「民族大移動・大連引揚者の記憶」 5 (引力)
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「民族大移動・大連引揚者の記憶」 (引力) (編集者, 2007/7/27 8:07)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
平壌経由帰国の体験 一例 95/07/08 22:47
避難の案内役である男子職員が たしか5-6名の他は 老人と女子供ばかり最終的に1200名程が、旧日本人中学校の二階観客席付きの体育館のような所に収容された。襲撃や略奪がない代わり、病気と冬将軍《注1》により我々はタップリと復讐された。
持ち金が底をつき食事は悪くなり、遂には高梁《コーリャン=中国北部で栽培されるモロコシの一種》のスープ一杯がその日の食事となる。
発疹チフス《=シラミが媒介する感染症》をはじめ疫病が流行する。零下20度の厳寒に耐える暖は乏しい。
皆が暇があれば虱《しらみ》をつぶしていた。栄養失調の上に血まで吸われたらたまらぬと。
多い日は数拾人が死ぬ。毛布一枚が仕切りの隣人に 我が子を頼み 死んでいく母を目の前にして 六年生のガキ大将が泣き叫ぶ。 地獄絵図の毎日をなんとか生きのびて一冬を越した。厳寒と疫病の嵐が過ぎると大人達は争って職を求め、雇い主が同情し、くれる食べ物で飢えをしのぐ。少しずつ明るさが見えてきた。
塀の中の広場で遊びだした私が大人から聞いた話では、1200名が700名死んで500名になったとの事だった。我が家族も 母の養父母と弟が死んで半減した。
一人ぼっちになった六年生のガキ大将は石のように喋《しゃべ》らず片隅から 我々が遊ぶのを見ていた。新しいガキ大将がたまりかねて皆を連れて彼の側に行き、一緒に遊ぼうと誘った。次第に彼も明るくなり大人達がその変貌《へんぼう=姿や様子などがすっかり変わること》を話題にするようになる。
平壌からの脱出はたしか六月頃だった。大人達全員が貯めた金を 再び出し合って道々で交渉しながら食を得、歩き続け、夜は河原や広場でところ構わず寝ながら、一ヶ月かかって38度線《注2》にたどり着いた。釜山《プサン》経由で佐世保着の帰国であった。
北満にいた満蒙開拓団《まんもうかいたくだん=注3》や少年義勇軍《注4》に比べれば、青島や新京などの大陸主要都市にいた日本人は格段に恵まれていた。ドイツやロシアが残したヨーロッパ風の良い住まいを利用し、内地に比べ二倍の給与報酬を得ていた人達も多い。日本人ばかりが集まった地区に住み、終戦間際まで物資が豊富で、軍需工場近く以外は空襲の被害も殆《ほとん》どなかった。貧乏で教養のない日本人は満人に対して しめし がつかぬ。
満人に「なぁ~んだ」と思われちゃ日本人の占領支配にも影響するから、そんな日本人は内地に送り帰されるという話もあり、彼らのエリート意識をくすぐった。だから彼らの話は古き良き時代のなつかしい思い出と終戦時の苦労話が交互する。
それは東大生の同窓会での話のように どこか誇らしげだ。
民族大移動を二度体験した人達 95/07/14 11:49
外地帰国組である私の関心事から 数字資料をひとつ。
終戦時に外地にいた人達の統計は どの本も「正確には判らないが」と断っている。
それを前提にして4-5冊の書物から中央値、概数を 取り出すと下記になる。
(単位は万人) 軍 人 民間人 合 計
朝鮮と満州、関東州、樺太 110 190 300
中国(満、関州を除く) 115 50 165
南方(台湾、フィリピン タイ ビルマ 125 60 185
マレー 仏印 蘭印 他諸島)
合 計 350万人 300万人 650万人
荒っぽい地域三分類を最初にお詫びするとして、650万を超える日本人が徴兵や命令、新天地を夢見ての志願、嫌々志願など理由は様々だが、国策に呼応して海外へ渡り、又帰って来た。 民族大移動と言える数であり、二度大移動した人が多い。
終戦時700万の軍人とされてるから、その50%に相当する350万の軍人が海外にいたという事実は戦勝国に多い祖国防衛戦争ではなかった事を物語る。
その又 三分のニの225万、台湾を加えると70%が朝鮮と中国に終戦時にいた事は本来の「主戦場」が中国であり、ノモンハン事件以来 トンさんが紹介された関特演に連なる対ソ連を睨んだ満州であった。西欧人との戦争は昭和16年から4年間、ソ連とは7日間、中国とは右門さんが生れた年の満州事変以来15年。最近は15年戦争とか日中戦争と言い、太平洋戦争と言わずアジア・太平洋戦争と言う。
朝鮮や満州への進出まで遡ると50年になる。「歴史とは戦争史だ」は誇張でない。
650万人の帰国は日本が自分でやるのが当然だ。無難な言い方をする人は 帰国は「困難を極めた」と表現する。沈められて船舶もなく、油もなく、船を操る人達の多くが戦死していない。
黒字大国の今と違って金もない。国内は飢えている。
連合国も お国も「軍人を最優先で帰国させるべきだ。何故なら国家が命令して行かせた人達であり、命を的にして戦った最大の犠牲者だから」と配慮し、口には出さないが民間人は志願組、金儲け組も混じっていると言わぬばかりに聞こえる。
それに憤慨した人達が 俺達も連行同様だ、嫌々志願だ、志願でも お国の為の貢献は同じだと どこかの会議室並みの揉めごともあったが「 苦労した日本人同士じゃないか 喧嘩するのは よそう」と帰国の順番について皆が言いたい事を我慢した。
終戦時生残った350万の軍人の内、85万人がソ連の国際法違反でシベリヤやモンゴル、カザフスタンなどに抑留され約7万人が亡くなり、帰国はS21年からS25年迄かかり、長期受刑者はS31年の日ソ共同宣言まで帰国出来なかった。
満州に居た者として、未だ語る人が現れないので若輩者で僭越《せんえつ》だが一言紹介 民間人300万人の内、少年義勇軍を含む満州開拓団は約27万人だった。
その内 殺されたり、集団自決、病死、不明者が約10万名とされ、死傷率37%軍隊なら全滅に近い。せめて異国で生きていて呉れ と中国人に預けたり売ったりした子供。親子供を助ける為に満州人と結婚した女性など中国残留孤児問題は若い人でも知っている。その人達にとっては8月15日は戦争の始まりだった。
注1 冬将軍= モスクワを攻めたナポレオンが厳寒に勝てず敗走したことから
寒気の厳しさを擬人化していう語。
注2 38度線=韓国と北朝鮮の軍事境界線である。北緯38度付近に位置することからこう呼ばれている。また韓国と北朝鮮の事実上の国境でもある
注3 満蒙開拓団=国策によって推進された、中国大陸の旧満州、内蒙古、華北に入植した日本人の移民。
注4 少年義勇軍=戦局の悪化による兵力動員で1942年以降は成人男子の入植が困難となり、15歳?18歳の少年男子で組織された
避難の案内役である男子職員が たしか5-6名の他は 老人と女子供ばかり最終的に1200名程が、旧日本人中学校の二階観客席付きの体育館のような所に収容された。襲撃や略奪がない代わり、病気と冬将軍《注1》により我々はタップリと復讐された。
持ち金が底をつき食事は悪くなり、遂には高梁《コーリャン=中国北部で栽培されるモロコシの一種》のスープ一杯がその日の食事となる。
発疹チフス《=シラミが媒介する感染症》をはじめ疫病が流行する。零下20度の厳寒に耐える暖は乏しい。
皆が暇があれば虱《しらみ》をつぶしていた。栄養失調の上に血まで吸われたらたまらぬと。
多い日は数拾人が死ぬ。毛布一枚が仕切りの隣人に 我が子を頼み 死んでいく母を目の前にして 六年生のガキ大将が泣き叫ぶ。 地獄絵図の毎日をなんとか生きのびて一冬を越した。厳寒と疫病の嵐が過ぎると大人達は争って職を求め、雇い主が同情し、くれる食べ物で飢えをしのぐ。少しずつ明るさが見えてきた。
塀の中の広場で遊びだした私が大人から聞いた話では、1200名が700名死んで500名になったとの事だった。我が家族も 母の養父母と弟が死んで半減した。
一人ぼっちになった六年生のガキ大将は石のように喋《しゃべ》らず片隅から 我々が遊ぶのを見ていた。新しいガキ大将がたまりかねて皆を連れて彼の側に行き、一緒に遊ぼうと誘った。次第に彼も明るくなり大人達がその変貌《へんぼう=姿や様子などがすっかり変わること》を話題にするようになる。
平壌からの脱出はたしか六月頃だった。大人達全員が貯めた金を 再び出し合って道々で交渉しながら食を得、歩き続け、夜は河原や広場でところ構わず寝ながら、一ヶ月かかって38度線《注2》にたどり着いた。釜山《プサン》経由で佐世保着の帰国であった。
北満にいた満蒙開拓団《まんもうかいたくだん=注3》や少年義勇軍《注4》に比べれば、青島や新京などの大陸主要都市にいた日本人は格段に恵まれていた。ドイツやロシアが残したヨーロッパ風の良い住まいを利用し、内地に比べ二倍の給与報酬を得ていた人達も多い。日本人ばかりが集まった地区に住み、終戦間際まで物資が豊富で、軍需工場近く以外は空襲の被害も殆《ほとん》どなかった。貧乏で教養のない日本人は満人に対して しめし がつかぬ。
満人に「なぁ~んだ」と思われちゃ日本人の占領支配にも影響するから、そんな日本人は内地に送り帰されるという話もあり、彼らのエリート意識をくすぐった。だから彼らの話は古き良き時代のなつかしい思い出と終戦時の苦労話が交互する。
それは東大生の同窓会での話のように どこか誇らしげだ。
民族大移動を二度体験した人達 95/07/14 11:49
外地帰国組である私の関心事から 数字資料をひとつ。
終戦時に外地にいた人達の統計は どの本も「正確には判らないが」と断っている。
それを前提にして4-5冊の書物から中央値、概数を 取り出すと下記になる。
(単位は万人) 軍 人 民間人 合 計
朝鮮と満州、関東州、樺太 110 190 300
中国(満、関州を除く) 115 50 165
南方(台湾、フィリピン タイ ビルマ 125 60 185
マレー 仏印 蘭印 他諸島)
合 計 350万人 300万人 650万人
荒っぽい地域三分類を最初にお詫びするとして、650万を超える日本人が徴兵や命令、新天地を夢見ての志願、嫌々志願など理由は様々だが、国策に呼応して海外へ渡り、又帰って来た。 民族大移動と言える数であり、二度大移動した人が多い。
終戦時700万の軍人とされてるから、その50%に相当する350万の軍人が海外にいたという事実は戦勝国に多い祖国防衛戦争ではなかった事を物語る。
その又 三分のニの225万、台湾を加えると70%が朝鮮と中国に終戦時にいた事は本来の「主戦場」が中国であり、ノモンハン事件以来 トンさんが紹介された関特演に連なる対ソ連を睨んだ満州であった。西欧人との戦争は昭和16年から4年間、ソ連とは7日間、中国とは右門さんが生れた年の満州事変以来15年。最近は15年戦争とか日中戦争と言い、太平洋戦争と言わずアジア・太平洋戦争と言う。
朝鮮や満州への進出まで遡ると50年になる。「歴史とは戦争史だ」は誇張でない。
650万人の帰国は日本が自分でやるのが当然だ。無難な言い方をする人は 帰国は「困難を極めた」と表現する。沈められて船舶もなく、油もなく、船を操る人達の多くが戦死していない。
黒字大国の今と違って金もない。国内は飢えている。
連合国も お国も「軍人を最優先で帰国させるべきだ。何故なら国家が命令して行かせた人達であり、命を的にして戦った最大の犠牲者だから」と配慮し、口には出さないが民間人は志願組、金儲け組も混じっていると言わぬばかりに聞こえる。
それに憤慨した人達が 俺達も連行同様だ、嫌々志願だ、志願でも お国の為の貢献は同じだと どこかの会議室並みの揉めごともあったが「 苦労した日本人同士じゃないか 喧嘩するのは よそう」と帰国の順番について皆が言いたい事を我慢した。
終戦時生残った350万の軍人の内、85万人がソ連の国際法違反でシベリヤやモンゴル、カザフスタンなどに抑留され約7万人が亡くなり、帰国はS21年からS25年迄かかり、長期受刑者はS31年の日ソ共同宣言まで帰国出来なかった。
満州に居た者として、未だ語る人が現れないので若輩者で僭越《せんえつ》だが一言紹介 民間人300万人の内、少年義勇軍を含む満州開拓団は約27万人だった。
その内 殺されたり、集団自決、病死、不明者が約10万名とされ、死傷率37%軍隊なら全滅に近い。せめて異国で生きていて呉れ と中国人に預けたり売ったりした子供。親子供を助ける為に満州人と結婚した女性など中国残留孤児問題は若い人でも知っている。その人達にとっては8月15日は戦争の始まりだった。
注1 冬将軍= モスクワを攻めたナポレオンが厳寒に勝てず敗走したことから
寒気の厳しさを擬人化していう語。
注2 38度線=韓国と北朝鮮の軍事境界線である。北緯38度付近に位置することからこう呼ばれている。また韓国と北朝鮮の事実上の国境でもある
注3 満蒙開拓団=国策によって推進された、中国大陸の旧満州、内蒙古、華北に入植した日本人の移民。
注4 少年義勇軍=戦局の悪化による兵力動員で1942年以降は成人男子の入植が困難となり、15歳?18歳の少年男子で組織された
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編集者 (代理投稿)