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食糧難時代 (1)( としつる) その3

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通常 食糧難時代 (1)( としつる) その3

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/3/28 7:46
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
食糧難時代その3 97/07/09 11:15

 相変らずの猛暑に辟易《へきえき=閉口、嫌気 》としていますが皆さん御元気ですか。記憶が前後して且つ拙文、何ともお目障りでしょうが御許し下さい。

 今日は昭和18・9年から20年にかけての軍需工場での思い出を辿ってみます。
 農家への勤労奉仕は疲れながらも10時と3時のお茶時が昼飯の銀米以上に待ち遠しく、然も自然相手の楽しさがありました。

 処が工場に移ってからは生産工程やら、試験工程に追い回され巡回している配属将校に小突かれる事もしばしばでしたから、休憩時も只疲れでぐったりしているだけが精一杯です。時折“予科練”《よかれん=注1》から帰省してきた友に海軍の勇ましい話しを聞かされ恨めしささえ感じる私でした。
 そんな状態での昼食などには覚えが薄いせいか、さだかではありません。

 しかしいよいよ敗色濃厚となってきた昭和20年、その思い出は強烈です。既に徴兵検査《注2》も終え、やがては来るであろう召集令状を待ちながら航空機工場に移って行きました。我々学生が給食を受ける食堂と、朝鮮半島から来られて?居る徴用工とは仕切りがされていて、出るメニューも格差が歴然としていたようです。

 勿論、地上勤務の者と、駐屯していた航空隊員のそれとは又雲泥《うんでい》の差があったようです。彼等は常に出撃の待たれる毎日ですし、酒やら甘味品それに煙草も何も全てがその時々が生きている最後であったのでしょうから・・・・・

 でも6月に入ると、燃料はおろか,肝腎のエンジンが不足してきたようで、飛び出したくても飛べない機体を空襲警報の発令される都度我々が滑走路から離れた“掩体壕”《えんたいごう注3》まで避難させるわけで、工場内に居る時よりも手押し作業の時間の方が多くなりました。

 更に恐ろしかったのは何と言ってもグラマンとかいう戦闘機からの機銃掃射《注4》でした。既に相手は全てをお見通しだったのでしょう。幸いにも直接での死傷者は聞きませんでしたが、広い工場内での事 聞かされなかったと言う方が事実でしょう。

 寮に帰ると、帰省から戻った友人のみやげ“煎豆”が何よりのお迎えでした。食堂でそれなりの給食を受けながらも、お腹の空く若さだったのですね。寮監として一緒に来られていた英語の教授が“やがて必要になる英会話”を、暑いのに窓を閉め切った部屋で小声で講義を続けてくれたその偉さには空腹を忘れての本当の偉さを教えてもらいました。

 空襲の無い夕方,僅かな時間を部屋から抜け出し、農家の畑からトマト、きゅうりなどたった2、3個なのですが失敬して来る途中、腰の手拭いがきゅうりの蔓に取られて名前がバレ、大目玉を受けた記憶も鮮明です。

 次回もう暫くご容赦願います。

注1 予科練=海軍飛行予科練習生 (1930年に創設され、満14歳以上20歳未満 1937年更なる搭乗員育成の為、年齢は満15歳以上20歳未満の志願者) 1944年に入ると特別攻撃隊の搭乗員の中核をなした。  霞ヶ浦海軍航空隊が有名

注2 徴兵検査=徴兵適齢の成年男子に対し、兵役に服する資質の有無を判定するために身体・身上を検査すること
注3 掩体壕=航空機を敵の攻撃から守るための格納庫
注4 機銃掃射=軍用機が機体に装備した機関銃や機関砲を使用して、地上または海上の目標を空中から狙い撃ちにする攻撃方法。

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編集者 (代理投稿)

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