Re: 「最後のトマト」ヒロシマを自分の「ことば」で。竹本成徳氏の手記【二】
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「最後のトマト」 ヒロシマを自分の「ことば」で。 <英訳あり> (団子, 2005/12/1 14:15)
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Re: 「最後のトマト」ヒロシマを自分の「ことば」で。竹本成徳氏の手記【二】 (団子, 2005/12/7 19:14)
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「最後のトマト」ヒロシマを自分の「ことば」で。竹本成徳氏の手記【三】 (団子, 2005/12/12 21:18)
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「最後のトマト」ヒロシマを自分の「ことば」で。竹本成徳氏の手記【四】 (団子, 2005/12/19 22:02)
- 「最後のトマト」ヒロシマを自分の「ことば」で。竹本成徳氏の手記【五】 (団子, 2005/12/22 16:15)
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「最後のトマト」ヒロシマを自分の「ことば」で。竹本成徳氏の手記【四】 (団子, 2005/12/19 22:02)
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「最後のトマト」ヒロシマを自分の「ことば」で。竹本成徳氏の手記【三】 (団子, 2005/12/12 21:18)
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Re: 「最後のトマト」ヒロシマを自分の「ことば」で。竹本成徳氏の手記【二】 (団子, 2005/12/7 19:14)
団子
投稿数: 22
(五)
一瞬のうちにまっ暗
どれぐらい時間がたったのでしょう。わたしは植え込みのなかに倒れたまま、しばらく意識をうしなっていたようです。気がつくと、あたりはまっ暗でした。それまでは雲ひとつない、抜けるようにまっ青な青空だったのです。それが一瞬のうちにまっ暗になってしまっていたのです。最初は夢を見ているのではないかと思いました。暗やみのなかで、あわてて自分のからだを見まわしました。となりにいたはずの斎藤くんの姿が見えません。どうやら夢ではないようです。わたしは植え込みを出て、地面に飛び降りました。なにがどうなっているのか、どうしたらいいのか、見当もつきませんでしたが、ともかくクラスのみんなのところへいこうと、家屋疎開《かおくそかい》の方向を目指して歩きはじめました。すると、さっきまでわたしのすぐ横にいた斎藤くんがむこうからやってくるではありませんか。
「おい、さいとうッ!」
すぐそばまで近づいていって、声をかけたのですが、のどに張りついたようになってしまって、声が出ません。しきりに声を出そうとするのですが、まったく声にならないのです。まっ暗ですから、斎藤くんはわたしがいることに気がつきません。暗いなかですれ違ったまま、かれが暗やみに飲みこまれていくのを見送るだけでした。
どこをどう歩いたか覚えがありません。しばらくすると、わたしはまた市役所の玄関前まで戻っていました。あたりはまだ暗やみです。市役所の前は車寄せがあって広くなっており、その前は市電通りでした。しかし、市電の架線や電柱がすベて倒れて道をぶさぎ、思うように歩けない状態でした。もちろん市電は止まったままです。玄関のポーチまでいくと、
「ウォーツ、ウォーツ」
と悲鳴にならない悲鳴をあげながら、おおぜいの人が市役所のなかから走り出てくるのに出会いました。まわりを見ると、そこらじゅうからたくさんの人たちが市役所を目指して集まってきます。
「やられたァー・やられたァー」
と叫ぶ声も聞こえました。そのときになって、わたしには初めて空襲でやられたのだということがわかりました。しかし、いつもなら全市じゅうに鳴りわたるはずの空襲警報のサイレンが、この日に限って鳴らなかったのです。いきなり爆撃を受けたのですから、わけがわからなかったのも当然でした。ふたりの若い女の人がやってきて、呆然《ぼうぜん》としていたわたしのからだを揺《ゆ》さぶってたずねました。
「わたしたちは、けがをしていますか」
見ると、顔もからだも、いたるところにガラスの破片が突き刺さって、そこからタラタラと血が流れています。しかし暗いものですから、赤い血が赤くは見えません。
「大変なけがをしている」とわたしが答えると、
「わたしたちはもうだめよ」
といいながら、人混みのなかに消えていってしまいました。
ふたりの女の人だけでなく、まわりにいた人たちは、みんなからだじゅうにガラスの破片が刺さっていました。小さな子供を連れたひとりのおばあさんがいました。男の子供の手をしっかりと握っていましたが、やがて、
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》」
と拝みはじめました。
わたしも思わず手をあわせて、
「神様ァ、助けてください。神様ァ、助けてください」
と祈っていました。あたりのやみは依然《いぜん》として晴れません。急におそろしさがこみあげてきて、わたしはとっさに「このままではいけない、なんとか逃げなければいけない」と思いました。
(六)
瓦礫《がれき》の下にはまだ生きている人が
わたしは市役所前の市電通りを東北に向かって歩きだしました。まっすぐいけば、その先には広島第二部隊の西練兵場《れんぺいじょう=兵営の演習場》がありました。現在の広島城公園や広島県庁があるあたりです。なぜ練兵場を目指したかというと、そこはだだっ広い原っぱでしたから、火に囲まれて焼き殺されてしまう心配がないと思ったからです。もうひとつ、その途中の袋町というところには、わたしのすぐ上の姉の冷子が勤めていた、日本銀行の広島支店があったからでもありました。この時間、姉は銀行にいるはずでした。まっ暗ななかで、きっと逃げまどつているに違いない。なんとか姉を探し出して、いっしょに逃げようと思ったのです。しかし、いけどもいけどもまっ暗なやみは晴れません。爆撃を受けたということはわかりましたが、周囲がいつまでもまっ暗だということが、よくわかりませんでした。歩いても歩いてもまっ暗なのです。その暗やみのなかでじっと目をこらすと、市電の石畳《いしだたみ=石敷き》の上には架線が中ずりになっており、横倒しになった市電が見えました。あたりの家屋は全部ペしゃんこにつぶれているのもわかりました。
市電の駅をふたつほど進んだとき、ゆく手にパパーツと火の手があがるのが見えました。これではだめだ、と姉のところに行くことを断念して市の南の方角へ逃げることにしました。ところが、その方向からも火の手が上がりました。人びとはいっせいにわたしのほうに向かって逃げてきます。一瞬、みんなといっしょになってあと戻りしようか、という気持ちに襲われましたが、一度あの火をくぐり抜けなければ、焼き殺されてしまうと思いなおして、気持ちをふるい立たせながら火の手のあがったほうへ歩いていきました。どうしてわざわざ火の出たほうに向かっていこうとしたかというと、呉から通学していた友人の話を聞いていたからです。広島に原爆が投下される二週間ほど前、呉が空襲でやられていました。友人は海軍中将の息子で、父親から聞いた米軍の空襲のやりかたを、ことこまかにわたしに教えてくれていたのです。それによると、まずB29は街の周辺をとり囲むように、円形に焼夷弾《しょういだん》を落とすのだそうです。まわりをぐるっと囲むのは、市内にいる人びとが外へ逃げられないようにするためです。そうして袋のネズミの状態にしておいて、こんどは縦横十文字に街を焼いていくのだということでした。ですから、このまま街の中心部にいたのでは焼き殺されてしまいます。どんな危険を冒《おか》してもまわりをとり囲んでいる火を一度くぐって、間隙《かんげき》をぬって逃げなければならないと思ったのです。ところが、進もうと思っても道がありません。建物という建物が全部崩れて、道路を隠してしまっているのです。わたしは仕方なく、市電通りから南の方向に向かってつぶされた屋根の上にあがっていきました。瓦をガタガタと鳴らしながら、這うようにして踏み越えていくのですが、その瓦の下から、
「助けてくれェ!助けてくれェ!」
という叫び声が聞こえました。
瓦礫《がれき》の下にはまだ生きている人がいたのです。押しつぶされた家の下敷きになって、逃げられないのです。しかし、わたしにはどうすることもできません。
「うしろ髪を引かれる」というのは、こういうことなのでしょう。このときの叫び声はいまでもわたしの耳の奥にはっきりと残っています。どうすることもできないという無力感と、一刻でもはやく安全なところに逃れたい、という気持ちに追われるようにして、いつの間にか、わたしは最初に目指した方向とは逆の南に向かっていました。どう考えても、中学生のわたしひとりで瓦礫をとり除くことは不可能だったと思います。それに、そこにとどまっていたら、やがて焼き殺されてしまったでしょう。
「けれども、けれども・・・・・、おまえ」とわたしは幾度も幾度も自分に語りかけていました。そして、そのたびに「しょうがなかったんだ」と、その思いを振り切りながら逃げました。しかしあのとき、ほんとうにわたしにはたすけることはできなかったのだろうか。そういう思いはは、いまでもわたしの頭のなかから離れません。
(七)
異様に巨大な雲の柱
どれほど時間が経ち、どこをどう進んだのかわかりません。まだ暗くてよくわかりませんでしたが、どうやらクラスのみんなが防火帯をつくりに出かけた場所に来たようでした。みんなはどうしたのだろうと思っていると、いきなり二人の中学生がわたしにしがみついてきました。「僕たちを連れて逃げてください、連れて逃げてください」みると二人とも全裸《ぜんら》でした。腰にベルトだけがのこっています。皮膚は焼け爛《ただ》れて、ボロ雑巾《ぞうきん》がぶらさがったように垂れ下がっていました。もちろん足は裸足《はだし》で、わたしは幽霊を見たかと思ったほどでした。「君等はどこの学校や」「僕等は広島山陽中学の一年生です」わたしより一年下でした。
わたしは自分より後輩のふたりを、なんとしても安全な場所に連れて行ってやらなければならないと思いました。「よし、わかった。逃げよう。いっしょに逃げよう」大きな池のあるところに出ました。暗闇《くらやみ》を突き進んでいますから、方角を見失ってしまいそうです。けれども、南に進んでいるんだと信じてあるきました。
やがてわたしたちが逃げようとしている方向から、何十人と言う女学生の一群がやってきました。みんなモンペを履いていたはずだと思いますが、そのとき私が連れて逃げている中学生と同じように、ほとんど全裸の状態でした。髪は焼きちぎれ、皮膚はボロ雑巾《ぞうきん》のように垂れさがっています。私が安全だと思っている方向から逃げてきますから、「なんでこっちへ逃げてくるんですか」とたずねると、「むこうが燃えだしたんです」という答えです。一瞬、女学生たちといっしょになって引き返そうかと迷いました。そこらじゅうで火の手があがったのを見てきましたから、呉《くれ》の友人から聞いていた空襲とは違うのかもしれないという疑いも起きてきました。しかし、結局は火をくぐり抜けて市外にでなければ助からないと決心して、女学生とは別れて、なおも南の方向を目指しました。しだいに火の手が近づいてきました。ものすごい熱さ、、、。なんともいえない熱さです。いっしょに逃げている二人の中学生も、「あつーい、あつーい」と叫びます。二人は全身にやけどをしていますから、あまりの熱さに、「いたーい、いたいよォ」と泣き始めてしまいました。可哀想でしたが火を抜けなければ死んでしまいます。私は火の中へ突っこんで行くのを嫌がる二人を励ましながら、必死の思いで火を超えていきました。その火の中から女の人が出てきて、私にすがりつきました。
振りほどこうとしても、私の衣服をしっかりつかんで、放そうとしません。「私の子が火の中にいるんです。お願いです。助けてェ!」子供、と聞いて私はクラクラするような思いでした。しかし、大変に申し訳ないことです。申し訳ないけれども、そこにとどまっていたのでは、私たちも焼け死んでしまうのです。私たちは、そのお母さんの手も振り切って逃げなければなりませんでした。このときのお母さんの悲痛な叫びも忘れることができません。
やがて、少し明るくなって、10メートルほどだけ前方が見えるようになりました。見わたすと、まるでダルマ抜きをしたみたいに、家々の柱や壁は全部吹っ飛び、その瓦礫の上に屋根が覆《おお》いかぶさっています。ほうぼうで火の手が上がっていましたが、私の周辺には新たな火の手はないようでした。なんとか助かったかもしれない。そう思って振りかって見ましたが、一緒だった中学生とはいつの間にかはぐれてしまっていました。結果的に、火に向かって逃げた事が幸いしました。中心部に向かって逃げていった女学生たちは、おそらく焼け死んでしまっただろうと思います。しばらく進むと、道の左側に井戸水をくみあげる手押しポンプがありました。その前に居た中年の男の人が私を見つけて、「すまんけど、このポンプで水を汲《く》んでくれんか」というのです。見ると、その男の人の頭はパックリとふたつに割れて、体は前を向いているのに、頭の片方が横にいる私のほうを向いているのです。「わしはもう目がみえん」その人はポツリといいました。割れたあたまからはドクドクと血が流れて、全身血の海です。その血がめにはいって、歩く事も出来ないのでしょう。なんとか血を洗いたいので、水を汲んでほしいということだったのです。私は水を汲んであげてから、更に南を目指して進みました。やがて川のあるところに出ました。広島市内には7つの大きな川が流れていますが、その一つの比治山川(京橋川)でした。そこまでたどり着いて、私は初めて自分が逃げてきた道を振り返りました。いったい何時なのかマッタクわかりませんでしたが、実際はまだお昼まえでした。それなのに、夕暮れ前と同じ程度の明るさしかありません。地面から雲がニョキニョキとわき出ているような、なんとも気持ちの悪い景色でした。
赤い色、黒い色、、、、。紫色したところもあります。雲を追いながら目をあげていくと、上空にのぼるにつれて、異様に巨大な雲の柱になっていました。「そうか、あの雲の下にいたから真っ暗やみだったんだ」と言うことがやっとわかりました。、、、、つづく
一瞬のうちにまっ暗
どれぐらい時間がたったのでしょう。わたしは植え込みのなかに倒れたまま、しばらく意識をうしなっていたようです。気がつくと、あたりはまっ暗でした。それまでは雲ひとつない、抜けるようにまっ青な青空だったのです。それが一瞬のうちにまっ暗になってしまっていたのです。最初は夢を見ているのではないかと思いました。暗やみのなかで、あわてて自分のからだを見まわしました。となりにいたはずの斎藤くんの姿が見えません。どうやら夢ではないようです。わたしは植え込みを出て、地面に飛び降りました。なにがどうなっているのか、どうしたらいいのか、見当もつきませんでしたが、ともかくクラスのみんなのところへいこうと、家屋疎開《かおくそかい》の方向を目指して歩きはじめました。すると、さっきまでわたしのすぐ横にいた斎藤くんがむこうからやってくるではありませんか。
「おい、さいとうッ!」
すぐそばまで近づいていって、声をかけたのですが、のどに張りついたようになってしまって、声が出ません。しきりに声を出そうとするのですが、まったく声にならないのです。まっ暗ですから、斎藤くんはわたしがいることに気がつきません。暗いなかですれ違ったまま、かれが暗やみに飲みこまれていくのを見送るだけでした。
どこをどう歩いたか覚えがありません。しばらくすると、わたしはまた市役所の玄関前まで戻っていました。あたりはまだ暗やみです。市役所の前は車寄せがあって広くなっており、その前は市電通りでした。しかし、市電の架線や電柱がすベて倒れて道をぶさぎ、思うように歩けない状態でした。もちろん市電は止まったままです。玄関のポーチまでいくと、
「ウォーツ、ウォーツ」
と悲鳴にならない悲鳴をあげながら、おおぜいの人が市役所のなかから走り出てくるのに出会いました。まわりを見ると、そこらじゅうからたくさんの人たちが市役所を目指して集まってきます。
「やられたァー・やられたァー」
と叫ぶ声も聞こえました。そのときになって、わたしには初めて空襲でやられたのだということがわかりました。しかし、いつもなら全市じゅうに鳴りわたるはずの空襲警報のサイレンが、この日に限って鳴らなかったのです。いきなり爆撃を受けたのですから、わけがわからなかったのも当然でした。ふたりの若い女の人がやってきて、呆然《ぼうぜん》としていたわたしのからだを揺《ゆ》さぶってたずねました。
「わたしたちは、けがをしていますか」
見ると、顔もからだも、いたるところにガラスの破片が突き刺さって、そこからタラタラと血が流れています。しかし暗いものですから、赤い血が赤くは見えません。
「大変なけがをしている」とわたしが答えると、
「わたしたちはもうだめよ」
といいながら、人混みのなかに消えていってしまいました。
ふたりの女の人だけでなく、まわりにいた人たちは、みんなからだじゅうにガラスの破片が刺さっていました。小さな子供を連れたひとりのおばあさんがいました。男の子供の手をしっかりと握っていましたが、やがて、
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》」
と拝みはじめました。
わたしも思わず手をあわせて、
「神様ァ、助けてください。神様ァ、助けてください」
と祈っていました。あたりのやみは依然《いぜん》として晴れません。急におそろしさがこみあげてきて、わたしはとっさに「このままではいけない、なんとか逃げなければいけない」と思いました。
(六)
瓦礫《がれき》の下にはまだ生きている人が
わたしは市役所前の市電通りを東北に向かって歩きだしました。まっすぐいけば、その先には広島第二部隊の西練兵場《れんぺいじょう=兵営の演習場》がありました。現在の広島城公園や広島県庁があるあたりです。なぜ練兵場を目指したかというと、そこはだだっ広い原っぱでしたから、火に囲まれて焼き殺されてしまう心配がないと思ったからです。もうひとつ、その途中の袋町というところには、わたしのすぐ上の姉の冷子が勤めていた、日本銀行の広島支店があったからでもありました。この時間、姉は銀行にいるはずでした。まっ暗ななかで、きっと逃げまどつているに違いない。なんとか姉を探し出して、いっしょに逃げようと思ったのです。しかし、いけどもいけどもまっ暗なやみは晴れません。爆撃を受けたということはわかりましたが、周囲がいつまでもまっ暗だということが、よくわかりませんでした。歩いても歩いてもまっ暗なのです。その暗やみのなかでじっと目をこらすと、市電の石畳《いしだたみ=石敷き》の上には架線が中ずりになっており、横倒しになった市電が見えました。あたりの家屋は全部ペしゃんこにつぶれているのもわかりました。
市電の駅をふたつほど進んだとき、ゆく手にパパーツと火の手があがるのが見えました。これではだめだ、と姉のところに行くことを断念して市の南の方角へ逃げることにしました。ところが、その方向からも火の手が上がりました。人びとはいっせいにわたしのほうに向かって逃げてきます。一瞬、みんなといっしょになってあと戻りしようか、という気持ちに襲われましたが、一度あの火をくぐり抜けなければ、焼き殺されてしまうと思いなおして、気持ちをふるい立たせながら火の手のあがったほうへ歩いていきました。どうしてわざわざ火の出たほうに向かっていこうとしたかというと、呉から通学していた友人の話を聞いていたからです。広島に原爆が投下される二週間ほど前、呉が空襲でやられていました。友人は海軍中将の息子で、父親から聞いた米軍の空襲のやりかたを、ことこまかにわたしに教えてくれていたのです。それによると、まずB29は街の周辺をとり囲むように、円形に焼夷弾《しょういだん》を落とすのだそうです。まわりをぐるっと囲むのは、市内にいる人びとが外へ逃げられないようにするためです。そうして袋のネズミの状態にしておいて、こんどは縦横十文字に街を焼いていくのだということでした。ですから、このまま街の中心部にいたのでは焼き殺されてしまいます。どんな危険を冒《おか》してもまわりをとり囲んでいる火を一度くぐって、間隙《かんげき》をぬって逃げなければならないと思ったのです。ところが、進もうと思っても道がありません。建物という建物が全部崩れて、道路を隠してしまっているのです。わたしは仕方なく、市電通りから南の方向に向かってつぶされた屋根の上にあがっていきました。瓦をガタガタと鳴らしながら、這うようにして踏み越えていくのですが、その瓦の下から、
「助けてくれェ!助けてくれェ!」
という叫び声が聞こえました。
瓦礫《がれき》の下にはまだ生きている人がいたのです。押しつぶされた家の下敷きになって、逃げられないのです。しかし、わたしにはどうすることもできません。
「うしろ髪を引かれる」というのは、こういうことなのでしょう。このときの叫び声はいまでもわたしの耳の奥にはっきりと残っています。どうすることもできないという無力感と、一刻でもはやく安全なところに逃れたい、という気持ちに追われるようにして、いつの間にか、わたしは最初に目指した方向とは逆の南に向かっていました。どう考えても、中学生のわたしひとりで瓦礫をとり除くことは不可能だったと思います。それに、そこにとどまっていたら、やがて焼き殺されてしまったでしょう。
「けれども、けれども・・・・・、おまえ」とわたしは幾度も幾度も自分に語りかけていました。そして、そのたびに「しょうがなかったんだ」と、その思いを振り切りながら逃げました。しかしあのとき、ほんとうにわたしにはたすけることはできなかったのだろうか。そういう思いはは、いまでもわたしの頭のなかから離れません。
(七)
異様に巨大な雲の柱
どれほど時間が経ち、どこをどう進んだのかわかりません。まだ暗くてよくわかりませんでしたが、どうやらクラスのみんなが防火帯をつくりに出かけた場所に来たようでした。みんなはどうしたのだろうと思っていると、いきなり二人の中学生がわたしにしがみついてきました。「僕たちを連れて逃げてください、連れて逃げてください」みると二人とも全裸《ぜんら》でした。腰にベルトだけがのこっています。皮膚は焼け爛《ただ》れて、ボロ雑巾《ぞうきん》がぶらさがったように垂れ下がっていました。もちろん足は裸足《はだし》で、わたしは幽霊を見たかと思ったほどでした。「君等はどこの学校や」「僕等は広島山陽中学の一年生です」わたしより一年下でした。
わたしは自分より後輩のふたりを、なんとしても安全な場所に連れて行ってやらなければならないと思いました。「よし、わかった。逃げよう。いっしょに逃げよう」大きな池のあるところに出ました。暗闇《くらやみ》を突き進んでいますから、方角を見失ってしまいそうです。けれども、南に進んでいるんだと信じてあるきました。
やがてわたしたちが逃げようとしている方向から、何十人と言う女学生の一群がやってきました。みんなモンペを履いていたはずだと思いますが、そのとき私が連れて逃げている中学生と同じように、ほとんど全裸の状態でした。髪は焼きちぎれ、皮膚はボロ雑巾《ぞうきん》のように垂れさがっています。私が安全だと思っている方向から逃げてきますから、「なんでこっちへ逃げてくるんですか」とたずねると、「むこうが燃えだしたんです」という答えです。一瞬、女学生たちといっしょになって引き返そうかと迷いました。そこらじゅうで火の手があがったのを見てきましたから、呉《くれ》の友人から聞いていた空襲とは違うのかもしれないという疑いも起きてきました。しかし、結局は火をくぐり抜けて市外にでなければ助からないと決心して、女学生とは別れて、なおも南の方向を目指しました。しだいに火の手が近づいてきました。ものすごい熱さ、、、。なんともいえない熱さです。いっしょに逃げている二人の中学生も、「あつーい、あつーい」と叫びます。二人は全身にやけどをしていますから、あまりの熱さに、「いたーい、いたいよォ」と泣き始めてしまいました。可哀想でしたが火を抜けなければ死んでしまいます。私は火の中へ突っこんで行くのを嫌がる二人を励ましながら、必死の思いで火を超えていきました。その火の中から女の人が出てきて、私にすがりつきました。
振りほどこうとしても、私の衣服をしっかりつかんで、放そうとしません。「私の子が火の中にいるんです。お願いです。助けてェ!」子供、と聞いて私はクラクラするような思いでした。しかし、大変に申し訳ないことです。申し訳ないけれども、そこにとどまっていたのでは、私たちも焼け死んでしまうのです。私たちは、そのお母さんの手も振り切って逃げなければなりませんでした。このときのお母さんの悲痛な叫びも忘れることができません。
やがて、少し明るくなって、10メートルほどだけ前方が見えるようになりました。見わたすと、まるでダルマ抜きをしたみたいに、家々の柱や壁は全部吹っ飛び、その瓦礫の上に屋根が覆《おお》いかぶさっています。ほうぼうで火の手が上がっていましたが、私の周辺には新たな火の手はないようでした。なんとか助かったかもしれない。そう思って振りかって見ましたが、一緒だった中学生とはいつの間にかはぐれてしまっていました。結果的に、火に向かって逃げた事が幸いしました。中心部に向かって逃げていった女学生たちは、おそらく焼け死んでしまっただろうと思います。しばらく進むと、道の左側に井戸水をくみあげる手押しポンプがありました。その前に居た中年の男の人が私を見つけて、「すまんけど、このポンプで水を汲《く》んでくれんか」というのです。見ると、その男の人の頭はパックリとふたつに割れて、体は前を向いているのに、頭の片方が横にいる私のほうを向いているのです。「わしはもう目がみえん」その人はポツリといいました。割れたあたまからはドクドクと血が流れて、全身血の海です。その血がめにはいって、歩く事も出来ないのでしょう。なんとか血を洗いたいので、水を汲んでほしいということだったのです。私は水を汲んであげてから、更に南を目指して進みました。やがて川のあるところに出ました。広島市内には7つの大きな川が流れていますが、その一つの比治山川(京橋川)でした。そこまでたどり着いて、私は初めて自分が逃げてきた道を振り返りました。いったい何時なのかマッタクわかりませんでしたが、実際はまだお昼まえでした。それなのに、夕暮れ前と同じ程度の明るさしかありません。地面から雲がニョキニョキとわき出ているような、なんとも気持ちの悪い景色でした。
赤い色、黒い色、、、、。紫色したところもあります。雲を追いながら目をあげていくと、上空にのぼるにつれて、異様に巨大な雲の柱になっていました。「そうか、あの雲の下にいたから真っ暗やみだったんだ」と言うことがやっとわかりました。、、、、つづく