「民族大移動・大連引揚者の記憶」 2 (引力)
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「民族大移動・大連引揚者の記憶」 (引力) (編集者, 2007/7/27 8:07)
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編集者
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体験で知った世相(大連《中国の港湾都市》と新京《満州の首都・現在の長春》にて)95/06/11 23:10
(1)
今春の母の葬儀の時、その場に今や私しか面識のある人はいないと思われる一人の老婦人がいた。同じ外地引揚げ者で母とは一緒に温泉旅行に行ったりした仲だ。最初に彼女を見たのは外地の自宅で、父母に涙を流して何度も礼を言う姿だった。
引揚げ後我が家は私の中学時代まで借間で一部屋しか無かったから訪ねて来た彼女と父母との話は全て聞いた。それで記憶が補強された訳である。
彼女が若い教員で新京からの旅の列車の中。刑事が乗客の一人一人を調べに廻って来たそうだ。文学少女だった彼女は数冊の本を旅行に携帯していた。持物を調べた刑事は彼女を次の駅で降ろし連行した。「アカ《注1》」と思われたらしい。
知り合いを通じて助けを求められた父の動きで釈放されたそうだ。
彼女との付き合いがここから始まった。現在の警察と違い、主義者や戦争に断固として反対する人達を拷問《ごうもん》し殺しながら、仮谷さん《注2》を拉致し死なせた犯人のように「お国の為にと思い懸命になって取調べてたら死んじゃった」と言い、殺したとは言わない時代だ。彼女の留置場にいた時の心境は松本サリン事件で最初に疑われた河野さん《注3》のような心境だったのだろう。だからこそ父は勿論母の葬儀に来たのだ。
(2)
ある日玄関に料理店の満人が来てなにやら中国語で喋《しゃべ》ると、持って来た箱から中華料理が一杯盛られた皿を次々に取り出し始めた。私は奥に向い母を大声で呼んだ。休日だったのだろう。父も出て来てにこにこしながら、礼を言ってた。
その時初めて当地の本物のギョーザを食べた記憶が鮮やかに残っている。
ある時、私は近所の中華料理屋(今の日本で言えばの呼称だが)の子達と遊んでた。
満人の子と遊んじゃいけないとなってたのに、どういう訳か珍しく。
そのうち日本人のかなり年長の大きな子が来た。なりゆきはさっぱり知らないが日本人の子が満人の子を殴りだした。体も年も差があるから一方的に満人の子は殴られていた。その内、満人の子の父親が出てきて止め、日本人の子に中国語で強く抗議らしい事を言った。すると通り掛かりの日本人が駆けつけ、突き飛ばしたうえに何処かへ連れて行った。その夜、満人の子と母親が日本語の喋れる人を連れて家にやって来て、私の父に泣きながらしきりになにやら訴えていた。
私は柱の蔭からその様子を恐々《こわごわ》見ていた。私の父が動いたせいか満人の子の父は殴られ顔を腫《は》らしてたが無事帰って来る事ができ、そのお礼が中華料理だったのだ。
人間は誰しも自分が可愛い。上記の二話も父が人を助け感謝された話だ。
侵略と弾圧と殺人を行った事実や加害の思い出をわざわざ書きたくないだろう。
血ぬられた過去を持つ占領の地「大連」を私は「ふるさと」と呼べない。
10年程前まで「君のふるさとは?」に対し「私にふるさとはない」と答えてた。
八才年上の上司から「ヤクザ屋さんか木枯らし紋次郎《注4》を気取ってる積もりか! 「キザな奴は客先から嫌われるぞ!」と言われた。その時の私は腹の中で「精神年令はお前より上なんだぞ! 分かんねえだろうなぁ てめえには」と答えていた。
今は素直に「生まれは大連です」と答える。しかし「ふるさと」とは言わない。
国会決議の「侵略」と「反省」の如く言葉にまだこだわっている。
戦後世代の人達に戦争責任はないのだろうか?
国内にいる時は「ない」で済むでしょう。一歩外に出た時はどうでしょう。
民族の血を相続した日本人として「ない」では済まないと思います。
英語を達者に喋りインターネットを操って見せても、過去の歴史に対する認識がなければ外国人と深い交流に欠ける場合が予想されます。
「50年前に私は生まれてなかった」では済まされないのです。
注1 アカ=共産党の旗の色が赤色であるところから共産主義者の俗称
注2 仮谷さん=目黒公証役場事務長の仮谷清志さん、オウム真理教に拉致され、教団施設で死亡させられた。
注3 河野さん=1994年に長野県松本市で発生した オウム真理教による「松本サリン事件」で容疑者扱いされた、松本サリン事件の被害者。
注4 木枯らし紋次郎=作家・笹沢左保の作品、テレビ放映された人気番組の主人公
(1)
今春の母の葬儀の時、その場に今や私しか面識のある人はいないと思われる一人の老婦人がいた。同じ外地引揚げ者で母とは一緒に温泉旅行に行ったりした仲だ。最初に彼女を見たのは外地の自宅で、父母に涙を流して何度も礼を言う姿だった。
引揚げ後我が家は私の中学時代まで借間で一部屋しか無かったから訪ねて来た彼女と父母との話は全て聞いた。それで記憶が補強された訳である。
彼女が若い教員で新京からの旅の列車の中。刑事が乗客の一人一人を調べに廻って来たそうだ。文学少女だった彼女は数冊の本を旅行に携帯していた。持物を調べた刑事は彼女を次の駅で降ろし連行した。「アカ《注1》」と思われたらしい。
知り合いを通じて助けを求められた父の動きで釈放されたそうだ。
彼女との付き合いがここから始まった。現在の警察と違い、主義者や戦争に断固として反対する人達を拷問《ごうもん》し殺しながら、仮谷さん《注2》を拉致し死なせた犯人のように「お国の為にと思い懸命になって取調べてたら死んじゃった」と言い、殺したとは言わない時代だ。彼女の留置場にいた時の心境は松本サリン事件で最初に疑われた河野さん《注3》のような心境だったのだろう。だからこそ父は勿論母の葬儀に来たのだ。
(2)
ある日玄関に料理店の満人が来てなにやら中国語で喋《しゃべ》ると、持って来た箱から中華料理が一杯盛られた皿を次々に取り出し始めた。私は奥に向い母を大声で呼んだ。休日だったのだろう。父も出て来てにこにこしながら、礼を言ってた。
その時初めて当地の本物のギョーザを食べた記憶が鮮やかに残っている。
ある時、私は近所の中華料理屋(今の日本で言えばの呼称だが)の子達と遊んでた。
満人の子と遊んじゃいけないとなってたのに、どういう訳か珍しく。
そのうち日本人のかなり年長の大きな子が来た。なりゆきはさっぱり知らないが日本人の子が満人の子を殴りだした。体も年も差があるから一方的に満人の子は殴られていた。その内、満人の子の父親が出てきて止め、日本人の子に中国語で強く抗議らしい事を言った。すると通り掛かりの日本人が駆けつけ、突き飛ばしたうえに何処かへ連れて行った。その夜、満人の子と母親が日本語の喋れる人を連れて家にやって来て、私の父に泣きながらしきりになにやら訴えていた。
私は柱の蔭からその様子を恐々《こわごわ》見ていた。私の父が動いたせいか満人の子の父は殴られ顔を腫《は》らしてたが無事帰って来る事ができ、そのお礼が中華料理だったのだ。
人間は誰しも自分が可愛い。上記の二話も父が人を助け感謝された話だ。
侵略と弾圧と殺人を行った事実や加害の思い出をわざわざ書きたくないだろう。
血ぬられた過去を持つ占領の地「大連」を私は「ふるさと」と呼べない。
10年程前まで「君のふるさとは?」に対し「私にふるさとはない」と答えてた。
八才年上の上司から「ヤクザ屋さんか木枯らし紋次郎《注4》を気取ってる積もりか! 「キザな奴は客先から嫌われるぞ!」と言われた。その時の私は腹の中で「精神年令はお前より上なんだぞ! 分かんねえだろうなぁ てめえには」と答えていた。
今は素直に「生まれは大連です」と答える。しかし「ふるさと」とは言わない。
国会決議の「侵略」と「反省」の如く言葉にまだこだわっている。
戦後世代の人達に戦争責任はないのだろうか?
国内にいる時は「ない」で済むでしょう。一歩外に出た時はどうでしょう。
民族の血を相続した日本人として「ない」では済まないと思います。
英語を達者に喋りインターネットを操って見せても、過去の歴史に対する認識がなければ外国人と深い交流に欠ける場合が予想されます。
「50年前に私は生まれてなかった」では済まされないのです。
注1 アカ=共産党の旗の色が赤色であるところから共産主義者の俗称
注2 仮谷さん=目黒公証役場事務長の仮谷清志さん、オウム真理教に拉致され、教団施設で死亡させられた。
注3 河野さん=1994年に長野県松本市で発生した オウム真理教による「松本サリン事件」で容疑者扱いされた、松本サリン事件の被害者。
注4 木枯らし紋次郎=作家・笹沢左保の作品、テレビ放映された人気番組の主人公
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編集者 (代理投稿)