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食糧難時代 (1) ( としつる)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2007/3/26 7:57
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 はじめに  メロウ伝承館スタッフより

 インターネットが一般家庭にまで普及したのは20世紀末で、それ以前は、パソコン通信による交流が行われており、このメロウ倶楽部の出身母体もニフティーサーブの運営していたパソコン通信「ニフティーサーブ」の高齢者向けフォーラムの「メロウフォーラム」です。
 この投稿は、その当時、パソコン通信上に掲載されたものの転載です。
 
 当時、「メロウフォーラム」では、テーマを設けて「臨時会議室」を開設し共通のテーマで戦中・戦後の記憶などを語り合ったものでした。
 「食糧難時代」も、その臨時会議室のテーマでした。ここに掲載するものは、そのなかで、投稿者のご了解を得られたものです。

 ・タイトル脇の数字は、投稿日時を示しています。

 ・ 》、> の後に続く文章は、会議室での他の方の発言の「一部引用」です。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/3/26 8:03
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
食糧難時代その1 97/07/05 23:07

 皆さん,毎日暑い梅雨時季ではありますがご機嫌如何ですか? 我々が経験をした食糧難時代とは何時頃からだったか明解なスタート?は当時の環境によって異なるのでしょうが、今にして振り返って見るとその前に食料増産奨励《=すすめる》の時季があったような気がいたします。

 私の記憶で言いますと、言わば戦前の昭和15年前後から、農家への"勤労奉仕"と名付けて増産とでも申しますか農家で猫の手も借りたい春、秋の忙しい時季に近隣農家へ田植えやら、麦刈り、更には稲刈りと、旧制中学の下級生を狩出した頃がありました。

 今にして思えば支那事変(蘆溝橋事件)《=注》が昭和12年7月に勃発《ぼっぱつ注2》して特に陸軍の兵士が多数動員されて送り込まれた為に農家の働き手である主人、言わば男手を無くしたその後埋め《あとうめ》に奉仕と言う形で生徒を助っ人に使ったのでしょう。

 確か昭和15年の夏だったと思うが当時1年生であった我々を、夏休みの初経験、キャンプと銘打って群馬県の草津温泉に近い白根山に"熊笹の実"が何年かに一度の豊作だと、野外鍛練の名目で1週間ほどのテント生活に連れて行かれた記憶もありました。

 それが食料の足《た》し?であったのか,飛行機の燃料の足しであったのか若かった青春の夏休みに代わされたようなもので、真実の究明には何の注目からも外されていたのでしょう? 兎に角腹一杯食べられる、しかも純米の白米が旨い沢庵と味噌付けだけがおかずだったのですが、たっぷり腹に納まるのだから喜び勇むはずです。
 でもこのような安泰な時間はそう長くは持ちませんでした。上級生に進むに従って現実は農家から兵器生産工場に移されて行ったのです。

注 盧溝橋事件=中国北京郊外の盧溝橋付近で日本と中国の軍隊が衝突した事件。日中戦争のきっかけとなった。

注2 勃発=事件が突然におきる

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編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/3/27 8:05
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 食糧難時代その2 97/07/07 11:24

 前回に続いて,今日は私 としつる の戦前(太平洋戦争)での食糧事情について記憶を辿《たど》ってみたいと思います。

 既に昭和6年9月ですか満州事変に始まった我が国大陸制覇の野望は中国東北部に向けて集中的に進められていたのでしょう。 この状況を批判的に見ていた有志を抑え込んでの軍部の勢力は益々その拡大を我々当時の幼い国民にまで軍国主義の勇ましさを煽った《あおった》ような気がしてなりません。

 大陸の広野を得ることで食糧事情は確保されると判断しての政略だったのでしょうか。私どもの身近な先輩達が"満蒙開拓義勇軍"とか言う言葉に憧れ《あこがれ》長男はさて置き、次男三男がこれに赴く《おもむく》風習が男らしくさせたようでした。
 
元々先祖代々が農業水産民族の日本人でしょうから、他民族が襲って来る国難には一致して向ったでしょうが、生来は温厚篤実《おんこうとくじつ》な平和民族だった筈ですが一旦、軍部に唆され《そそのかされ》他国の人を見下すような教育が徹底すると"天皇を神"として利用した命令が大半の若者を階級制度に従わせたのではないでしょうか?

 兵力の増強と共にその軍用米をはじめ、農家より調達した機動用の馬、更には食肉など農業も全てが軍用第一となり、あちらこちらの看板に陸軍省御用達、海軍省御用達の文字が幅を利かせる時代に変化して行ったものと思います。

 そんな訳で学問より勤労奉仕の方が気力、体力共に軍の方向に向ってしまいました。農業にとって機動力の最たる馬や牛が徴発されて行きましたから,必然的に人力,しかも都会の未だ成長過程だった中学生を動員したのです。

 そのようなムードで経過をしながら昭和16年12月太平洋戦争開戦を勇ましくも迎えた国民は"銃後を守る""平和主義者は非国民"などこの小さな島国がアジアを相手に、かつアメリカ大陸までも含めて戦争一色に突っ込んでしまったのです。

 農家から軍事工場に移って行ったのは何時頃だったでしょうか?うろ覚えですが確か中学3年生の後半か4年生に近かったかもしれません。昼食こそ工場の食堂で一定量のものは食べられましたが、全て一色,ご飯に味噌汁、他に何か一品のおかずがあったのでしょうが、若いゆえかお腹が減ってしまって,然も何時でも満腹感の満たされない言わば欠食少年だったような気がしてなりませんでした。
 
次回は工場での食事をもう少し思い出してみたい。

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編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/3/28 7:46
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
食糧難時代その3 97/07/09 11:15

 相変らずの猛暑に辟易《へきえき=閉口、嫌気 》としていますが皆さん御元気ですか。記憶が前後して且つ拙文、何ともお目障りでしょうが御許し下さい。

 今日は昭和18・9年から20年にかけての軍需工場での思い出を辿ってみます。
 農家への勤労奉仕は疲れながらも10時と3時のお茶時が昼飯の銀米以上に待ち遠しく、然も自然相手の楽しさがありました。

 処が工場に移ってからは生産工程やら、試験工程に追い回され巡回している配属将校に小突かれる事もしばしばでしたから、休憩時も只疲れでぐったりしているだけが精一杯です。時折“予科練”《よかれん=注1》から帰省してきた友に海軍の勇ましい話しを聞かされ恨めしささえ感じる私でした。
 そんな状態での昼食などには覚えが薄いせいか、さだかではありません。

 しかしいよいよ敗色濃厚となってきた昭和20年、その思い出は強烈です。既に徴兵検査《注2》も終え、やがては来るであろう召集令状を待ちながら航空機工場に移って行きました。我々学生が給食を受ける食堂と、朝鮮半島から来られて?居る徴用工とは仕切りがされていて、出るメニューも格差が歴然としていたようです。

 勿論、地上勤務の者と、駐屯していた航空隊員のそれとは又雲泥《うんでい》の差があったようです。彼等は常に出撃の待たれる毎日ですし、酒やら甘味品それに煙草も何も全てがその時々が生きている最後であったのでしょうから・・・・・

 でも6月に入ると、燃料はおろか,肝腎のエンジンが不足してきたようで、飛び出したくても飛べない機体を空襲警報の発令される都度我々が滑走路から離れた“掩体壕”《えんたいごう注3》まで避難させるわけで、工場内に居る時よりも手押し作業の時間の方が多くなりました。

 更に恐ろしかったのは何と言ってもグラマンとかいう戦闘機からの機銃掃射《注4》でした。既に相手は全てをお見通しだったのでしょう。幸いにも直接での死傷者は聞きませんでしたが、広い工場内での事 聞かされなかったと言う方が事実でしょう。

 寮に帰ると、帰省から戻った友人のみやげ“煎豆”が何よりのお迎えでした。食堂でそれなりの給食を受けながらも、お腹の空く若さだったのですね。寮監として一緒に来られていた英語の教授が“やがて必要になる英会話”を、暑いのに窓を閉め切った部屋で小声で講義を続けてくれたその偉さには空腹を忘れての本当の偉さを教えてもらいました。

 空襲の無い夕方,僅かな時間を部屋から抜け出し、農家の畑からトマト、きゅうりなどたった2、3個なのですが失敬して来る途中、腰の手拭いがきゅうりの蔓に取られて名前がバレ、大目玉を受けた記憶も鮮明です。

 次回もう暫くご容赦願います。

注1 予科練=海軍飛行予科練習生 (1930年に創設され、満14歳以上20歳未満 1937年更なる搭乗員育成の為、年齢は満15歳以上20歳未満の志願者) 1944年に入ると特別攻撃隊の搭乗員の中核をなした。  霞ヶ浦海軍航空隊が有名

注2 徴兵検査=徴兵適齢の成年男子に対し、兵役に服する資質の有無を判定するために身体・身上を検査すること
注3 掩体壕=航空機を敵の攻撃から守るための格納庫
注4 機銃掃射=軍用機が機体に装備した機関銃や機関砲を使用して、地上または海上の目標を空中から狙い撃ちにする攻撃方法。

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編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/3/29 7:53
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
食糧難時代その4 97/07/10 11:29

 集中豪雨の襲来を受けておられる九州方面の皆さん、どうぞお気を付け下さい。

 連日連夜の本土空襲も広島、長崎の原爆投下でとどめを刺された訳ですが、日ソ不可侵条約をホゴ《反故》にして参戦してきた当時のソ連には心底怒りを禁じ得ませんでした。

 8月14日敗戦前夜に爆撃を受けた母の住む高崎、幸い山の方に疎開をしておりましたので被害こそ免れましたがかなり酷《ひど》かったようでした。

 翌15日、重大放送があると言う昼食時間の頃、工場は休みだったのでしょうか?
 寮の部屋の外で仲間と共に、失敬して来たカボチャをヒチリンで焼いて食べながら,聴きなれない言葉、それが玉音放送だったのです。

 時の真空管式ラジオでは雑音が酷く《ひどく》て聴き取りずらく、頭の回転の早い男が“オーイ日本は負けたゾー”と泣きながらカボチャを咥え《くわえ》て怒鳴っておりました。

 日頃言われていた“負ければ奴隷《どれい》か”が本物になって全ての者が先行きを案じた瞬間がやって来たのです。2・3ヶ月前から既に覚悟はしていたものの、現実ともなると恐怖が走りました。

 食堂の方から何故か大声と拍手が聞えて来たのも直に朝鮮半島からの人々かと感じるものがありました。その日の夕食から彼等との置かれる環境はすっかり逆転したようで即刻“一旦帰宅すべし”との教授の判断は正しかったのですが、海軍航空隊の“檄”《げき=通告のための文書》“未だ敗れたるにあらず”との脅かしに従ってのほぼ4・5日はビラ撒き(我等戦い続けるの)など、その血気さに支配されていたようです。

 とにかくも母と姉,弟の待つ家に帰らねばならないことの一心から、尾島町を後に高崎に戻ったような私でした。それからの食糧事情は皆さんの書込まれているような情勢でしたね。

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編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/3/30 7:51
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 食糧難時代その5 97/07/12 16:17

 豪雨禍による災害で亡くなられたお方のご冥福をお祈りいたします。

 敗戦後の我が国は何処に住まわれていても、皆さんそれ相応の ご苦労をされたのでしょうが、私どもも母の懸命な買出しと、物物交換《=通貨ではなくものと物の交換》での食糧補給とで食いつないでこられたのです。

 既に13年前92歳で他界しておりますが、母親に感謝すべき事柄は山ほどもあります。
 その中でも終戦前後の留守を守った女性には偉大なバイタリティを見せられました。働き者の“かかあ天下”を自認していた程の上州人は多勢居りましたが・・・・・

 その頃,街に住んでいた者達から取上げた(失礼ですね御免なさい)お祝い着やら、貴重品など物々交換されたものはどうなっていたのでしょう。
 空襲での防火活動に懸命であった街の主婦の防空頭巾《ずきん》を背負ってのモンペ姿が浮かんで参ります。

 従兄が海軍から復員して来たその頃、ゴムの厚い袋(畳一枚程もあった)に入った米を両毛線の小山駅まで取りに3人掛りで行った事もありました。

 軍から恐らく山分けでもしたのでしょうか、随分酷いとは思いながら汽車の切符も買えないので,駅の出札口に居た知合いの女性を呼び出し、分け前を届けることで売ってもらったような、情けない事もありました。

 裁判官でしたでしょうか、配給だけで生活を続け最後には栄養失調で亡くなられた立派な方も居られました。

 “沖縄芋”ばかりは配給でもかなり敬遠されたようで,大吉さんが書かれておりますように私も同様でした。米糠《こめぬか》ばかりでの煎餅やら、玄米を1升ビンに入れ木の棒で突いて白米にしたのもこの前後だったのでしょうか。

 当時の日記なり、記録は防空壕の中で、水浸しともなり、私のコンサイス英和辞典は最後の方のVからZまで煙草の巻紙《注1》に使ってしまって消えてしまいました。
 従って“うろ覚え”での記憶ですから間違いも多いとは思いますがご勘弁願います。

 もうあのような思いを繰り返すことは考えられませんが,並木路さんが書かれていますように北朝鮮の今後が気掛かりです。50年以上も前の我が国のように“窮鼠、猫を噛む”《きゅうそねこをはむ=注2》ようなことの無いよう先進国のリーダーは厳重な政治力で納得させて欲しいものです。

 これからは又の機会に書込ませて頂きます,暫くの駄文にお付合い下さったこと心より感謝申し上げます。

注1 煙草の巻紙=煙草は不足していたので、野草を乾燥させて薄紙で巻いて自家製煙草をつくった
注2 窮鼠、猫を噛む =追いつめられた鼠が猫にかみつくように、弱い者も追いつめられると強い者に反撃することがある

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編集者 (代理投稿)

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