《便器》を用意してありましたから、「いかんでもいい。ここですればいいじゃないか」と勧《すす》めたのですが、どうしても自分でいきたいといって聞きません。仕方がないので、わたしは姉がいうとおり、手を貸して便所につれていきました。そして、うしろから抱えながらおしっこをさせました。廊下をはさんで、便所のむかいに風呂場がありました。風呂場の脱衣所に姿見がありました。四年前、わたしが小学校五年生のときに亡くなっていた、母親の形見の鏡台です。「あっ」鏡台があったことに気がついたわたしは、思わず息を飲んでしまいました。そして、うかつだった自分を激しく責めました。しかしすでに時遅しでした。姉は自分の目で、鏡に映る自分の姿を見てしまったのです。全身にやけどを負っているだけではなく、頭に三つぐらい穴のあいた姉の姿は、とても二十歳の娘、とても人間の形相《ぎょうそう》とは思えませんでした。なんということか。

 どんなことがあっても元気づけなければならない瀕死《ひんし》の姉にわたしは醜《みにく》い姿を見せてしまったのです……自分の姿を見てしまった姉は、「これは人間じゃない。人間の顔じゃない」といって泣き出しました。「これは人間じゃない。こんな姿では生きておってもつまらん」それまでは自分で立ちあがろうとする気力もあったのに、鏡を見たとたん、すっかり弱気になってしまいました。

 あの鏡さえなかったら……いや、わたしが便所につれていきさえしなければ……。姉は自分の醜い姿を見なくてもすんだ……。そう思うと、どんなに悔やんでも悔やみ切れない。どんなに残念がっても追いつかない。やりきれない。やりきれない。わたしの一生の不覚でした。夜中、父は一度帰ってきましたが、又すぐに出かけていきました。残った私と上の姉と祖父と、それに生まれたばかりの赤ん坊を連れた長兄の嫁でひと晩じゅう寝ずに姉の介抱《かいほう》をしました。

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最後のトマト

翌朝、5時過ぎになってやっと父が帰ってきました。徹夜の作業で疲れたのか、台所の板の間にあぐらをかいて座り、しばらくしていましたが、いきなり正座をしなおしたかと思うと、私を呼びつけました。そして、「成徳、裏の畑へいって、トマトをもいでこい」といいつけたのです。「あっ」とわたしは思いました。父は正座したまま、目は1点だけをじっと見すえていました。わたしはまだ中学二年生にすぎませんでしたが、子供心にも父が覚悟を決めたことがわかりました。わたしがトマトをもいで戻ると、父は急須にトマトを絞ってジュースをつくりはじめました。トマトは姉の大好物でした。「冷子はものすごくトマトが好きな子やから……。」父はそうつぶやきながら、ジュースを絞り終えると、枕《まくら》元にいって、吸い口を姉の口にあてました。姉はコクコクとのどを鳴らしながら、「おいしい、おいしい」といって飲みました。

 やけどや大けがをすると、人間はのどが乾きます。原爆で死んでいく人たちも、「兵隊さん、水ちょうだい。兵隊さん、水ちょうだい」といいながら死んでいきました。ところが、水を飲ませると死んでしまいますから、「水を飲んだら死ぬから、水は飲んだらいかんよ」といって、だれも与えないのです。だから、仏様をおがむようにして、「兵隊さん、水ちょうだい。兵隊さん、水ちょうだい。死んでもいいから水をください」と手を合わせて頼むのです。わたしの姉も水をほしがりましたが、飲ませたら死ぬということがわかっていましたから、絶対に与えませんでした。柔らかい布に水を含ませて、、くちびるを少し湿らせやる程度です。姉が小康《しょうこう=病期がいくらか治まっている》状態を取り戻したのを見ると、父はまた救護班の活動で小学校へ出かけていきました。九時ごろ、とうとう姉の息づかいがあやしくなってきました。

父はまだ戻ってきません。枕元にはわたしと祖父、もうひとりの姉と生まれたばかりの赤ん彷を抱いたわたしの兄の嫁がいるだけでした。「おとうさん、おとうさん」父がいないのに、姉は父を呼びました。わたしたちがかわるがわる覗《のぞ》きこんで励ますのですが、気がつかない様子でした。もう目が見えなくなっていたのでしょう。「もう少ししたら、おかあさんが迎えにきてくれるよぉ」ともいいました。姉は自分が死ぬことを覚悟したんだな、とわたしは思いました。しばらくすると、また口を開いて、「おとうさん、先立つ不幸をお許しください」
といいました。「なにをいうとるんじゃ。しつかりせい。もしかわってやれるものなら、わしがこの子のかわりに死んでやるのに……。」祖父が励ましましたが、途中から涙声になってよく聞きとれませんでした。「しっかりせい、ねえちゃん。おれは海軍の飛行機乗りになって、ねえちゃんのかたきは絶対にとってやる。だから頑張れ、ねえちゃん。」しかし、励ましのことばもむなしく、姉は息を引きとりました。
八月七日午後九時四十分……。静かな最期《さいご》でした。、、、、、、つづく

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