「民族大移動・大連引揚者の記憶」 3 (引力)
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「民族大移動・大連引揚者の記憶」 (引力) (編集者, 2007/7/27 8:07)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
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語る人 語らぬ人 還《かえ》らぬ人95/06/18 06:39
ここのタイトルは「私の体験・思い出」。即ち50年前の自分史を中心にした「史実」を語り合い考え合い、それを次世代の人達に語り継ごうとしている。
記憶違いや誤解もあるし、戦争が軸になるからその人の主義主観が色濃く反映する。
しかし生きた人間の体験史実であり、図書館や本屋の大量の昭和史より貴重だ。
昭和50年代に多くの戦争体験記が出版されたが、一様に序文で「今聞いておかないと原体験者がいなくなる」「語り継げなくなる」と叫んでいた。
ここでの「原体験者」とは青春から壮年までを戦争にどっぷりと浸《つ》かった世代であり武器、爆弾で人を沢山殺し、殺された 又はそれらを計画し命令した世代の人達を意味している。多くが還らぬ人になり語ってくれない。生き残った人は幸運としか言い様 生残った人達は語る人と語らぬ人にわかれた。
いかに我が部隊が優秀で勇敢に戦ったかを語る人。地獄を書き声高に為政者《=政治を行う人》を糾弾《=罪状や責任を問いただす》し語る人。生体解剖の状況を冷静な筆で、ただ状況と事実のみを語る人。
「思い出したくない。話したくない」と語らぬ人も複雑だ。
「苦労なら いくらでも話すけど 地獄は語れない」と語らぬ人。「負け戦を話せるか」と語らぬ人。これを若い人向けに言えば「試合に負けたんですから、私のホームランの事を聞かれても、あまり話したくありません」と言うプロ野球選手に似てる。
また 周囲や世間の事情を考えて意図的に語らぬ人もいた。残酷な加害である。
それから十数年が経過した平成七年の今日。
メロウには「敵を殲滅《せんめつ=残らず滅ぼす》した」「敵国人に加害を加えた」経験や「敵の重要施設に大損害を与えた」という経験のあるメンバーはいなくても不思議ではない。
私の父母はどれに属するかを簡単に述べよう。終戦時 父 40才 母 36才。
官吏で情報関係だった父は我々家族よりだいぶ遅れて運よく帰国した。
中学時代に私は父の当時の体験を聞こうとしたが「あの当時の事を息子のお前には話せないよ」と言った父の顔は引きつっていた。語らぬ人だった。
隣家の主人が遊びに来て、資源さえあれば日本は負けなかったとか、出陣一歩前で終戦になり残念だったとか、なつかしい思い出だ などと話して帰った。父は私に「実際に戦わなかった奴程、後で勇ましいことを言うもんだ。命のやり取りをした挙げ句の負けいくさを なつかしい などと言いやがって。分かるか お前」と言った。
私にとっての新京と大連は父の職業生命にピリオドをうった街。その地で患った病の為、早死にした父の無念が伝わる街でもある。
母は最初は語る人であったが、のちには語らぬ人になった。
帰国し身をよせた親戚のいる片田舎では「還らぬ人」ばかりで復員兵の話があまり聞けなかったせいか、母の苦労話は女性達を必ず泣かせた。次第に泣かせ方が上手になり、私は また母の十八番が始まったと横を向いた事を憶えている。
しばらくして移転した所は引揚げで有名な舞鶴《=京都府の港湾都市、太平洋戦争後大陸からの引き揚げの拠点となった》である。近辺には集団自決から奇跡の帰国をした人達。神戸、大阪の大空襲による炎熱地獄からの生残り戦災家族などが一杯いた。つまり母の話で誰も泣かないのだ。そのうち悲しい身の上話をして同情を買い粗悪品を売りつける女性が付近一帯を荒らし廻り、母も見事にひっかかった。
そのころから母は語らぬ人になったように思う。
昭和二桁生まれの私は辛うじて体験が残る年令で、父母達の世代がいなくなった今は、彼らの「語り」を「伝える人」になるべきなのかも知れない。
しかし 私の父母は「語らぬ人」だった。
ここのタイトルは「私の体験・思い出」。即ち50年前の自分史を中心にした「史実」を語り合い考え合い、それを次世代の人達に語り継ごうとしている。
記憶違いや誤解もあるし、戦争が軸になるからその人の主義主観が色濃く反映する。
しかし生きた人間の体験史実であり、図書館や本屋の大量の昭和史より貴重だ。
昭和50年代に多くの戦争体験記が出版されたが、一様に序文で「今聞いておかないと原体験者がいなくなる」「語り継げなくなる」と叫んでいた。
ここでの「原体験者」とは青春から壮年までを戦争にどっぷりと浸《つ》かった世代であり武器、爆弾で人を沢山殺し、殺された 又はそれらを計画し命令した世代の人達を意味している。多くが還らぬ人になり語ってくれない。生き残った人は幸運としか言い様 生残った人達は語る人と語らぬ人にわかれた。
いかに我が部隊が優秀で勇敢に戦ったかを語る人。地獄を書き声高に為政者《=政治を行う人》を糾弾《=罪状や責任を問いただす》し語る人。生体解剖の状況を冷静な筆で、ただ状況と事実のみを語る人。
「思い出したくない。話したくない」と語らぬ人も複雑だ。
「苦労なら いくらでも話すけど 地獄は語れない」と語らぬ人。「負け戦を話せるか」と語らぬ人。これを若い人向けに言えば「試合に負けたんですから、私のホームランの事を聞かれても、あまり話したくありません」と言うプロ野球選手に似てる。
また 周囲や世間の事情を考えて意図的に語らぬ人もいた。残酷な加害である。
それから十数年が経過した平成七年の今日。
メロウには「敵を殲滅《せんめつ=残らず滅ぼす》した」「敵国人に加害を加えた」経験や「敵の重要施設に大損害を与えた」という経験のあるメンバーはいなくても不思議ではない。
私の父母はどれに属するかを簡単に述べよう。終戦時 父 40才 母 36才。
官吏で情報関係だった父は我々家族よりだいぶ遅れて運よく帰国した。
中学時代に私は父の当時の体験を聞こうとしたが「あの当時の事を息子のお前には話せないよ」と言った父の顔は引きつっていた。語らぬ人だった。
隣家の主人が遊びに来て、資源さえあれば日本は負けなかったとか、出陣一歩前で終戦になり残念だったとか、なつかしい思い出だ などと話して帰った。父は私に「実際に戦わなかった奴程、後で勇ましいことを言うもんだ。命のやり取りをした挙げ句の負けいくさを なつかしい などと言いやがって。分かるか お前」と言った。
私にとっての新京と大連は父の職業生命にピリオドをうった街。その地で患った病の為、早死にした父の無念が伝わる街でもある。
母は最初は語る人であったが、のちには語らぬ人になった。
帰国し身をよせた親戚のいる片田舎では「還らぬ人」ばかりで復員兵の話があまり聞けなかったせいか、母の苦労話は女性達を必ず泣かせた。次第に泣かせ方が上手になり、私は また母の十八番が始まったと横を向いた事を憶えている。
しばらくして移転した所は引揚げで有名な舞鶴《=京都府の港湾都市、太平洋戦争後大陸からの引き揚げの拠点となった》である。近辺には集団自決から奇跡の帰国をした人達。神戸、大阪の大空襲による炎熱地獄からの生残り戦災家族などが一杯いた。つまり母の話で誰も泣かないのだ。そのうち悲しい身の上話をして同情を買い粗悪品を売りつける女性が付近一帯を荒らし廻り、母も見事にひっかかった。
そのころから母は語らぬ人になったように思う。
昭和二桁生まれの私は辛うじて体験が残る年令で、父母達の世代がいなくなった今は、彼らの「語り」を「伝える人」になるべきなのかも知れない。
しかし 私の父母は「語らぬ人」だった。
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編集者 (代理投稿)