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レイテ島戦不参の記 (その3) 森田勝己

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通常 レイテ島戦不参の記 (その3) 森田勝己

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/6/20 9:11
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 頑張れば出来ない事はない。座礁一週間した十六日には、まず関門丸を海上に浮かべる事に成功、久し振りにエンジンの響も高く、関門丸が海の中へ動いた時は期せずして「万歳」の声が沸き上がったものでした。
 こうなれば自信がつき、自信は確信になり、併行作業を進めていた万吉丸は十七日に、神力丸は十九日に、最後の大栄丸は二十日に海上に浮かべる事に成功しました。勢吉丸の大隊長を送り「追求せよ」と言われた時は、とてもとてもと思った事が遂に実現成功したのでありました。
 全四隻の発掘が出来た。さあ急がなくてはならない。マスバテ島に足止めされたのは十二日間、二十一日の夕方を期しマスバテを後にレイテ島へ向けての航行が再開されました。
 二十四日の朝はマスバテ島を少し離れたジントトロ島と言うケシ粒程の小島の入江を見つけ停泊となりました。船内で早めの昼食が済み、四・五名の使役《=雑役》兵が偽装用の榔子《やし?》の葉を採るべく舷側《げんそく=ふなべり》で準備を始めた頃、突然超低空で島の反対側からコンソリ爆撃機が襲いかかり、爆弾投下と共に機銃射撃をして過ぎ去りました。二中隊の一人が即死一人が負傷、我が機関銃中隊でも、加藤二年兵が臀部《でんぶ》に負傷、我が中隊としては比島上陸以来の負傷第一号であった。幸い反復攻撃がなく事態は間もなく鎮静しましたが、マニラ空襲以上に身辺近くに銃弾は飛んで来る事を思い知らされた一瞬でありました。
 薄暮までに戦死した二中隊の戦友を全員で埋葬して、夜を待って航行が始まり、文字通り異郷の孤島ジントトロと言う名も知らない島に、ただ1人眠るかと将《まさ》に後髪を引かれる思いで、島を後にしました。
 明ければ二十五日、四隻の船団はセブ島の北端、メデリン島の「ダンパンタヤン」と言う小漁港らしい処に辿《たど》り着きました。ここは遠浅で接岸も出来ず、最小の遮蔽《しゃへい=覆い隠す》も出来ない今思えば危険地帯ではありました。
 この様な環境、状況から全員上陸となりました。上陸してみると友軍の警備隊が駐存していた。そして絶えず耳に遠雷のように響くのは、レイテ島の砲爆撃の音である事、ここよりレイテ島西海岸までは、船で七・八時間で到着できる事、レイテ島では炊飯ができないから、ここで握り飯を作って行けとの事、聞く事は皆驚く事ばかりでありました。
 それではと、改めて船から米を運び、警備隊の炊飯所を借用して大車輪の握り飯作り作業に全員で取り組みました。
 心ははやり、明日はいよいよレイテ島かと緊張が身を包む午後になった頃、遥か上空を米軍機が一機飛来し旋回して、レイテ島方面へ飛び去って行った。
 警備隊の兵は沖に遮蔽せず停泊している船は発見され襲撃は必至、必ず来ると忠告された。関門丸には昨日ジントトロ島で負傷した加藤二年兵が1人で居残っている。
 早速救出しなくてはと、急遽《きゅうきょ》飯田上等兵が小舟を操《あやつ》って出かけた。事態は急を要する、力漕《りきそう》また力漕、加藤二年兵を伝馬船《てんません=はしけ》に移し、海岸に向っているのは分かっていても、気があせる程伝馬船は速くは走れないものでありました。
 果たせるかな、その伝馬船が波打際に到着すると同時に上空に十七機のグラマンが現れた。そして四機づつ四隊に分かれて四隻の船に銃弾の雨を撃ち続けた。無抵抗無防備の船は間もなく炎に包まれ、更に船底に積み込まれた弾薬に火が届くのは時間の問題で、四隻の船は次々と大音響と共に大爆発を起こし、太陽の明るさにも劣らぬ赤黄い閃光《せんこう=きらめく光》は到底忘れる事のできない光景でありました。
 私は伝馬船の患者の介護のため、海岸に向ったのであったが潮流により二〇〇米くらい離れた処で収容したため、飯田上等兵他僅か《わずか》数名でこの銃撃から爆発を眺める破目になりました。
 三・四十分の銃撃で四隻の船を焼き尽くした攻撃隊は地上から何の反響も受ける事なく、悠々と戦果を後に再び編隊を整え東の方レイテ島の空へ消えて去りました。
 マニラを出港して三週間、マスバテ島では十日かけて四隻の船を掘り出す奇跡もあった。
 いよいよ明日こそ遅れたとは言え、本隊の戦っているレイテ島へと思っていた願いも希望もこの瞬間に打ち砕かれて仕舞いました。
 この十一月二十五日の時点では我々にはレイテ島を含め他の戦線の状況は何も情報もなく、レイテ島でも日本軍の事、泉兵団の事、きっと我が方に有利に展開し、できれば戦勝の祝宴でも……くらいの気持ちもあったのは事実でありました。
 しかし、この二十五日に於けるレイテ島の現実は、リモン峠の五七連隊(玉)は強力な米軍の圧力により必死の抵抗も破断点に近く、南部戦線では我が十三連隊第三大隊が、ダムラン、アルブエラで米軍の重圧に耐え懸命の死闘を繰広げている、将にレイテ島決戦の瞬間でありました。
 このレイテ島の重大な展開を知らない我が遭難部隊は、当面の食料こそ握り飯であると言うものの明日以後の食糧は何の目当てもない、それより兵器弾薬は総て船と共に海底に消えた。
 勿論《もちろん》着替えさえ誰も無くなって仕舞ったのでありました。
 取り敢えず、この状況について警備隊を通じ然るべき方面に連絡通知をされたと聞きました。

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