長崎の被爆者の声(3) (6枚目のCDの41から51まで)
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長崎の被爆者の声(3) (6枚目のCD) (kousei, 2006/7/14 0:38)
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kousei
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その41 音声を聞く
死体収容は、一番最初はもうあのう県道ですね。道路の死体を先ず一番先処理したですもんね、それから川の中、溝の中それから、防水壕まあ水のあるところの死体を先ず先に処理したんですが、それこそ道路の真ん中へ壊れた家の柱持って来て、積み重ねてそこへ死体積み重ねて焼くと。
それが済んでえ、まあ潰れた家の下敷きになってる人とか、それからあすこに浦上の刑務所がありましたもんね、刑務所の死体があれがまあ3日ぐらい掛りましたでしょうね。それからあのう学校、先生生徒の死体もうそれこそ悲惨なもんでしたよ。
それから最後にはもう今度は山の中の捜索でしたね。稲佐側の方の死体も相当有りました山ん中に。
だけど一番多かったのが、大学病院からあの裏手の山、お諏訪様にかけ、諏訪神社の向こうに細道がありますもんね、あそこの方の山が一番ひどかった。だから約6800ほど自分達は確認してるんですよね。その中で身元のわかったってのは殆どありませんでした。未だに無縁仏。
その42 音声を聞く
救護車に着くまでのもう様子は、もう、昔の城山のやなかったですねぇ。川端通りの桜一本も無いようになって。川岸にずーと、あのうコンクリートで塀を作ってあるのがですね、も一つも無いようにいっきに横倒しに倒れてしまってるんですねぇ。
そして、川の中にも、まだ死骸がだいぶ残っていました。でそれをこんだあ、あの警防団の人がねですね、あのう鶴嘴みたいなのでまるで鰯か魚を引きずるようにして引きずって行ってですねぇ、ほしてあのう何人もこずんどって燃やしよんなさる。
その臭いがもう臭くてですねぇ。
それから、ずーと戸板に乗って病院に行って、野戦病院みたいでですね、床も何にも無い、もうーほんともう、ゴロゴロしたところに粗莚を敷いた上に、被爆者がずらーっと並べてあるんですよねぇ。
そこで、そのガラスの破片を取って貰ったんですよ、肉をもう、こう剥ぎ取られるように、食い込んでいるガラスが一緒にこう抜けてくるでしょ、で、こうザラザラっていうもう音が、吃驚するような音がしたんですけど。
その43 音声を聞く
娘「雨は酷かしですねバラバラバラバラ言うてですね。また爆弾またあれして来たあって言うてからですね、弟『原子ばらん』て言いよっとですよ。原子爆弾って言いきらんで『原子ばらんがまた来た』言うて。
ほいでもうお医者さん達が藥を置いて逃げて行くでしょう。その間に藥を取ってみんなに治療してある訳ですよ、自分がずーと、回って。」母親「そうしてね」娘「ほーいで今度そげんしよってですね。
そしたら最後にあれですね、もうこげん逃げよった、私しゃもう寝たきりで全然動かれんでしょ。そいけん、逃げよってもどうもならんけん、2人でここで死のうでね」
母親「3人で死のうちゅうてね」
娘「3人で死のうって言うでしょうが、うーんそげんしようーって言うた、そしたら、またバランバランバランたらううーて言いよるわけ。母ちゃんあんたなんしよる、私引っ張る役ですよ、もう必死になって。あんたはね、うちば置いてね逃げんて言うてね、ここで死のうーて、言うとってね。見てみんね。
こげんしよったら、あんた、また置いてうちば置いてから逃げて行きよろうがって言うばってん、あたしゃ一生懸命引っ張り役やったですよ。
そしたら繰り返しするからですよぉもう。しょっちゅうそんなされよったですよ」
母親「言うてね、またね、そしたらね、病院の先生がね、ピンセットとなんと持っていってねぇ、この人ば消毒しよるんですよね。
そしたらピカッと光ったらね、雷さんがそん時光っととよね。そしたら先生がピンセットから何から置いてね逃げとんなさっと」
娘「やっぱりねぇあの、子が可愛いか誰が可愛いかやっぱり自分の命が一番可愛いし」母親「私たちは逃げますね、うん」
娘「私達がね、もうあれって言うても経験したけん、絶対こらもう間違わん自分自身って私は言うたですよ。いくら子供が可愛いか婿さん言うてもねぇ。
やっぱり自分の身ば守るとやね、最後はって言うて、あたしそれだけ経験したですよ、よか経験やった、フフフ。
その44 音声を聞く
「亡くなった方とか、怪我をした方とか、随分沢山ご覧になったんでしょうか?」
孫娘「あんね死んだ人とかね、怪我をした人とかね、見られたやろか?」
あ~、その時は、もう、なんて言うですかねぇ人間じゃ無くって。いろいろな怪我をして、いろいろな首が無い人やらですねぇ、人間の上へ重なったりなんだりして人間の皮は着らずに身だけな人達が多い、呻いたりしてですねぇ。
もうあの時の悲惨さは、何て言いましょうかねぇ。もう死体なんかも箱にポンポンポンポン人間をもうゴミそのものですよ。子供も大人も一緒たくですねぇ。
そしてもう何処に積んで行くのかと思うて黙って見てると、もう空き地にそのままザアーと捨てて、そんまま石油みたいなひっ被せてやって、ほんと、まあ、なんか私 嫌ですね。2度ともう繰り返したくないですねぇ。恐ろしくって・・・
「住む所はどうされましたか?住む所、家は?」
孫娘「住む所はどうでしたかって!」
「どうされましたか?」
孫娘「あんね、住む所はねどうされましたかって!」何処?
「住む所!」住むところ?
住む所は今言うように駅、それから野原、そこが私の住むところ。
その45 音声を聞く
被災者が二通りありましてねぇ。直接爆風でやられたか方は出た所が全部オレンジ色してるんですね、焼けて。川ん中折り重なって、死んでる人が何百人ってありましたけども。上から見ますとね、まるでオレンジ色してるんですね、皮膚が。
それからもうひとつは、火災の為に焼けた人は黒こげなんですねぇ、泥のような。もうほんと泥人形みたいになってねぇ、足を妙に空に跳ね上げたような格好して手は空を掴むようなね、そういう格好して。
特に子供なんかがねぇ、あのう道の片側にある小さい溝の中に、頭を突っ込んで死んでるのが随分まだブスブス燃えてましたけどね、その子なんか。私もスケッチしましたけども。
ま一番心苦しいのはあのう、両手を丁度幽霊のように前に持ってきてねぇ、目は虚ろで、ブルブルブルブル震えているその人の前でね、描く時は嫌な気がしました。だから「ちょっとすいませんけど」って言って描きましたけどもねぇ。まあ軍服を着てるもんだから誰も怒りもしないで、描かして呉れましたけども。
こんな、凄惨な場所を自分が絵描きとして生まれてなんとこう不幸だろうかと思いましたねぇ。そして最初はその妙な臭いと、そのう人を恨むような目付きの未だ死んでない人、或いは黒こげの人、或いは焼け爛れてねぇ、半死半生の人、もうあらゆる人を前に置いて描くんですから。
軍服を着ておりましたからねぇ書けるようなもんですけどもね。
これはとても普通の人が、ああいう時に絵をスケッチするなんてこと到底出来ない、と思うんです。
そん頃永井さん(永井隆博士)も病気が悪化しましてねぇ、全然起きれないんですよ。その枕元に行って、このスケッチ見せましたら、しばらく熱心に見られましてねぇ、寝たままあの、巻紙に書いて呉れた詩があるんですけどもねぇ。
一つは、「実相に見入る目は確かなれど、同胞なれば震う描線」と、「実相に見入る目は確かなれど、同胞なれば震う描線」と。
その46 音声を聞く
病院の先生に往診願った訳ですよ。そうしたところがですねぇ、あのう玄関まで来てね、とにかく「その患者さんを玄関まで引っ張って来い」ちゅうんですよ。
そいで私はとにかくその寝たまんまでしょ、ほっと(そうすると)ね、少しでもそのベットに触られると、その骨折したところに肉が挟まってね、もうそれが物凄く痛いんですよ。一寸も動かされないわけですよ。
だから母も堪りかねてね「とにかく靴のままで結構ですから上がって下さい」と言ったんですよ。
そしたら上がって来てですね、ほいで診察してくだすったんですけども。とにかくま手とか足ならね、ま治療の方法も有るけど、肝心な脊髄骨折では、あのぅ、治療のしようが無いって。だからね、あのぅ「板の上に薄い布団でも敷いて寝せて置いてくれ」って仰ったんですよ。
結局そうして寝せられて居たわけなんですけどもね。
だんだん、今度そこからね腐れだしたんですよ。
まず骨折したところから腐れだして、それから仙骨が腐れだして、それからあのぅ臀部、おしりのね高いところが両方、そいからあのぅ太いももどの ところが両方、それからかかど(踵)、っていうほんもう1箇所2箇所増えて8箇所から腐れだしたんですよ。
それでねぇ、日赤病院にね連れて行って貰ったんですよ、担架のまんま。ところが、もうどうしようもないからその「藥をあげるからね、これであのう自分の家で治療してくれ」って仰るんですよ。
その47 音声を聞く
14日の午後、もう2時頃でしょうか。あの~、木炭バスが一台来て、横断幕が張ってあって『口傳報道隊』って、まあ墨痕鮮やかに書いてあるわけ、で「これに乗ってくれ」って言うこと。
最初に着いた所が八坂町の清水神社ですか、ここに連れて行くって。
ほう、こんな所に人間が居るんだろうかなぁ、思っていたところがそのう長い高段を上ってぇ、この神社の裏っかわにもう、もういくつも横穴防空壕が掘ってある。
我々の隊員なんかがメガホンで「只今から、あー口傳報道隊の、おー、報告がありますからお集まり下さい」と。
まあおらんだら(さけんだら)三々五々、百人近くでしょうか、の人達が集まってきましたねぇ。
それでえ~、私も地図なんかを用意しまして、満州から朝鮮附近の地図を指差しながらですね、まあ当時の官製ニュースで、え~、朝鮮軍以下ですねぇ、満州その他でも関東軍、まあ頑張って居るんだと。どうぞみなさん、ひとつ最後まで戦いましょうと。 言うようなことしかまあ言えないんだからぁ、嘘っぱちかもしれんけれども。
まあそういうこと喋ってええまあ第1回の清水神社を済ました。みんな本当にですね、え~、9日のこの原爆以後、13日まで横穴で毎日を過ごしてね、不安におののいている市民ですからねぇ、僕らがまあ『防衛本部の報道班員』と言う腕章を見てね、喜びましたねぇ。
「どうでしょうか?」と。「日本は大丈夫なんでしょうか?」と、言うことを僕らにね、すがり付くような目で聞いて来るんですよ。で、まあ「今こういう状態なんだから、みんなね、最後まで頑張るんだ」と。
その48 音声を聞く
同じ、14日の夜、広島市郊外の広島中央放送局、原放送所、一般より、半日早く戦争が終わる事を知った人々。
その49 音声を聞く
その14日の夕方近くにそう言う話聞きましてねぇ、終わったか!と、思ったんすよ。ホッとしたのが半分ですよ。そして、夜になりまして誰も寝ないんですよもう。あすこの放送所に詰めている連中はみんな寝なかった、誰も一睡もしなかったです。 もう戦争は終わる、終わった。将来どうなるだろうか、ということ。
それから今まで抑えてたもんがだんだん出て、軍に対する反感、それから左翼思想を持ってる人達は、もうここぞとばかりに「それ見よと、だから日本はこういう風になってしまったじゃないか」という理論を、吐き出した人もありましたねぇ。
そいでみんなでもう、飲み且つそのう心配し、且つ憤慨し且つそのう、思想の問題から平生悩んでた問題をぶつけ合うとか言うことでね、一睡もしませんでした。誰も寝なかったです。
その50 音声を聞く
同じ夜、長崎の被災者が避難していた、佐賀県のある町で
その51 音声を聞く
14日の深夜ぐらいから、もう怪我人がみんな危篤状態になりまして、夜中に妹が最初、一番先に死んだと思います。息が切れて。
そいで、バタバタしてるうちに気が付いたら赤ん坊が死んでまして。それからおじさんが「ま、赤ん坊とかその小さい子をよろしくお願いします」とか何か言うって、リンゲルをやった後、直後に死んだと思います。
なんか14日の夜から15日の早朝にかけてみんなパタパタっと死にました。
時期は同じでしたね、だから、あのう日にち、ありゃあ、なんか一日くらい置くのが法律の規則なんでしょうけども。あのう我々はやっぱり何処か行かなければいけないんで院長さんもなんか、手配して下さいましてね。あのう、直ぐ火葬の手配して下さいまして。
その日のうちにもう昼ごろには、棺におさめて。で、亡くなった日に、なんか、その、病院であのうダリヤの花がすごく真夏ですからねぇ、綺麗に咲いてましてね。そのダリヤの花、1本黙って取ってきて、こうして死体にのっけて、お棺にこう入れてやりましたよ。まあせめても野辺送りですね。
そこで火葬しました、みんな一緒に。それで、あのう婦長さんがいっぺん病院に帰られまして、焼けた頃また迎えに、お骨になった頃また迎えに来られたと思いますが。
その時に、あのう終戦になってなんか、あのう終戦の放送ですか?なんか「天皇さんの放送がありましたよ」とか、と言うことを言われ・・・