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レイテ島戦不参の記 (その5) 森田勝己

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通常 レイテ島戦不参の記 (その5) 森田勝己

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/6/22 7:40
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
敗軍の兵、将を語る

 森田 克己

 昭和二十年一月六日、ここ比島のセブ島東海岸の北端に近いタバコンの岸辺には、レイテ島への船を待って、私達第二十六師団独立歩兵十三連隊(泉五三一六)第一大隊、第二中隊、第一機関銃中隊の兵士約一五〇名と紙岡大隊の約一〇〇名の計二五〇名が、その時のレイテ島の戦況に就いて、少しの情報も無いまま、昨十九年十一月三日、マニラ出発時の、レイテ島進出の命令を遂行するために、セブ市より回航される船を既に五日に亘《わた》って待っていました。

 部隊は概ね分隊単位くらいで空家になった現地人のニッパ小屋《ニッパやしの葉で屋根をふいた小屋》に、雨露を凌《しの》いで仮泊を続けていました。
 この朝早く辺りを憚る《はばかる》ような声で「衛生兵はいないか」「衛生兵が居たら来て貰《もら》いたい」と言う声が聞こえてきた。
 声の内容から考えると、同行の部隊の兵とは考えられない。眠気眼をこすり直してよく聴くと衛生兵を探していることは確かのようである。
 私のすぐ横に着のみ着のままで寝ている、先任の久保田衛生上等兵に伺うと「森田行って診て来い」と言う。
 取り敢えず細帯嚢《さいたいのう=包帯を入れた袋》のみを提げてニッパ小屋の外へ出てみると見知らぬ日本兵が立っており、「此方《こっち》へ来てくれ」と言う。
 百米か二百米かは記憶にないが、余り遠くない処のニッパ小屋に案内された。小さな部屋には三人の老齢の軍人、いや上級の将校、よく見ると一人は中将の階級章を胸に付けているではないか。こんな偉い将校への敬礼の仕方も分からないが、凭《もた》れるような姿勢の閣下《かっか=高位の人への敬称》、仰向きに寝ている大佐殿、傍らの軍医殿(階級は大佐と見たが、正確には想い出せない)に正座して頭を下げて敬礼とした。

 とにかく軍医殿に伺いを立てた。「閣下は左上膊《じょうはく=上腕》に銃創《じゅうそう=銃弾による傷》だ」「参謀長は右上膊に銃創」「私は何も持っていない、見ているので処置してやってくれ」とのこと……。
 見れば閣下は二発の貫通銃創《かんつうじゅうそう=弾が体を通り抜けた傷》とりあえず兵隊と同じ治療処置をし、緊迫細帯をする。
 続いて参謀長と言われた大佐殿は、右上膊の最上部擦過創《さっかそう=かすり傷》、傷口は七~八センチに及ぶ、皮膚はなく筋肉が露出している。リバ・カーゼを厚く重ね、固定帯をして一応の処置を終了、軍医に破傷風予防注射を伺ったら「是非やってくれ、よく持っていた」と褒《ほ》められた。

 施術の間、大佐殿は顔はしかめられたが痛いとも、苦しいとも言われず、我慢して治療を受けられ、私も安心して治療出来たが、閣下は、一ツーツに「痛い」「痛い」と苦痛を訴えられたのには閉口した。
 治療が終れば用はない、一礼して室を辞したが、室外に兵が立っている、兵の足許を見れば日本の内地の百円紙幣《しへい》が十数枚海水に濡れたので乾かしていた。
 中将閣下ともなれば、野戦に出ても、大したお金を携行するものだと、変な所で感心して指揮班のニッパ小屋に帰った。

 さて、指揮班に帰隊し既に全員起床の後であったが、一連の治療の状況を久保田上等兵に報告をしたのであるが、この状況は信用してもらえず、「陽が登ってからまで夢を見ているのか」と笑われた。
 中将閣下、高級将校の負傷、それを見習い衛生兵が治療したとは、とても二年兵のベテラン衛生上等兵殿には仲々納得して貰えなかった。

 しかし、数時間して昼食時間の頃には、第一〇二師団(抜)の師団長がレイテ島から転進《てんしん=退却》してセブ島に到着した事、師団長と参謀長が負傷した事は付近の各隊に知れ渡ったものでした。
 この直後、閣下は護衛の部隊は余りに小部隊であるので、我が中隊は途中まで掩護《えんご》護衛してセブ市へ向かわれたのであった。

 更に数日して今度は第一師団が軍旗三旒《りゅう》を奉じてレイテ島より転進、セブ島に到着した。
 我々はこの時点に至って初めてレイテ島の戦闘の真相を知り結果は大苦戦、大敗戦であった事を知らされたのであった。
 思えば二週間前の昨十九年十二月二十七日、セブ市を行軍発起、遅れ走せとは言え主戦場のレイテ島に辿《たど》り着かんものと、五日間に百キロのセブ島東海岸を難行軍は何であったのか。
 戦後目にした戦記の示す物の中に、第十四方面軍は十二月二十二日に在レイテ島第三十五軍に自活自戦の指示と、とれる電報を発しているとあった。

 話題を本筋に戻そう。警備担当装備の兵団を率いて最激戦の戦線に赴き、軽装備、寡兵《かへい=少人数の兵》をもって最新鋭、優秀装備の大軍に立ち向い、最悪の戦況の責任を一身に背負った老将軍には筆舌に及ばない苦悩があった筈である。この師団長のセブ島に至る一連の動向については、色々な文献、戦記に記述され、なかには否定的、不名誉な表現も見られる。勿論私は敗戦の兵……何ぞ将を語らんや。

 この閣下は戦争末期には、このレイテ島早期転進を問われ、戦後には不覚にも戦犯の濡衣《ぬれぎぬ》を押し付けられ、祖国の土を踏むことなく国に殉《じゅん》ぜられたと聞く。
 しかし、黄色の将官旗を野戦に立て数多《あまた》の部隊を指揮した親補職の閣下を如何に忽々《そうそう=あわただしいさま》の間とは言え、一衛生一等兵が細帯を施したとは、白日夢にも思える一場面であった。

 我々の軍隊は皇軍と呼ばれ、更に光輝あるとか、勇敢、無敵不敗とあらゆる美辞、賛辞が冠せられた。明治建軍以来七十余年、栄光と名誉で綴《つづ》られた軍隊の歴史には、地方市井の一市民や散兵線の一兵らの覗い知らない処に、断片的な我々の想像を絶する、凡そ考えられない真実が気が付かない処々にひっそりと縫い込まれていた事も又事実であると知った。私は偶然にもその影の一場面の立会人となった。           完

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