レイテ島戦不参の記 (その4) 森田勝己
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レイテ島戦不参の記 森田勝己 <英訳あり> (編集者, 2007/6/18 7:36)
- レイテ島戦不参の記 (その1) 森田勝己 (編集者, 2007/6/18 7:47)
- レイテ島戦不参の記 (その2) 森田勝己 (編集者, 2007/6/19 7:55)
- レイテ島戦不参の記 (その3) 森田勝己 (編集者, 2007/6/20 9:11)
- レイテ島戦不参の記 (その4) 森田勝己 (編集者, 2007/6/21 7:38)
- レイテ島戦不参の記 (その5) 森田勝己 (編集者, 2007/6/22 7:40)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
とにかく今夜足を伸ばす場所を確保しなくてはなりません。付近の現地人の空家を求め各分隊単位ずつで分宿する事になりました。宿舎は簡単に確保できましたが、明くる日から毎日の食糧を確保することは最大の仕事となりました。毎日食べ物収集で気を紛らわしてはいましたが、待望の船はとうとう十一月が終っても回して貰《もら》えませんでした。
ダンパンタヤンに在る十日間過ぎの十二月五日になり、急濾《きゅうきょ》二隻の舟が回送される事になりました。定員の都合で三中隊は現地に残り、二中隊と一機関銃中隊が暗夜と共に出発、漆黒《しっこく》の夜の海を全速で疾走、一度は魚雷艇の曳光弾《えいこうだん=光を出して弾道がわかる爆弾》を見る戦慄《せんりつ》を味わいはしたが、払暁《ふつぎょう=明け方》五時にセブ港に無事入港できました。
上陸後間も無く、ノースアメリカン爆撃機十数機による空襲の洗礼を受けました。比島に上陸して最初に受けた本格空爆で竹藪《たけやぶ》を大風が吹き抜けるような轟音《ごうおん》は、恐怖心を煽る《あおる》には相当に効果がありました。初めての空襲を避けたのか、眺めたのか待避する場所も暇もなく、只《ただ》道路を避け家屋に押し入って、敵機の空襲の終るのを待っていました。こうして戦場の末端ながら、その本舞台に一歩一歩近づいて行く事を実感しました。
港から行軍数キロ、セブの兵帖《へいたん=車両や軍需品の補給や修理を担当する機関》に落着き朝食の給与を受けました。久し振りに食事らしい食事を頂きました。
徒手空拳《としゅくうけん=手に何も持たない》の兵が兵帖での徒食《としょく=何もせずに暮らす》は長くありません。数百でセブ陸軍病院の待避壕《たいひごう》を天山陣地に掘ると言う思いもよらない要請があり、新任務に当ることになりました。各所からの集合部隊のことで暑い国での土堀作業は空襲の合間を選んでの重労働でありました。
この防空壕堀作業から突然解放され、約二週間で再び兵帖に戻って来た我々に兵器弾薬と、ひと通りの新しい被服が支給されました。漸く軍人、軍隊らしくなった我々は服装も気分も新たに今度こそレイテ島へ行けると、緊張と共に準備を整えました。
この時、行き先を失った?、紙岡大隊と言う、紙岡大尉が指揮する部隊がセブ市に居て、この大尉が紙岡大隊と我々の指揮を執り、セブ島の北部を目指し最短距離の航行でレイテ島に渡る計画でした。
兵器は整った。被服も行き渡った。兵帖の前庭に整列した部隊を前に、出陣の訓辞を終えて紙岡大尉は号令を下した。「レイテ島に向って前進、前え進め……」
十二月とは言え、南国比島の炎熱の行軍はこうして二十七日に始まりました。
激戦の戦場を目指す部隊として、完全武装は基より携行できるものは、貪欲《どんよく》に極限まで掻《か》き集め鍋《なべ》包丁《ほうちょう》に俎板《まないた》まで、荷車に積み込み、行軍縦列は異例の長さに及ぶ事になりました。
第一泊はヤテでありました。ここはまだ友軍の地域で、暑ささえ我慢すれば、格別対空警戒もせず、時々見える現地人も敵意を現すこともなく、概ね順調に予定通りの行軍ができました。
しかし、順調な行軍もここまででありました。第二日目の行軍が始まり、ヤテの集落を外れ一キ口もすると、そこはゲリラの勢力地か、道路には色々な邪魔物から椰子の木などで道路封鎖、交通妨害が完璧にされているのでした。到底荷車の通行は不可能となりました。車の通行が不可能となれば、車の荷物は分散して兵士の肩にかかってきます。
第二泊目はダナオでした。ここは港町、ここで足と障害(熱帯潰瘍《かいよう》の患者と加藤二年兵)のある兵を清水班長が指揮して、舟艇《しゅうてい=小舟》移動することになった。
三日目は負傷兵を行軍より外した事もあり、順調に行軍できて第三泊のカトモンに到着し大休止《=長時間の休憩》となりました。
カトモンを出て四日目の行軍発起の直後のまだ払暁《ふつぎょう》前、漆黒の闇夜《やみよ》に尖兵《せんぺい=行軍の先端にあって警戒、捜索等担当する兵》が突然銃撃を受け「衛生兵前へ」と叫んでいる。見ると二中隊の石上初年兵が上膊《じょうはく=上腕》に貫通銃創《かんつうじゅうそう=銃弾が体を貫いた傷》、幸い骨折は無い模様、文字通り手探りで止血をしてみる。こちらも重機《=重機関銃、数名で扱う大型のもの》で応戦してゲリラを退散させ、警戒小休憩、夜明けを待つことになりました。
最終四泊はボルボン、就寝半ばの十時頃起こされ、行軍出発とはなったけれど、どこで間違ったか何を間違ったか道路が分からない。水が足を覆い膝《ひざ》に近く、周囲は真夜中の暗夜で前の兵が僅か《わずか》に分かる暗さ、歩く足許は泥沼状となってきた。
随分時間が経過し三時頃と思える時間、行軍速度が落ちたとは言え、どうも生い茂った木をすかして上を見ると、同じ所をぐるぐる回っている感じがする。
四時半頃、辺りが少しづつ白み始めた頃、敵魚雷艇の特有のエンジンの響か聞こえてくるではないか、困惑と緊張と恐怖が一度に襲い掛かってきました。そして間もなく速射砲の発射音と破裂音が同時に響きあいました。とにかくこの湿地帯を抜け出さない事には何もできない、焦りながら彷徨《ほうこう=さまようこと》すること三時間余り、漸く干潮と道路を見つけホッとしたのは周りが明るくなり始めた頃でした。しかし、五百米位の処にある白い建物は、我々が昨夜の仮眠を結んだ家屋ではないか、疲れがドッと身を包みました。
湿地帯からは夜明けと共に脱出できて、周りも少しづつ明るくなって来ましたが、海岸の方では魚雷艇の標的となった船は搭載した砲弾に火が回り、爆発すると真鍮《しんちゅう》の薬莢《やっきょう=火薬を詰める容器》の方が舞い上がり、思い思いの方に飛散するので返って危い。
暫らくして舟艇移動の清水班長一行と道路でバッタリ出会う事になり、魚雷艇に砲撃される恐怖と田中一等兵が砲弾を両足に直撃され即死の状況を聞きました。
最後の力を振り絞って目的地のタボゴンに到着したのは、昭和十九年十二月三十一日の夕方になり、五日間に及ぶ100キロの大行軍は一応大休止となりました。
ここはセブ島の北端に近く、付近には船舶の光井部隊の根拠地もあり、すぐにでもレイテ島への輸送船が来る筈《はず》でありました。一夜明ければ昭和二十年一月一日、マニラ出港以来二か月を迂回《うかい=回り道》に迂回を重ねてしまったが、もう後一歩でレイテ島に足が届く処まで来ることができました。
二日も、三日も船は来ませんでした。
一月四日の朝は、中隊長の佐方中尉は隊長徽章《きしょう》を佩用《はいよう=体につける》した、正装軍衣で兵を整列させた正面に立ち、軍人勅諭《ぐんじんちょくゆ=1882年明治天皇から陸海軍人に与えられた勅諭》の全文を奉読し、一場の訓示をされた。今日は軍人勅諭下賜《かし=下したまわる》の記念日でありました。
一日おいた六日の朝は大変な事が起こりました。レイテ島で師団の指揮を執っている筈の師団長閣下《かっか》が、セブ島に現れました。私共は少しは訝り《いぶかり=あやしみ》ましたがまだこの時点ではレイテ島の戦況、状況は何一つ知らされてはいませんでした。
事態が決定的になったのは、十二日になって第一師団(玉)が師団長を先頭に、軍旗三を捧《ほう》じてセブ島に現れた事によってでありました。兵隊の話は断片的ではあっても、戦況の大筋は段々と知れ渡ってきました。それは想像も及ばない、苦戦、死闘、敗戦の驚くべき現実でありました。
私共もそれなりに弾丸の洗礼も受け、少しは戦火も交えた。しかし、私共がセブ島で安眠を貧《むさぼ》っていたこの間に、友軍は、戦友は激戦死闘を重ね、そして斃《たお》れて逝《い》ったのでありました。
こうして私共は、ついにレイテ島へ追及の夢は決定的に打ち砕かれ、この後は玉兵団長の指揮を受け、セブ島に留まることとなりました。
以上が私共のレイテ島へ進出出来なかった状況の総てであります。
レイテ島に日本軍は五個師団八万の部隊を展開して死闘を挑《いど》みました。その〇・五%(四百名)の小部隊の動向は到底勝敗には何らの影響がある筈もありませんが、それでも何としてでも戦線に辿《たど》り着きたいと、懸命の努力をし、しかもその努力が報われなかった小部隊もいた事を歴史の余白の片隅に一行でも止めたい。それが、あの南の島に無念の戦死を遂げた戦友への鎮魂慰霊ではないかと思い、拙文を綴《つづ》ってみました。
蛇足ながら玉兵団の指揮下に入った私共は、二十年八月二十八日イリハンの丘にて終戦。無事復員できました。 完
ダンパンタヤンに在る十日間過ぎの十二月五日になり、急濾《きゅうきょ》二隻の舟が回送される事になりました。定員の都合で三中隊は現地に残り、二中隊と一機関銃中隊が暗夜と共に出発、漆黒《しっこく》の夜の海を全速で疾走、一度は魚雷艇の曳光弾《えいこうだん=光を出して弾道がわかる爆弾》を見る戦慄《せんりつ》を味わいはしたが、払暁《ふつぎょう=明け方》五時にセブ港に無事入港できました。
上陸後間も無く、ノースアメリカン爆撃機十数機による空襲の洗礼を受けました。比島に上陸して最初に受けた本格空爆で竹藪《たけやぶ》を大風が吹き抜けるような轟音《ごうおん》は、恐怖心を煽る《あおる》には相当に効果がありました。初めての空襲を避けたのか、眺めたのか待避する場所も暇もなく、只《ただ》道路を避け家屋に押し入って、敵機の空襲の終るのを待っていました。こうして戦場の末端ながら、その本舞台に一歩一歩近づいて行く事を実感しました。
港から行軍数キロ、セブの兵帖《へいたん=車両や軍需品の補給や修理を担当する機関》に落着き朝食の給与を受けました。久し振りに食事らしい食事を頂きました。
徒手空拳《としゅくうけん=手に何も持たない》の兵が兵帖での徒食《としょく=何もせずに暮らす》は長くありません。数百でセブ陸軍病院の待避壕《たいひごう》を天山陣地に掘ると言う思いもよらない要請があり、新任務に当ることになりました。各所からの集合部隊のことで暑い国での土堀作業は空襲の合間を選んでの重労働でありました。
この防空壕堀作業から突然解放され、約二週間で再び兵帖に戻って来た我々に兵器弾薬と、ひと通りの新しい被服が支給されました。漸く軍人、軍隊らしくなった我々は服装も気分も新たに今度こそレイテ島へ行けると、緊張と共に準備を整えました。
この時、行き先を失った?、紙岡大隊と言う、紙岡大尉が指揮する部隊がセブ市に居て、この大尉が紙岡大隊と我々の指揮を執り、セブ島の北部を目指し最短距離の航行でレイテ島に渡る計画でした。
兵器は整った。被服も行き渡った。兵帖の前庭に整列した部隊を前に、出陣の訓辞を終えて紙岡大尉は号令を下した。「レイテ島に向って前進、前え進め……」
十二月とは言え、南国比島の炎熱の行軍はこうして二十七日に始まりました。
激戦の戦場を目指す部隊として、完全武装は基より携行できるものは、貪欲《どんよく》に極限まで掻《か》き集め鍋《なべ》包丁《ほうちょう》に俎板《まないた》まで、荷車に積み込み、行軍縦列は異例の長さに及ぶ事になりました。
第一泊はヤテでありました。ここはまだ友軍の地域で、暑ささえ我慢すれば、格別対空警戒もせず、時々見える現地人も敵意を現すこともなく、概ね順調に予定通りの行軍ができました。
しかし、順調な行軍もここまででありました。第二日目の行軍が始まり、ヤテの集落を外れ一キ口もすると、そこはゲリラの勢力地か、道路には色々な邪魔物から椰子の木などで道路封鎖、交通妨害が完璧にされているのでした。到底荷車の通行は不可能となりました。車の通行が不可能となれば、車の荷物は分散して兵士の肩にかかってきます。
第二泊目はダナオでした。ここは港町、ここで足と障害(熱帯潰瘍《かいよう》の患者と加藤二年兵)のある兵を清水班長が指揮して、舟艇《しゅうてい=小舟》移動することになった。
三日目は負傷兵を行軍より外した事もあり、順調に行軍できて第三泊のカトモンに到着し大休止《=長時間の休憩》となりました。
カトモンを出て四日目の行軍発起の直後のまだ払暁《ふつぎょう》前、漆黒の闇夜《やみよ》に尖兵《せんぺい=行軍の先端にあって警戒、捜索等担当する兵》が突然銃撃を受け「衛生兵前へ」と叫んでいる。見ると二中隊の石上初年兵が上膊《じょうはく=上腕》に貫通銃創《かんつうじゅうそう=銃弾が体を貫いた傷》、幸い骨折は無い模様、文字通り手探りで止血をしてみる。こちらも重機《=重機関銃、数名で扱う大型のもの》で応戦してゲリラを退散させ、警戒小休憩、夜明けを待つことになりました。
最終四泊はボルボン、就寝半ばの十時頃起こされ、行軍出発とはなったけれど、どこで間違ったか何を間違ったか道路が分からない。水が足を覆い膝《ひざ》に近く、周囲は真夜中の暗夜で前の兵が僅か《わずか》に分かる暗さ、歩く足許は泥沼状となってきた。
随分時間が経過し三時頃と思える時間、行軍速度が落ちたとは言え、どうも生い茂った木をすかして上を見ると、同じ所をぐるぐる回っている感じがする。
四時半頃、辺りが少しづつ白み始めた頃、敵魚雷艇の特有のエンジンの響か聞こえてくるではないか、困惑と緊張と恐怖が一度に襲い掛かってきました。そして間もなく速射砲の発射音と破裂音が同時に響きあいました。とにかくこの湿地帯を抜け出さない事には何もできない、焦りながら彷徨《ほうこう=さまようこと》すること三時間余り、漸く干潮と道路を見つけホッとしたのは周りが明るくなり始めた頃でした。しかし、五百米位の処にある白い建物は、我々が昨夜の仮眠を結んだ家屋ではないか、疲れがドッと身を包みました。
湿地帯からは夜明けと共に脱出できて、周りも少しづつ明るくなって来ましたが、海岸の方では魚雷艇の標的となった船は搭載した砲弾に火が回り、爆発すると真鍮《しんちゅう》の薬莢《やっきょう=火薬を詰める容器》の方が舞い上がり、思い思いの方に飛散するので返って危い。
暫らくして舟艇移動の清水班長一行と道路でバッタリ出会う事になり、魚雷艇に砲撃される恐怖と田中一等兵が砲弾を両足に直撃され即死の状況を聞きました。
最後の力を振り絞って目的地のタボゴンに到着したのは、昭和十九年十二月三十一日の夕方になり、五日間に及ぶ100キロの大行軍は一応大休止となりました。
ここはセブ島の北端に近く、付近には船舶の光井部隊の根拠地もあり、すぐにでもレイテ島への輸送船が来る筈《はず》でありました。一夜明ければ昭和二十年一月一日、マニラ出港以来二か月を迂回《うかい=回り道》に迂回を重ねてしまったが、もう後一歩でレイテ島に足が届く処まで来ることができました。
二日も、三日も船は来ませんでした。
一月四日の朝は、中隊長の佐方中尉は隊長徽章《きしょう》を佩用《はいよう=体につける》した、正装軍衣で兵を整列させた正面に立ち、軍人勅諭《ぐんじんちょくゆ=1882年明治天皇から陸海軍人に与えられた勅諭》の全文を奉読し、一場の訓示をされた。今日は軍人勅諭下賜《かし=下したまわる》の記念日でありました。
一日おいた六日の朝は大変な事が起こりました。レイテ島で師団の指揮を執っている筈の師団長閣下《かっか》が、セブ島に現れました。私共は少しは訝り《いぶかり=あやしみ》ましたがまだこの時点ではレイテ島の戦況、状況は何一つ知らされてはいませんでした。
事態が決定的になったのは、十二日になって第一師団(玉)が師団長を先頭に、軍旗三を捧《ほう》じてセブ島に現れた事によってでありました。兵隊の話は断片的ではあっても、戦況の大筋は段々と知れ渡ってきました。それは想像も及ばない、苦戦、死闘、敗戦の驚くべき現実でありました。
私共もそれなりに弾丸の洗礼も受け、少しは戦火も交えた。しかし、私共がセブ島で安眠を貧《むさぼ》っていたこの間に、友軍は、戦友は激戦死闘を重ね、そして斃《たお》れて逝《い》ったのでありました。
こうして私共は、ついにレイテ島へ追及の夢は決定的に打ち砕かれ、この後は玉兵団長の指揮を受け、セブ島に留まることとなりました。
以上が私共のレイテ島へ進出出来なかった状況の総てであります。
レイテ島に日本軍は五個師団八万の部隊を展開して死闘を挑《いど》みました。その〇・五%(四百名)の小部隊の動向は到底勝敗には何らの影響がある筈もありませんが、それでも何としてでも戦線に辿《たど》り着きたいと、懸命の努力をし、しかもその努力が報われなかった小部隊もいた事を歴史の余白の片隅に一行でも止めたい。それが、あの南の島に無念の戦死を遂げた戦友への鎮魂慰霊ではないかと思い、拙文を綴《つづ》ってみました。
蛇足ながら玉兵団の指揮下に入った私共は、二十年八月二十八日イリハンの丘にて終戦。無事復員できました。 完