食糧難時代 (1)( としつる) その1
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食糧難時代 (1) ( としつる) (編集者, 2007/3/26 7:57)
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食糧難時代 (1)( としつる) その1 (編集者, 2007/3/26 8:03)
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編集者
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食糧難時代その1 97/07/05 23:07
皆さん,毎日暑い梅雨時季ではありますがご機嫌如何ですか? 我々が経験をした食糧難時代とは何時頃からだったか明解なスタート?は当時の環境によって異なるのでしょうが、今にして振り返って見るとその前に食料増産奨励《=すすめる》の時季があったような気がいたします。
私の記憶で言いますと、言わば戦前の昭和15年前後から、農家への"勤労奉仕"と名付けて増産とでも申しますか農家で猫の手も借りたい春、秋の忙しい時季に近隣農家へ田植えやら、麦刈り、更には稲刈りと、旧制中学の下級生を狩出した頃がありました。
今にして思えば支那事変(蘆溝橋事件)《=注》が昭和12年7月に勃発《ぼっぱつ注2》して特に陸軍の兵士が多数動員されて送り込まれた為に農家の働き手である主人、言わば男手を無くしたその後埋め《あとうめ》に奉仕と言う形で生徒を助っ人に使ったのでしょう。
確か昭和15年の夏だったと思うが当時1年生であった我々を、夏休みの初経験、キャンプと銘打って群馬県の草津温泉に近い白根山に"熊笹の実"が何年かに一度の豊作だと、野外鍛練の名目で1週間ほどのテント生活に連れて行かれた記憶もありました。
それが食料の足《た》し?であったのか,飛行機の燃料の足しであったのか若かった青春の夏休みに代わされたようなもので、真実の究明には何の注目からも外されていたのでしょう? 兎に角腹一杯食べられる、しかも純米の白米が旨い沢庵と味噌付けだけがおかずだったのですが、たっぷり腹に納まるのだから喜び勇むはずです。
でもこのような安泰な時間はそう長くは持ちませんでした。上級生に進むに従って現実は農家から兵器生産工場に移されて行ったのです。
注 盧溝橋事件=中国北京郊外の盧溝橋付近で日本と中国の軍隊が衝突した事件。日中戦争のきっかけとなった。
注2 勃発=事件が突然におきる
皆さん,毎日暑い梅雨時季ではありますがご機嫌如何ですか? 我々が経験をした食糧難時代とは何時頃からだったか明解なスタート?は当時の環境によって異なるのでしょうが、今にして振り返って見るとその前に食料増産奨励《=すすめる》の時季があったような気がいたします。
私の記憶で言いますと、言わば戦前の昭和15年前後から、農家への"勤労奉仕"と名付けて増産とでも申しますか農家で猫の手も借りたい春、秋の忙しい時季に近隣農家へ田植えやら、麦刈り、更には稲刈りと、旧制中学の下級生を狩出した頃がありました。
今にして思えば支那事変(蘆溝橋事件)《=注》が昭和12年7月に勃発《ぼっぱつ注2》して特に陸軍の兵士が多数動員されて送り込まれた為に農家の働き手である主人、言わば男手を無くしたその後埋め《あとうめ》に奉仕と言う形で生徒を助っ人に使ったのでしょう。
確か昭和15年の夏だったと思うが当時1年生であった我々を、夏休みの初経験、キャンプと銘打って群馬県の草津温泉に近い白根山に"熊笹の実"が何年かに一度の豊作だと、野外鍛練の名目で1週間ほどのテント生活に連れて行かれた記憶もありました。
それが食料の足《た》し?であったのか,飛行機の燃料の足しであったのか若かった青春の夏休みに代わされたようなもので、真実の究明には何の注目からも外されていたのでしょう? 兎に角腹一杯食べられる、しかも純米の白米が旨い沢庵と味噌付けだけがおかずだったのですが、たっぷり腹に納まるのだから喜び勇むはずです。
でもこのような安泰な時間はそう長くは持ちませんでした。上級生に進むに従って現実は農家から兵器生産工場に移されて行ったのです。
注 盧溝橋事件=中国北京郊外の盧溝橋付近で日本と中国の軍隊が衝突した事件。日中戦争のきっかけとなった。
注2 勃発=事件が突然におきる
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編集者 (代理投稿)