「最後のトマト」ヒロシマを自分の「ことば」で。竹本成徳氏の手記【三】
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「最後のトマト」 ヒロシマを自分の「ことば」で。 <英訳あり> (団子, 2005/12/1 14:15)
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Re: 「最後のトマト」ヒロシマを自分の「ことば」で。竹本成徳氏の手記【二】 (団子, 2005/12/7 19:14)
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「最後のトマト」ヒロシマを自分の「ことば」で。竹本成徳氏の手記【三】 (団子, 2005/12/12 21:18)
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「最後のトマト」ヒロシマを自分の「ことば」で。竹本成徳氏の手記【四】 (団子, 2005/12/19 22:02)
- 「最後のトマト」ヒロシマを自分の「ことば」で。竹本成徳氏の手記【五】 (団子, 2005/12/22 16:15)
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「最後のトマト」ヒロシマを自分の「ことば」で。竹本成徳氏の手記【四】 (団子, 2005/12/19 22:02)
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「最後のトマト」ヒロシマを自分の「ことば」で。竹本成徳氏の手記【三】 (団子, 2005/12/12 21:18)
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Re: 「最後のトマト」ヒロシマを自分の「ことば」で。竹本成徳氏の手記【二】 (団子, 2005/12/7 19:14)
団子
投稿数: 22
(八)
見わたす限り、地獄のようなおそろしい光景
比治山川にかかる橋をわたりながら、川を見おろすと、裸の人たちが土手をくだってどんどん川のなかに入っていくのが見えました。川は熱さから逃れようとする人であふれていました。しかし、水にふれたとたんに死んでいくのです。それでも人びとはかまわず水のなかに入っていきます。まるで川が人間を吸いこんでいるように見えました。
戦後、原爆研究所ができた比治山公園という小さな山の麓《ふもと》を迂回《うかい=回り道》しながら、わたしはなおも南へ向かって逃げました。途中で出会う人のなかで、まともなかっこうをした人はひとりもいませんでした。ほとんどの人が全裸か、それに近い状態でした。女の人は焼け残ったムシロを拾ったり、ポロ布を拾って前を隠しながら歩いていました。乳飲み子を抱えたおかあさんにも出会いました。
比治山の裏までたどり着いたとき、被害を受けていない民家を見つけました。「おばあさん、お水をちょうだい」その家のおばあさんに頼んで水をもらいました。水を飲んだら、ようやく落ち着きをとり戻すことができました。そこでわたしは初めて自分のからだを見まわしてみたのです。火をくぐったのに、からだにはやけどのあとひとつない無傷でした。それに、いつの間にか裸足《はだし》になっていたことにも気づかず、無我夢中で逃げてきたのですが、足に釘《くぎ》ひとつ踏んでいませんでした。
幸運だったとしかいいようがありません。しかし、まだ安心するわけにはいきません。なんとか火の手はくぐり抜けましたが、わたしは自分の家がある方向とは反対の方向に逃げていたのです。
空襲警報のサイレンも鳴りやみません。まだ敵の艦載機《かんさいき=航空母艦などから発進する飛行機》が飛んできて、機銃掃射《きじゅうそうしゃ=低空飛行して機関銃で狙い撃ちする》をくりかえしていました。艦載機はパイロットの顔が見えるぐらいの低空飛行をしてきて、バリバリと機銃を撃つと、弾が風を切って飛ぶヒュンヒュンという音が、耳のすぐ横をかすめるのです。こわくてこわくて、少し走っては防空壕《ぼうくうごう》に逃げこみ、少し休んではまた進むというように、少しでもはやく自分の家に帰りたいという気持ちとは裏腹に、なかなか前へは進めません。
どの防空壕も、身動きのできない人、負傷者でごったがえしていました。街は方々で燃えあがり、火がないところはペしゃんこに押しっぶされてしまったところです。いけどもいけども見わたす限り、地獄のようなおそろしい光景がつづくばかりでした。やがて見覚えのある御幸橋が近づいてきました。修道中学校の近くにある橋です。学校は爆心地から約二千五百メートルのところにありました。学校がどうなっているか、寄って確かめてみようと思い、校庭までいってみましたが、だれもいませんでした。わずかに鉄筋の校舎が一棟だけ残っていましたが、木造の校舎は全部つぶされていました。
いつもならうるさいぐらいに鳴いているセミの声もなく、校庭はしーんと静まりかえって、物音ひとつしません。無気味な静けさでした。わたしにはあっという間のできごとのように思えましたが、すでに三時になっていました。止まっているかと見えた鉄筋の校舎の時計だけが、静かに時をきざんでいました。
長い時間、暗やみがつづいたあと、やっと明るくなったかと思うと、真夏の陽射しが戻ってきていました。運動場の砂が強い陽射しに照りかえって、わたしにはまぶしいほどの白さに見えました。いつも見慣れているはずの校庭なのに、全然見知らぬ別の場所に立っているようでした。自分の教室があったあたりへいってみました。大きな梁《はり》が落ち、その下の机のあいだに押しっぶされたかっこうで、ひとりの生徒が横たわっているのが見えました。わたしはびっくりして、もときた道を引きかえしました。梁の下敷きになった生徒はすでに息絶えている様子でしたが、おそろしくて近づくことができませんでした。
あとで、死んだ生徒は一クラスだけ学校へ勉強にきていたクラスの細川くんという生徒だったということがわかりました。ほかの生徒たちは、ドーンときた瞬間に机の下にもぐりこんで、全員助かったのです。元安川にかかる橋をわたり、つぎの川は本川と呼ばれる太田川でしたが、そこにかかっていた橋は木造だったので、焼け落ちてしまっていました。川に入って、歩いてわたろうとしましたが、その川のなかにも動けなくなった人たちがたくさんおりました。
(九)
裸の体に墨で名前を書く
土手を下っていくと、すぐ近くで、「たけもと!」「たけと!」と叫ぶ声がします。誰だろうと思ってキョロキョロと見まわしましたが、まわりは大変な人で、声の主が何処にいるかわかりません。やっと見つけたと思ったら、私の見たこともない顔でした。「おまえはだれや」ときくと、「おれや、おれや、川端や」と答えます。「えっ」と思いました。川端くんといえば、今朝までいっしょだった同じクラスの親友です。ところが、まじまじと見てもわからないほど顔がかわってしまっていました。「たけもとォ!川端や!川端や!」声の主はなおも叫びます。教室では机がわたしのすぐうしろで、毎日顔をつきあわせていたのに、その人だとまるでわからない。顔が2倍くらいの大きさにふくれあがってしまって、とてもおなじ人とは、思えないのです。ふと靴をみたら、「川端」と書いてあったので、やっとわかりました。川をわたり切れば、江波という町のはずでした。そこにはやはりおなじクラスで、私と川端くんとは大の仲良しだった桝本伸之くんの家がありました。「わかった。川端。この川を渡れば、桝本の家がある。そこへ行こう。そこまでがんばれよっ!」そういって励ましながら、私は川端くんを背負うようなかっこうで川をわたりはじめました。
向こう岸にわたって、土手の上にあがり、桝本くんの家をたずねると、幸いなことに桝本くんの家はすぐ近くでした。家にはおかあさんとおねえさんがおられました。桝本くんが無事かどうかをたずねると、「伸之は昼前に帰ってきましたけど、全身大やけどで、そこの陸軍病院に連れて行きました。」という返事でした。川端くんもすぐに病院へつれていかねばなりませんから、桝本くんの家でリヤカーを借り、桝本くんのおねえさんに手伝ってもらって、陸軍病院へつれていきました。
病院の前の道は、倒れた人、人、人でふさがっていました。ムシロや戸板《といた=雨戸の板、人を運ぶ時使った》の上に寝かされている人は、まだ恵まれたほうです。地べたにそのまま寝かされている人もいます。体が真っ赤にはれあがり、す息絶えている人もいました。目を開けたまま、すでにものも言えなくなっているけれども、まだ生きている人もいます。
そして、「水をくれェ、みずをくれぇ」と叫びつづけているだけのひと、、。横たわった脇に置かれた瓦《かわら》や木片には「山中」とか「大町」と書かれています。その人の名前です。裸の体に墨で名前を書きつけられているいる人もいました。救護にあたる人の数がたりず、とても全部の人には手当てがいきわたりません。口がきけるあいだに、名前だけでも聞いて、体に書いておくのが精いっぱいだったのです。それすら手がまわらず、名前もわからないままに死んでいった人もたくさんいました。
白い膏薬《こうやく》や食用油《油は火傷の薬》を塗ってもらっている人はまだ幸いでした。ほとんどどの人はなんの手当ても受けられないまま、病院まえの道と言う道を埋め尽くして、とても病院までたどり着けるような状態ではありません。やっと病院の中庭まで入りましたが前後の見境が着くような状態ではありませんから、私は病院の入り口で川端くんをだれかの手に委ねました。しかし、委ねた人が看護婦さんだったのか、軍人の人だったのか、思い出そうとしてもこの部分だけ、はっきり記憶がないのです。そのあとも必死に記憶の糸をたぐろうとしましたが、どうしても思い出せません。川端くんには非常に申しわけなく思いますが、かれとはそこで別れ、結局、それが川端くんと会った最後になってしまいました。
いっしょに弁当の番をしていた斉藤くんの場合は、死んだものとおもっていました。ところが、それから約40年後、東京の新宿で開かれた同窓会に、その斉藤くんが元気な姿を見せてくれたのです。むこうでも私が死んだものと思っていましたから、奇跡的な再会となりした。、、、、、つづく
見わたす限り、地獄のようなおそろしい光景
比治山川にかかる橋をわたりながら、川を見おろすと、裸の人たちが土手をくだってどんどん川のなかに入っていくのが見えました。川は熱さから逃れようとする人であふれていました。しかし、水にふれたとたんに死んでいくのです。それでも人びとはかまわず水のなかに入っていきます。まるで川が人間を吸いこんでいるように見えました。
戦後、原爆研究所ができた比治山公園という小さな山の麓《ふもと》を迂回《うかい=回り道》しながら、わたしはなおも南へ向かって逃げました。途中で出会う人のなかで、まともなかっこうをした人はひとりもいませんでした。ほとんどの人が全裸か、それに近い状態でした。女の人は焼け残ったムシロを拾ったり、ポロ布を拾って前を隠しながら歩いていました。乳飲み子を抱えたおかあさんにも出会いました。
比治山の裏までたどり着いたとき、被害を受けていない民家を見つけました。「おばあさん、お水をちょうだい」その家のおばあさんに頼んで水をもらいました。水を飲んだら、ようやく落ち着きをとり戻すことができました。そこでわたしは初めて自分のからだを見まわしてみたのです。火をくぐったのに、からだにはやけどのあとひとつない無傷でした。それに、いつの間にか裸足《はだし》になっていたことにも気づかず、無我夢中で逃げてきたのですが、足に釘《くぎ》ひとつ踏んでいませんでした。
幸運だったとしかいいようがありません。しかし、まだ安心するわけにはいきません。なんとか火の手はくぐり抜けましたが、わたしは自分の家がある方向とは反対の方向に逃げていたのです。
空襲警報のサイレンも鳴りやみません。まだ敵の艦載機《かんさいき=航空母艦などから発進する飛行機》が飛んできて、機銃掃射《きじゅうそうしゃ=低空飛行して機関銃で狙い撃ちする》をくりかえしていました。艦載機はパイロットの顔が見えるぐらいの低空飛行をしてきて、バリバリと機銃を撃つと、弾が風を切って飛ぶヒュンヒュンという音が、耳のすぐ横をかすめるのです。こわくてこわくて、少し走っては防空壕《ぼうくうごう》に逃げこみ、少し休んではまた進むというように、少しでもはやく自分の家に帰りたいという気持ちとは裏腹に、なかなか前へは進めません。
どの防空壕も、身動きのできない人、負傷者でごったがえしていました。街は方々で燃えあがり、火がないところはペしゃんこに押しっぶされてしまったところです。いけどもいけども見わたす限り、地獄のようなおそろしい光景がつづくばかりでした。やがて見覚えのある御幸橋が近づいてきました。修道中学校の近くにある橋です。学校は爆心地から約二千五百メートルのところにありました。学校がどうなっているか、寄って確かめてみようと思い、校庭までいってみましたが、だれもいませんでした。わずかに鉄筋の校舎が一棟だけ残っていましたが、木造の校舎は全部つぶされていました。
いつもならうるさいぐらいに鳴いているセミの声もなく、校庭はしーんと静まりかえって、物音ひとつしません。無気味な静けさでした。わたしにはあっという間のできごとのように思えましたが、すでに三時になっていました。止まっているかと見えた鉄筋の校舎の時計だけが、静かに時をきざんでいました。
長い時間、暗やみがつづいたあと、やっと明るくなったかと思うと、真夏の陽射しが戻ってきていました。運動場の砂が強い陽射しに照りかえって、わたしにはまぶしいほどの白さに見えました。いつも見慣れているはずの校庭なのに、全然見知らぬ別の場所に立っているようでした。自分の教室があったあたりへいってみました。大きな梁《はり》が落ち、その下の机のあいだに押しっぶされたかっこうで、ひとりの生徒が横たわっているのが見えました。わたしはびっくりして、もときた道を引きかえしました。梁の下敷きになった生徒はすでに息絶えている様子でしたが、おそろしくて近づくことができませんでした。
あとで、死んだ生徒は一クラスだけ学校へ勉強にきていたクラスの細川くんという生徒だったということがわかりました。ほかの生徒たちは、ドーンときた瞬間に机の下にもぐりこんで、全員助かったのです。元安川にかかる橋をわたり、つぎの川は本川と呼ばれる太田川でしたが、そこにかかっていた橋は木造だったので、焼け落ちてしまっていました。川に入って、歩いてわたろうとしましたが、その川のなかにも動けなくなった人たちがたくさんおりました。
(九)
裸の体に墨で名前を書く
土手を下っていくと、すぐ近くで、「たけもと!」「たけと!」と叫ぶ声がします。誰だろうと思ってキョロキョロと見まわしましたが、まわりは大変な人で、声の主が何処にいるかわかりません。やっと見つけたと思ったら、私の見たこともない顔でした。「おまえはだれや」ときくと、「おれや、おれや、川端や」と答えます。「えっ」と思いました。川端くんといえば、今朝までいっしょだった同じクラスの親友です。ところが、まじまじと見てもわからないほど顔がかわってしまっていました。「たけもとォ!川端や!川端や!」声の主はなおも叫びます。教室では机がわたしのすぐうしろで、毎日顔をつきあわせていたのに、その人だとまるでわからない。顔が2倍くらいの大きさにふくれあがってしまって、とてもおなじ人とは、思えないのです。ふと靴をみたら、「川端」と書いてあったので、やっとわかりました。川をわたり切れば、江波という町のはずでした。そこにはやはりおなじクラスで、私と川端くんとは大の仲良しだった桝本伸之くんの家がありました。「わかった。川端。この川を渡れば、桝本の家がある。そこへ行こう。そこまでがんばれよっ!」そういって励ましながら、私は川端くんを背負うようなかっこうで川をわたりはじめました。
向こう岸にわたって、土手の上にあがり、桝本くんの家をたずねると、幸いなことに桝本くんの家はすぐ近くでした。家にはおかあさんとおねえさんがおられました。桝本くんが無事かどうかをたずねると、「伸之は昼前に帰ってきましたけど、全身大やけどで、そこの陸軍病院に連れて行きました。」という返事でした。川端くんもすぐに病院へつれていかねばなりませんから、桝本くんの家でリヤカーを借り、桝本くんのおねえさんに手伝ってもらって、陸軍病院へつれていきました。
病院の前の道は、倒れた人、人、人でふさがっていました。ムシロや戸板《といた=雨戸の板、人を運ぶ時使った》の上に寝かされている人は、まだ恵まれたほうです。地べたにそのまま寝かされている人もいます。体が真っ赤にはれあがり、す息絶えている人もいました。目を開けたまま、すでにものも言えなくなっているけれども、まだ生きている人もいます。
そして、「水をくれェ、みずをくれぇ」と叫びつづけているだけのひと、、。横たわった脇に置かれた瓦《かわら》や木片には「山中」とか「大町」と書かれています。その人の名前です。裸の体に墨で名前を書きつけられているいる人もいました。救護にあたる人の数がたりず、とても全部の人には手当てがいきわたりません。口がきけるあいだに、名前だけでも聞いて、体に書いておくのが精いっぱいだったのです。それすら手がまわらず、名前もわからないままに死んでいった人もたくさんいました。
白い膏薬《こうやく》や食用油《油は火傷の薬》を塗ってもらっている人はまだ幸いでした。ほとんどどの人はなんの手当ても受けられないまま、病院まえの道と言う道を埋め尽くして、とても病院までたどり着けるような状態ではありません。やっと病院の中庭まで入りましたが前後の見境が着くような状態ではありませんから、私は病院の入り口で川端くんをだれかの手に委ねました。しかし、委ねた人が看護婦さんだったのか、軍人の人だったのか、思い出そうとしてもこの部分だけ、はっきり記憶がないのです。そのあとも必死に記憶の糸をたぐろうとしましたが、どうしても思い出せません。川端くんには非常に申しわけなく思いますが、かれとはそこで別れ、結局、それが川端くんと会った最後になってしまいました。
いっしょに弁当の番をしていた斉藤くんの場合は、死んだものとおもっていました。ところが、それから約40年後、東京の新宿で開かれた同窓会に、その斉藤くんが元気な姿を見せてくれたのです。むこうでも私が死んだものと思っていましたから、奇跡的な再会となりした。、、、、、つづく