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食糧難時代 (1) (としつる) その4

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通常 食糧難時代 (1) (としつる) その4

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/3/29 7:53
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
食糧難時代その4 97/07/10 11:29

 集中豪雨の襲来を受けておられる九州方面の皆さん、どうぞお気を付け下さい。

 連日連夜の本土空襲も広島、長崎の原爆投下でとどめを刺された訳ですが、日ソ不可侵条約をホゴ《反故》にして参戦してきた当時のソ連には心底怒りを禁じ得ませんでした。

 8月14日敗戦前夜に爆撃を受けた母の住む高崎、幸い山の方に疎開をしておりましたので被害こそ免れましたがかなり酷《ひど》かったようでした。

 翌15日、重大放送があると言う昼食時間の頃、工場は休みだったのでしょうか?
 寮の部屋の外で仲間と共に、失敬して来たカボチャをヒチリンで焼いて食べながら,聴きなれない言葉、それが玉音放送だったのです。

 時の真空管式ラジオでは雑音が酷く《ひどく》て聴き取りずらく、頭の回転の早い男が“オーイ日本は負けたゾー”と泣きながらカボチャを咥え《くわえ》て怒鳴っておりました。

 日頃言われていた“負ければ奴隷《どれい》か”が本物になって全ての者が先行きを案じた瞬間がやって来たのです。2・3ヶ月前から既に覚悟はしていたものの、現実ともなると恐怖が走りました。

 食堂の方から何故か大声と拍手が聞えて来たのも直に朝鮮半島からの人々かと感じるものがありました。その日の夕食から彼等との置かれる環境はすっかり逆転したようで即刻“一旦帰宅すべし”との教授の判断は正しかったのですが、海軍航空隊の“檄”《げき=通告のための文書》“未だ敗れたるにあらず”との脅かしに従ってのほぼ4・5日はビラ撒き(我等戦い続けるの)など、その血気さに支配されていたようです。

 とにかくも母と姉,弟の待つ家に帰らねばならないことの一心から、尾島町を後に高崎に戻ったような私でした。それからの食糧事情は皆さんの書込まれているような情勢でしたね。

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編集者 (代理投稿)

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