「最後のトマト」ヒロシマを自分の「ことば」で。竹本成徳氏の手記【五】
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「最後のトマト」 ヒロシマを自分の「ことば」で。 <英訳あり> (団子, 2005/12/1 14:15)
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Re: 「最後のトマト」ヒロシマを自分の「ことば」で。竹本成徳氏の手記【二】 (団子, 2005/12/7 19:14)
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「最後のトマト」ヒロシマを自分の「ことば」で。竹本成徳氏の手記【三】 (団子, 2005/12/12 21:18)
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「最後のトマト」ヒロシマを自分の「ことば」で。竹本成徳氏の手記【四】 (団子, 2005/12/19 22:02)
- 「最後のトマト」ヒロシマを自分の「ことば」で。竹本成徳氏の手記【五】 (団子, 2005/12/22 16:15)
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「最後のトマト」ヒロシマを自分の「ことば」で。竹本成徳氏の手記【四】 (団子, 2005/12/19 22:02)
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「最後のトマト」ヒロシマを自分の「ことば」で。竹本成徳氏の手記【三】 (団子, 2005/12/12 21:18)
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Re: 「最後のトマト」ヒロシマを自分の「ことば」で。竹本成徳氏の手記【二】 (団子, 2005/12/7 19:14)
団子
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(12)
もっとも残酷なこと
人が死んでも、もちろん棺桶《かんおけ》などありません。ありあわせの木を棺桶のように仕立てて姉のからだを納め、白い布でおおってやるぐらいのことしかできません。それを家族みんなで山まで担いでいきます。山に穴を掘って、薪を敷きつめ、その上に棺を置いて荼毘《だび=火葬》にふすのです。町じゅう、どこを見ても犠牲者のいない家ははとんどありませんでした。どこの家でもおなじようなことがあったと思いますが、わが子を自分の手で焼かなければならなかった父の思いは、どれほど無念であったであろうと思います。
自分も子供を産み、育てる年齢になって、このときの父の気持ちを想像してみると、胸のつまる思いがします。原爆では、戦争では、残酷なことが、それはそれは数え切れないほどいっぱいありました。しかし、もっとも残酷なことではなかったかと、わたしに思えるのは、わが子を自分の手で焼かなければならない、父のような人たちがいたことだったのではないでしょうか。それでも考えてみれば、家までつれ帰ってもらい、手当てを受け、肉親に見守られて亡くなっていった姉は、まだ幸せなほうだったかもしれません。
何万人という人が、身内のだれにも会えずに死んでいかなければならなかったからです。原爆投下から満五十年の平成六年の夏、わたしは母校・広島修道中学の慰霊祭に出席しました。「慰霊」ときざまれた大きなか自然石の裏には、原爆で亡くなった、百三十六名の先生と生徒の名前がきざまれています。ひとりひとりの名前を指でたどりながら読んでいくと、まぶたの裏には五十年前の先生の顔、友達の顔がまざまざと浮かんできました。しかし、このなかの多くの人は、いまだに遺骨が見つかっていません。おそらく今後も見つかることはないと思います。どこで死んだのか、永遠にわからないのです。ヒロシマの街は二週間ほど燃えつづけました。わたしの家から見る市内の上空は、夜になるとまっ赤な空にかわりました。原爆のあと、わたしは幾度か広島市内に入りました。町のいたるところに死体が転がっていました。防火水槽のなかで、風呂に入るように座ったまま息絶えている人もあれば、半分入りかけたまま死んでいる人、さかさまにひっくりかえっている人もいました。川があれば川を求め、近くに川のない人たちはこぞって水を求めたのです。
人だけではなく、馬が倒れ、牛もひっくりかえっていました。 馬のお腹はものすごくふくれあがっていました。自動車も市電もひっくりかえったままでした。真夏ですから死体の腐乱も進みます。腐りはじめると、ものすごい臭いがします。それにもかまわず、みんなが自分の家族や知人を求めて探しまわったのです。
街では、くる日もくる日もわが子を求めて探しまわる母親の姿を見かけました。みんな半狂乱《はんきょうらん》です。防火水槽のなかに浮いている死体を見つけると、わが子ではないかとひっくりかえして見ます。どの川も、うつ伏せになって浮いている死体と、焼け焦げた木片でいっぱいでした。潮が満ちるとそのまま上流へ流れていき、引くとまたもとのところへ戻ってくるというようにたゆたって、二週間も三週間もそのままになっていました。人びとは橋の上からその死体を見ると、ザブザブと川に入っていって、うつ伏せになった死体をひっくりかえして見るのです。死んでから何日もたって、もう顔のかたちも削れてしまっていますから、見ただけでは自分の肉親かどうかさえわかりません。それでもひっくりかえして、確かめずにはいられないのです。こんなことは親でなくて誰ができるのでしょうか。
きのうもきょうも、夜が明ければ収容所をたずね歩き、五日も六日も、「きょうもだめだった、きょうもだめだった」という日がつづいて、収容所という収容所は全部見たといっても、それでもたずねて歩くのです。「戦場心理」ということばがあります。いまのわたしたちは、交通事故でひとりの人が倒れるのを見ただけでおそろしいと思うはずです。けれども、原爆のあとの広島は戦場とおなじで、死体が累々《るいるい》としたなかを何日も何日も歩きつづけていると、やがて死体を見てもなんとも感じなくなってくるのです。おそろしいことですが、人間はそういうふしぎな面を持っているのです。こうして多くの人が肉親には会えずに亡くなっていきました。その死体は山のように積みあげ、ガソリンをかけて焼く以外に方法がありませんでした。焼いても遺骨を埋める場所がありませんでしたから、防空壕のなかに納めました。
しかし、防空壕はじきに骨でいっぱいになってしまいました。もちろん、どこのだれともわからない遺骨がいっぱいありました。こんな悲劇があっていいものか、こんな地獄があっていいものか、とわたしは何度も何度も思いました。また、そういうことを考えると、わたしの姉はまだ幸せなほうだったと思いました。
過ちは繰り返しませぬ
戦後、ずっとたってから、広島の原爆記念病院をたずねました。病院には広島市内の地図が貼《は》ってありました。この地図が普通の地図と違う点は、いたるところに赤と黄色のマチ針が刺さっていることです。無数のマチ針が刺さっていました。赤は亡くなった人、黄色は重症の人です。当然、爆心地に近づけば近づくはど針の数は多くなっていきます。わたしが被爆した半径一キロ以内の円のなかは、はとんど赤い針ばかりです。しかしそのなかで、わたしは無傷で助かったのです。病院の先生からは、百人にひとり、という非常に稀《まれ》なケースだと教えられました。資料を見ると、半径五百メートル以内では九六・五%の人が死に、一キロ以
内では八三%の人が死んでいます。ヒロシマでは原爆投下の瞬間に、十数万という人の「いのち」が奪われました。そのうちの六五%が子供、お年寄り、女の人でした。そのあとも原爆症にかかった人たちがつぎつぎに亡くなっていきました。それなのに、爆心地からわずか一キロのところにいたわたしが、助かったのはなぜでしょうか。それも、やけどひとつせず、その後も多くの人たちが苦しんだ原爆症にもかからなかったのです。運がよかったことのひとつは、わたしが途中から方向をかえて、市の南に向かって逃げたことだと思います。南が安全だと思ったわけではありません。 山のようになった瓦礫に邪魔《じゃま》をされて、それ以上進めなくなって方向をかえたのでした。原爆投下のあと、市の北側半分を中心として、はぼ三分の二の市域に、井伏鱒二さんの 『黒い雨』という小説に書かれて有名になった雨が降りました。黒い雨は非常に高濃度の放射能を含み、この雨に打たれた人たちはたいてい死んでしまっています。わたしが逃げた南半分には、運よく黒い雨が降らなかったのです。
もうひとつは、投下の瞬間、市役所の建物の壁面に張りついたようにしていたことでした。原爆は上空五百七十メートルのところで炸裂《さくれつ》していますから、建物の陰にいなかったら、熱線の直射を受けて全身にやけどを負い、吹き飛ばされて、どこかにたたきつけられていたことでしょう。それも朝から太陽がカンカンと照っていましたから、陽射しを避けて西側にいたことが幸いしました。もし昼過ぎだったら、熱線の直射を受けた場所に移っていたはずです。
エピローグ
わたしが理事長をしているコープこうべでは、組合員のおかあさんがたや職員に百円ずつカンパをしてもらって、そのお金で医療機器を買い、ずっと広島と長崎の原爆病院に寄付をさせていただいてきました。原爆記念病院では、お金が十分ではないために、なかなか新しい医療機器を備えることができない、と困っておられました。ひとりひとりが出す金額は決して大きなものではなくても、多くの人が力を寄せあえば、一定の資金が集まります。その資金で、毎年ひとつぐらいずつ医療機器を導入していただき、少しでも医療の向上に役立てていただきたい、という思いでカンパ活動をやってきました。平成三年、わたしが組合長に就任したときに、院長先生から「一度病院を見にきてください」とお誘いを受けて、拝見させていただくことにしました。当日は院長先生はじめ、スタッフのみなさんがたの温かい歓迎を受けて、病院のなかをくまなく見せていただきました。原爆記念病院の建物は昭和十二年にできた広島日赤病院で、わたしが被爆した広島市役所とわたしの母校のほぼ中間、爆心地からは千五百メートルの距離にありましたが、倒壊をまぬがれて残りました。玄関のタイルは被爆当時のままのものですが、一枚も剥離《はくり》することなく、いまも残っています。わたしたちが寄贈させていただいた医療機器もありました。そこには年月日と「寄贈・灘《なだ》神戸生協」と書いたプレートが貼ってありました。
前はコープこうべではなく、灘神戸生協という名前でした。医療機器は大量生産ができません。小さな機器でも五百万も一千万もします。しかし、どんなに小さなものでも、それが組合員や職員のカンパによって贈られたということで、病院のかたがたはたいへんに喜んでおられました。いろんなところを見せていただいたあと、最後に屋上にあがって見たのが、二千八百五十杯という透明なプラスチックのバケツでした。昭和二十年からその年までのあいだに、この病院に入院して亡くなった被爆患者が二千八百五十人おられました。そのかたがたの内臓が、ホルマリン漬けで保存されているのです。ひとつひとつに死亡年月日、年齢、お名前の書かれたプレートが貼ってあります。ひきだしのなかには、病歴と解剖所見がファイルされています。保存するためには、毎年一回ホルマリンをとりかえなければならないそうですが、その作業は医学生など何百人という人のボランティアによつて支ええられています。それでも、年間八千万円もの維持費がかかるのに、国や県からは一円の補助も出ないのです。病院を運営する費用のなかから捻出《ねんしゅつ》しなければならないのです。貴重なのを残しつづけるのはたいへんなことです。戦後、ずっと原爆症の治療にあたってこられたひとりの先生が、「わたしたちがこの内臓を研究の材料として使うときは、ほんとうにおがんで、こんなわずかな一片でも、非常にだいじに使うんです。これは人類にとって、未来永劫《みらいえいごう》貴重な資産です。もう二度とつくることができないし、二度とつくってはなりません」といわれました。
そのとおりです。わたしも「これを人類がもう一度つくるようなことがあっては、ほんとうにたいへんなことだ」と、あらためて感じました。ヒロシマとナガサキという厳粛《げんしゅく》な問題を後世に伝えるために、これらは永久に保存されるべきものです。現在のためにも、つぎの世代のためにも、これらがたいせつに保存されていることには感謝しなければならないと思います。
広島の平和記念公演に建つ石碑には、
安らかに眠って下さい
過ちは
繰り返しませぬから
と書かれてあります。ヒロシマは、今年五十三年目の夏を迎えます。被爆した日、十四歳の誕生日が目前だったわたしも、もう六十歳をはるかに越えてしまいました。あの日のヒロシマを知っている人もだんだん少なくなっていきます。ひとりひとりが、この 「ことば」を深く考える必要があります。この 「ことば」は、だれがだれに向かっていったことばか、と問いかける文章を読んだことがあります。
しかし、わたしは素直に読んだほうがいいと思うのです。
たとえば、姉をうしなったわたし自身の「ことば」であってもいいと思います。いや、わたし自身の「ことば」でなければならないと思います。同時に、自分の「こころ」としたほうがいいと思うのです。自分の「ことば」として、自分の「こころ」として、語りつづけなければいけないと思います。
冷子ねえさん、安らかに眠ってください。
戦争というおろかなことは、わたしを含めて、人類はふたたびこういうことをくりかえしませんから、許してください。
安らかに眠ってください。
この「ことば」は人類共通の願いであり、叫びであり、わたしの心からの 「ことば」 でもあります。
完
もっとも残酷なこと
人が死んでも、もちろん棺桶《かんおけ》などありません。ありあわせの木を棺桶のように仕立てて姉のからだを納め、白い布でおおってやるぐらいのことしかできません。それを家族みんなで山まで担いでいきます。山に穴を掘って、薪を敷きつめ、その上に棺を置いて荼毘《だび=火葬》にふすのです。町じゅう、どこを見ても犠牲者のいない家ははとんどありませんでした。どこの家でもおなじようなことがあったと思いますが、わが子を自分の手で焼かなければならなかった父の思いは、どれほど無念であったであろうと思います。
自分も子供を産み、育てる年齢になって、このときの父の気持ちを想像してみると、胸のつまる思いがします。原爆では、戦争では、残酷なことが、それはそれは数え切れないほどいっぱいありました。しかし、もっとも残酷なことではなかったかと、わたしに思えるのは、わが子を自分の手で焼かなければならない、父のような人たちがいたことだったのではないでしょうか。それでも考えてみれば、家までつれ帰ってもらい、手当てを受け、肉親に見守られて亡くなっていった姉は、まだ幸せなほうだったかもしれません。
何万人という人が、身内のだれにも会えずに死んでいかなければならなかったからです。原爆投下から満五十年の平成六年の夏、わたしは母校・広島修道中学の慰霊祭に出席しました。「慰霊」ときざまれた大きなか自然石の裏には、原爆で亡くなった、百三十六名の先生と生徒の名前がきざまれています。ひとりひとりの名前を指でたどりながら読んでいくと、まぶたの裏には五十年前の先生の顔、友達の顔がまざまざと浮かんできました。しかし、このなかの多くの人は、いまだに遺骨が見つかっていません。おそらく今後も見つかることはないと思います。どこで死んだのか、永遠にわからないのです。ヒロシマの街は二週間ほど燃えつづけました。わたしの家から見る市内の上空は、夜になるとまっ赤な空にかわりました。原爆のあと、わたしは幾度か広島市内に入りました。町のいたるところに死体が転がっていました。防火水槽のなかで、風呂に入るように座ったまま息絶えている人もあれば、半分入りかけたまま死んでいる人、さかさまにひっくりかえっている人もいました。川があれば川を求め、近くに川のない人たちはこぞって水を求めたのです。
人だけではなく、馬が倒れ、牛もひっくりかえっていました。 馬のお腹はものすごくふくれあがっていました。自動車も市電もひっくりかえったままでした。真夏ですから死体の腐乱も進みます。腐りはじめると、ものすごい臭いがします。それにもかまわず、みんなが自分の家族や知人を求めて探しまわったのです。
街では、くる日もくる日もわが子を求めて探しまわる母親の姿を見かけました。みんな半狂乱《はんきょうらん》です。防火水槽のなかに浮いている死体を見つけると、わが子ではないかとひっくりかえして見ます。どの川も、うつ伏せになって浮いている死体と、焼け焦げた木片でいっぱいでした。潮が満ちるとそのまま上流へ流れていき、引くとまたもとのところへ戻ってくるというようにたゆたって、二週間も三週間もそのままになっていました。人びとは橋の上からその死体を見ると、ザブザブと川に入っていって、うつ伏せになった死体をひっくりかえして見るのです。死んでから何日もたって、もう顔のかたちも削れてしまっていますから、見ただけでは自分の肉親かどうかさえわかりません。それでもひっくりかえして、確かめずにはいられないのです。こんなことは親でなくて誰ができるのでしょうか。
きのうもきょうも、夜が明ければ収容所をたずね歩き、五日も六日も、「きょうもだめだった、きょうもだめだった」という日がつづいて、収容所という収容所は全部見たといっても、それでもたずねて歩くのです。「戦場心理」ということばがあります。いまのわたしたちは、交通事故でひとりの人が倒れるのを見ただけでおそろしいと思うはずです。けれども、原爆のあとの広島は戦場とおなじで、死体が累々《るいるい》としたなかを何日も何日も歩きつづけていると、やがて死体を見てもなんとも感じなくなってくるのです。おそろしいことですが、人間はそういうふしぎな面を持っているのです。こうして多くの人が肉親には会えずに亡くなっていきました。その死体は山のように積みあげ、ガソリンをかけて焼く以外に方法がありませんでした。焼いても遺骨を埋める場所がありませんでしたから、防空壕のなかに納めました。
しかし、防空壕はじきに骨でいっぱいになってしまいました。もちろん、どこのだれともわからない遺骨がいっぱいありました。こんな悲劇があっていいものか、こんな地獄があっていいものか、とわたしは何度も何度も思いました。また、そういうことを考えると、わたしの姉はまだ幸せなほうだったと思いました。
過ちは繰り返しませぬ
戦後、ずっとたってから、広島の原爆記念病院をたずねました。病院には広島市内の地図が貼《は》ってありました。この地図が普通の地図と違う点は、いたるところに赤と黄色のマチ針が刺さっていることです。無数のマチ針が刺さっていました。赤は亡くなった人、黄色は重症の人です。当然、爆心地に近づけば近づくはど針の数は多くなっていきます。わたしが被爆した半径一キロ以内の円のなかは、はとんど赤い針ばかりです。しかしそのなかで、わたしは無傷で助かったのです。病院の先生からは、百人にひとり、という非常に稀《まれ》なケースだと教えられました。資料を見ると、半径五百メートル以内では九六・五%の人が死に、一キロ以
内では八三%の人が死んでいます。ヒロシマでは原爆投下の瞬間に、十数万という人の「いのち」が奪われました。そのうちの六五%が子供、お年寄り、女の人でした。そのあとも原爆症にかかった人たちがつぎつぎに亡くなっていきました。それなのに、爆心地からわずか一キロのところにいたわたしが、助かったのはなぜでしょうか。それも、やけどひとつせず、その後も多くの人たちが苦しんだ原爆症にもかからなかったのです。運がよかったことのひとつは、わたしが途中から方向をかえて、市の南に向かって逃げたことだと思います。南が安全だと思ったわけではありません。 山のようになった瓦礫に邪魔《じゃま》をされて、それ以上進めなくなって方向をかえたのでした。原爆投下のあと、市の北側半分を中心として、はぼ三分の二の市域に、井伏鱒二さんの 『黒い雨』という小説に書かれて有名になった雨が降りました。黒い雨は非常に高濃度の放射能を含み、この雨に打たれた人たちはたいてい死んでしまっています。わたしが逃げた南半分には、運よく黒い雨が降らなかったのです。
もうひとつは、投下の瞬間、市役所の建物の壁面に張りついたようにしていたことでした。原爆は上空五百七十メートルのところで炸裂《さくれつ》していますから、建物の陰にいなかったら、熱線の直射を受けて全身にやけどを負い、吹き飛ばされて、どこかにたたきつけられていたことでしょう。それも朝から太陽がカンカンと照っていましたから、陽射しを避けて西側にいたことが幸いしました。もし昼過ぎだったら、熱線の直射を受けた場所に移っていたはずです。
エピローグ
わたしが理事長をしているコープこうべでは、組合員のおかあさんがたや職員に百円ずつカンパをしてもらって、そのお金で医療機器を買い、ずっと広島と長崎の原爆病院に寄付をさせていただいてきました。原爆記念病院では、お金が十分ではないために、なかなか新しい医療機器を備えることができない、と困っておられました。ひとりひとりが出す金額は決して大きなものではなくても、多くの人が力を寄せあえば、一定の資金が集まります。その資金で、毎年ひとつぐらいずつ医療機器を導入していただき、少しでも医療の向上に役立てていただきたい、という思いでカンパ活動をやってきました。平成三年、わたしが組合長に就任したときに、院長先生から「一度病院を見にきてください」とお誘いを受けて、拝見させていただくことにしました。当日は院長先生はじめ、スタッフのみなさんがたの温かい歓迎を受けて、病院のなかをくまなく見せていただきました。原爆記念病院の建物は昭和十二年にできた広島日赤病院で、わたしが被爆した広島市役所とわたしの母校のほぼ中間、爆心地からは千五百メートルの距離にありましたが、倒壊をまぬがれて残りました。玄関のタイルは被爆当時のままのものですが、一枚も剥離《はくり》することなく、いまも残っています。わたしたちが寄贈させていただいた医療機器もありました。そこには年月日と「寄贈・灘《なだ》神戸生協」と書いたプレートが貼ってありました。
前はコープこうべではなく、灘神戸生協という名前でした。医療機器は大量生産ができません。小さな機器でも五百万も一千万もします。しかし、どんなに小さなものでも、それが組合員や職員のカンパによって贈られたということで、病院のかたがたはたいへんに喜んでおられました。いろんなところを見せていただいたあと、最後に屋上にあがって見たのが、二千八百五十杯という透明なプラスチックのバケツでした。昭和二十年からその年までのあいだに、この病院に入院して亡くなった被爆患者が二千八百五十人おられました。そのかたがたの内臓が、ホルマリン漬けで保存されているのです。ひとつひとつに死亡年月日、年齢、お名前の書かれたプレートが貼ってあります。ひきだしのなかには、病歴と解剖所見がファイルされています。保存するためには、毎年一回ホルマリンをとりかえなければならないそうですが、その作業は医学生など何百人という人のボランティアによつて支ええられています。それでも、年間八千万円もの維持費がかかるのに、国や県からは一円の補助も出ないのです。病院を運営する費用のなかから捻出《ねんしゅつ》しなければならないのです。貴重なのを残しつづけるのはたいへんなことです。戦後、ずっと原爆症の治療にあたってこられたひとりの先生が、「わたしたちがこの内臓を研究の材料として使うときは、ほんとうにおがんで、こんなわずかな一片でも、非常にだいじに使うんです。これは人類にとって、未来永劫《みらいえいごう》貴重な資産です。もう二度とつくることができないし、二度とつくってはなりません」といわれました。
そのとおりです。わたしも「これを人類がもう一度つくるようなことがあっては、ほんとうにたいへんなことだ」と、あらためて感じました。ヒロシマとナガサキという厳粛《げんしゅく》な問題を後世に伝えるために、これらは永久に保存されるべきものです。現在のためにも、つぎの世代のためにも、これらがたいせつに保存されていることには感謝しなければならないと思います。
広島の平和記念公演に建つ石碑には、
安らかに眠って下さい
過ちは
繰り返しませぬから
と書かれてあります。ヒロシマは、今年五十三年目の夏を迎えます。被爆した日、十四歳の誕生日が目前だったわたしも、もう六十歳をはるかに越えてしまいました。あの日のヒロシマを知っている人もだんだん少なくなっていきます。ひとりひとりが、この 「ことば」を深く考える必要があります。この 「ことば」は、だれがだれに向かっていったことばか、と問いかける文章を読んだことがあります。
しかし、わたしは素直に読んだほうがいいと思うのです。
たとえば、姉をうしなったわたし自身の「ことば」であってもいいと思います。いや、わたし自身の「ことば」でなければならないと思います。同時に、自分の「こころ」としたほうがいいと思うのです。自分の「ことば」として、自分の「こころ」として、語りつづけなければいけないと思います。
冷子ねえさん、安らかに眠ってください。
戦争というおろかなことは、わたしを含めて、人類はふたたびこういうことをくりかえしませんから、許してください。
安らかに眠ってください。
この「ことば」は人類共通の願いであり、叫びであり、わたしの心からの 「ことば」 でもあります。
完