レイテ島戦不参の記 (その2) 森田勝己
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レイテ島戦不参の記 森田勝己 <英訳あり> (編集者, 2007/6/18 7:36)
- レイテ島戦不参の記 (その1) 森田勝己 (編集者, 2007/6/18 7:47)
- レイテ島戦不参の記 (その2) 森田勝己 (編集者, 2007/6/19 7:55)
- レイテ島戦不参の記 (その3) 森田勝己 (編集者, 2007/6/20 9:11)
- レイテ島戦不参の記 (その4) 森田勝己 (編集者, 2007/6/21 7:38)
- レイテ島戦不参の記 (その5) 森田勝己 (編集者, 2007/6/22 7:40)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
夜が明けたのが先か、台風通過が先か定かでないが、夜が明けてみると空は青空、そよ風さえない。台風が去ったのは分かったが、それにしても船が揺れない。いや少しも動いていない、もっと驚いたのは船のまわりに水がない。船は砂浜にデンと鎮座ましましているではないか。あれ右にも左にも同じ姿勢で僚船《りょうせん=仲間の船》がいるではないか。
これは驚いたとか、びっくりしたとかでは、とても表現しきれるものではない、結局四隻の船がほぼ等間隔で砂浜の海岸に乗り上げて仕舞ったのだ、と言う情況を誰もが認識しなくてはなりませんでした。
この時この四隻には、二中隊の二個小隊、三中隊の若干、一機関銃中隊の指揮班と三個小隊と全員で約三〇〇余名(概数)が乗船していたと思う。取り敢《あ》えず対空対策、下船疎開《そかい=離れた場所に移動する》、海岸を離れ郷子林の中に移動し、今後の対策に入る頃、遥か沖を一隻の船が航行するのを発見、早速手旗信号《両手に赤白の旗を持って文字を現す》を試みると、第一大隊長乗船の「勢吉丸」と分かった。勢吉丸は航路を海岸に向け遠浅のため小舟により海岸に至り、大隊長の斉藤少佐は状況を確認して「速やかに追求すること」と下命、更に機関銃一個小隊の同行を求められ、最右翼小隊の田高小隊を急速、勢吉丸に乗船させて、レイテ島へ向け再び船は発進して行きました。
話は途中ですが、この田高小隊は我が第一機関銃中隊の唯一レイテ島に到達できた小隊であり又第一大隊唯一つの機関銃隊として、奮戦を続け、S上等兵を除く小隊長以下全員玉砕しレイテ島の鬼となりました。
船に備え付けの海図により、この島はマスバテ島である事が分かった。十一月三日にマニラを出た時は八隻の船団であったが、勢吉丸はレイテ島へ向い、四隻はここに居る。残りの三隻はこの夜の台風を期して消息を絶ちました。その三隻には我が機関銃中隊の一個小隊と大隊砲一分隊、外の一中隊、四中隊の殆ど《ほとんど》が乗船していました。
この夜の台風は比島中央部を東進し、マスバテ島からレイテ島へと進み、後日聞く処によれば、リモン峠の五十七連隊は九日の夜、タコ壷《タコつぼ=土を掘った一人用のざんごう》で濡れ鼠《ぬれねずみ》で一夜を明かしたとありました。
干潮の時の海水を100米以上離れた砂浜に乗り上げた四隻の船を眺めて、隊長級の協議の結論は、可能不可能は別にしてとも角この船を海に浮かべる事に全力を注ぐという事になりました。とは言ってもそこに在るのは二~三百人の兵士と円匙《えんぴ=スコップ》と数丁の十字鍬《じゅうじぐわ=土を耕す農具》のみ、工兵もいなければ工具も何もありません。もう午後には取り敢えず、我々の関門丸の砂堀りが始まりました。
今まで五日間程、窮屈な船内に閉じ込められ運動不足でいた者、急に重労働と言っても体は動きません。空には台風一過の青空に、灼熱《しゃくねつ》の太陽がいつまでも照り付けていました。
海岸の郷子林のあちこちに、携帯天幕で夜露を凌《しの》ぎ、少しの休憩も惜しんで、掘り出しの作業が続きました。誰も経験の無い、計画も予定も立たない作業ではあったが、一所懸命の甲斐《かい》があって、三日目頃は、もしかしたら一隻位は掘り出せるかもと希望が湧《わ》いてきて、今までの半信半疑の心境は、やれば出来ると誰彼《だれかれ》も思うようになってきました。そしてその可能性が誰の目にも見えてきた十五日の昼頃、この関門丸の船長の洞口さんが船底で反対側に傾いた船に圧殺されるという不測の悲運が発生しました。勿論《もちろん》慎重な手順で行った作業ではありましたが経験の無い危険な作業故の悲劇で、痛恨の極み、一同で心から懇ろ《ねんごろ》に冥福《めいふく》をお祈りしました。
これは驚いたとか、びっくりしたとかでは、とても表現しきれるものではない、結局四隻の船がほぼ等間隔で砂浜の海岸に乗り上げて仕舞ったのだ、と言う情況を誰もが認識しなくてはなりませんでした。
この時この四隻には、二中隊の二個小隊、三中隊の若干、一機関銃中隊の指揮班と三個小隊と全員で約三〇〇余名(概数)が乗船していたと思う。取り敢《あ》えず対空対策、下船疎開《そかい=離れた場所に移動する》、海岸を離れ郷子林の中に移動し、今後の対策に入る頃、遥か沖を一隻の船が航行するのを発見、早速手旗信号《両手に赤白の旗を持って文字を現す》を試みると、第一大隊長乗船の「勢吉丸」と分かった。勢吉丸は航路を海岸に向け遠浅のため小舟により海岸に至り、大隊長の斉藤少佐は状況を確認して「速やかに追求すること」と下命、更に機関銃一個小隊の同行を求められ、最右翼小隊の田高小隊を急速、勢吉丸に乗船させて、レイテ島へ向け再び船は発進して行きました。
話は途中ですが、この田高小隊は我が第一機関銃中隊の唯一レイテ島に到達できた小隊であり又第一大隊唯一つの機関銃隊として、奮戦を続け、S上等兵を除く小隊長以下全員玉砕しレイテ島の鬼となりました。
船に備え付けの海図により、この島はマスバテ島である事が分かった。十一月三日にマニラを出た時は八隻の船団であったが、勢吉丸はレイテ島へ向い、四隻はここに居る。残りの三隻はこの夜の台風を期して消息を絶ちました。その三隻には我が機関銃中隊の一個小隊と大隊砲一分隊、外の一中隊、四中隊の殆ど《ほとんど》が乗船していました。
この夜の台風は比島中央部を東進し、マスバテ島からレイテ島へと進み、後日聞く処によれば、リモン峠の五十七連隊は九日の夜、タコ壷《タコつぼ=土を掘った一人用のざんごう》で濡れ鼠《ぬれねずみ》で一夜を明かしたとありました。
干潮の時の海水を100米以上離れた砂浜に乗り上げた四隻の船を眺めて、隊長級の協議の結論は、可能不可能は別にしてとも角この船を海に浮かべる事に全力を注ぐという事になりました。とは言ってもそこに在るのは二~三百人の兵士と円匙《えんぴ=スコップ》と数丁の十字鍬《じゅうじぐわ=土を耕す農具》のみ、工兵もいなければ工具も何もありません。もう午後には取り敢えず、我々の関門丸の砂堀りが始まりました。
今まで五日間程、窮屈な船内に閉じ込められ運動不足でいた者、急に重労働と言っても体は動きません。空には台風一過の青空に、灼熱《しゃくねつ》の太陽がいつまでも照り付けていました。
海岸の郷子林のあちこちに、携帯天幕で夜露を凌《しの》ぎ、少しの休憩も惜しんで、掘り出しの作業が続きました。誰も経験の無い、計画も予定も立たない作業ではあったが、一所懸命の甲斐《かい》があって、三日目頃は、もしかしたら一隻位は掘り出せるかもと希望が湧《わ》いてきて、今までの半信半疑の心境は、やれば出来ると誰彼《だれかれ》も思うようになってきました。そしてその可能性が誰の目にも見えてきた十五日の昼頃、この関門丸の船長の洞口さんが船底で反対側に傾いた船に圧殺されるという不測の悲運が発生しました。勿論《もちろん》慎重な手順で行った作業ではありましたが経験の無い危険な作業故の悲劇で、痛恨の極み、一同で心から懇ろ《ねんごろ》に冥福《めいふく》をお祈りしました。