「民族大移動・大連引揚者の記憶」 4 (引力)
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「民族大移動・大連引揚者の記憶」 (引力) (編集者, 2007/7/27 8:07)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
悠久の大儀と忠魂碑《=戦死者を記念するために建てた碑》 95/07/01 13:30
昭和20年の新京(現在は長春)の官舎で、ある日 私は兄のマンガ本を見てた。
ある箇所で 難しい漢字の熟語が何度も出てきて、どうやら大切な事らしいのだがさっぱり解らない。幸いに振り仮名がついていて「ユウキュウ ノ タイギ」とある。
父に聞いた答の要旨を会話文にすると「人は誰でもお爺さんになっていつか死ぬんだけど、名誉の戦死をすると国中の人から誉められる。お前の学校の先生が名誉の戦死をしたら学校中みんな 校長先生まで誉めるんだぞ。そして忠魂碑にもまつってもらえるんだぞ。爆弾三勇士みたいに偉い人になれるんだぞ。そうゆうのを ユウキュウ ノ タイギ ニ イキル って いうんだ。」
私は「あの大きな忠魂碑にまつってもらえるなんて、すごいなぁ」とマンガの主人公になったようなハイな気分(高揚した気持ちを表す少し古い若者言葉)になった。
吉本 隆明《=共同幻想論の著者》を読む 新入会の RISKYさんは わかるかな?
帰国して身を寄せた親戚の片田舎の、いつのまにか 国民学校から小学校になってた校庭で、ある日 大人達が大勢集まってた。子供達も何事かと集まった。
どうやら「進駐軍か 国の命令か どっちでも よいけど ようするに忠魂碑(忠霊塔だったかも知れない)を倒すらしいぞ!」と行事の内容が知れわたった。
上級生を中心に多くの子供達は「なぁんだ」と どっかへ行っちゃった。
わたしは「あんな立派な大きなのが倒れるんだろうか? 」という興味もあってその場に残った少数派の子供だった。
塔の上へ西部劇の投げ縄よろしく輪を放り投げると、キリンの首にロープをかけた様になった。それを大人達が綱引きの要領で引っ張ると、最初の ひと引きで あっけなく塔は倒れた。 わたしは「なぁ~んだ」と拍子抜けした。
台座はしばらく残ってたが、その後どうなったかを私は知らない。
昭和二桁《ふたけた》前半生まれの私でも、この程度の記憶ぐらいは 残ってますぞ!
どうだ! 文句アッカ! イエ-イ !
昭和20年の事を「古い事だから よく覚えていない」という年長者達を、信用しない偏見《=かたよった見方》が いつのまにか身についた私は、会社で上司から可愛がられた試しがない。
それで出世しなかったのだろうか? 出世しなかったのも戦争のせいだと恨んで私は「反戦主義者」で 「浅はかな平和論者」になったのだろうか?
これこれ みなさん 人の事だと思って 笑い事ではありませんぞ!
報暴勿以暴 95/07/08 22:45
終戦直前に「直に帰るから軽装で」を信じ、新京《満州国があったときの首都長春の呼称》から避難した私達は平壌《ピョンヤン=北朝鮮の首都》で足留めをくらってしまった。それが苦労の始まりとは大人達も まだ気づいてない。
仮住まいの家の側で遊んでいたら母が出てきて「戦争に負けたんだって」という。
8月15日は ここ北鮮も日本も満州も中国も 殆どの地域が晴れた日だった。
束《つか》の間の平穏な日々が続く。すぐ近くの小学校の校庭に不安にかられた日本人達が寄り集まり子供も寄った。朝鮮の子らが音楽の授業で 蛍の光 を朝鮮語で何度も練習してたのを憶えている。窓の雪~と 高音にあがるところをたしか サンザンソーと歌ってた。老人と婦女子ばかりのはずが、ズボンだけ国防色の屈強《=頑丈な》の男達も いつの間にか混じり始めた。目的を失い無統制となった男達が集うとすぐ喧嘩となる。
取っ組み合いの後の ののしり合いで 流行したのが「お前のような奴がいたから日本は負けたんだ」である。この言葉は効果抜群で先に言った者が勝ちだった。
男が女に「busu」と言い放ち、勝負あったと背を向けた時のように威力があり我々 子供達の喧嘩にも たちまち普及し流行した。
我々が以前から平壌に居たのでなく、新京から何ひとつ持たず来た日本人だった事が幸いしたか、襲撃や略奪は経験せずに済んだ。逆に平壌の朝鮮人にかなり助けられたようだ。それが意外だったから 感激した大人達の会話の中に出てくる。
その 助けてくれた原因を分析した大人達の大勢を占めた意見は何だったか?
役に立つ施設を作ってあげたり、進んだ技術を教えてやったし、「情けをかけ、善い事をしてあげた日本人」に感謝して助けて呉れるのだろう。「やっぱり人間は善い事をしておく事が大切だ」というのが、皆を納得させた意見だった。
朝鮮人の徳や自制心を誉める人は居なかったのか? 又は愛国の子の私がすでに取捨選択して記憶し、他の意見を聞く耳を持たず、記憶してないのかだ?
ガキだった私を含めて そこにいた日本人達は 今から思えば「塀の中の懲りない面々」だった。だから「お前のような奴が、、武器が優秀なら、日本は戦争に負けなかったのに」という反省になり、「善い事をしてあげた日本人」という総括になる。
その時点で思考がストップしたままというか、信条堅固《=かたく信じている》というか そのまま50年が経過した人も多い。タカ派といわれる人達に共通の思考の原点でもある。
蒋介石《しょうかいせき=注1》は終戦の大詔《たいしょう=天皇の詔(ことば)》後、数時間した放送で 日本民衆は敵ではない。報復するな!
報暴勿以暴(暴に報ゆるに暴を以てする勿れ)と言ったそうだ。権威ある文献を引用するまでもない事とされている。中国共産党も 日本人民と日本軍国政府とは区別するとしている。どちらも民衆、人民を責めない態度だ。但し 国は別だ。
「過去の事を忘れてお互い仲良くしようよ」という言葉は 加害側から切り出すのはおかしいと思う。友人関係で「自分の方が悪かったかな」と思う時と同じだ。
寛大に相手の非道を許そうとしてるのに、「この前 謝っただろ!」「ちょっと位の過ちをしたからといって、何時までもギャーギャー言うな」「元々 俺は悪い事はしてない」「お前を苛めたのは俺だけじゃないぞ」と言えば相手がいらだち、ムッとするのは友人関係でも、近所付き合いでも同じだ。元々 好みでないタイプなら会釈だけして黙っとりゃ良いのに、不用意な発言をしてもらったら家族が迷惑する。
今の中国、韓国、比国が 苛立ち怒る訳だ。何しろ伊豆大島を一年間占領した程度の「ちょっと ぐらいの行き過ぎ 過ち」ではないからだ。
注1 蒋介石=軍人・政治家。中華民国((現在は台湾島と周辺の島嶼群、南沙諸島の一部 などを領有している、東アジアの太平洋沿岸に位置する共和制国家。)の国府主席 中華民国総統 1975年没
昭和20年の新京(現在は長春)の官舎で、ある日 私は兄のマンガ本を見てた。
ある箇所で 難しい漢字の熟語が何度も出てきて、どうやら大切な事らしいのだがさっぱり解らない。幸いに振り仮名がついていて「ユウキュウ ノ タイギ」とある。
父に聞いた答の要旨を会話文にすると「人は誰でもお爺さんになっていつか死ぬんだけど、名誉の戦死をすると国中の人から誉められる。お前の学校の先生が名誉の戦死をしたら学校中みんな 校長先生まで誉めるんだぞ。そして忠魂碑にもまつってもらえるんだぞ。爆弾三勇士みたいに偉い人になれるんだぞ。そうゆうのを ユウキュウ ノ タイギ ニ イキル って いうんだ。」
私は「あの大きな忠魂碑にまつってもらえるなんて、すごいなぁ」とマンガの主人公になったようなハイな気分(高揚した気持ちを表す少し古い若者言葉)になった。
吉本 隆明《=共同幻想論の著者》を読む 新入会の RISKYさんは わかるかな?
帰国して身を寄せた親戚の片田舎の、いつのまにか 国民学校から小学校になってた校庭で、ある日 大人達が大勢集まってた。子供達も何事かと集まった。
どうやら「進駐軍か 国の命令か どっちでも よいけど ようするに忠魂碑(忠霊塔だったかも知れない)を倒すらしいぞ!」と行事の内容が知れわたった。
上級生を中心に多くの子供達は「なぁんだ」と どっかへ行っちゃった。
わたしは「あんな立派な大きなのが倒れるんだろうか? 」という興味もあってその場に残った少数派の子供だった。
塔の上へ西部劇の投げ縄よろしく輪を放り投げると、キリンの首にロープをかけた様になった。それを大人達が綱引きの要領で引っ張ると、最初の ひと引きで あっけなく塔は倒れた。 わたしは「なぁ~んだ」と拍子抜けした。
台座はしばらく残ってたが、その後どうなったかを私は知らない。
昭和二桁《ふたけた》前半生まれの私でも、この程度の記憶ぐらいは 残ってますぞ!
どうだ! 文句アッカ! イエ-イ !
昭和20年の事を「古い事だから よく覚えていない」という年長者達を、信用しない偏見《=かたよった見方》が いつのまにか身についた私は、会社で上司から可愛がられた試しがない。
それで出世しなかったのだろうか? 出世しなかったのも戦争のせいだと恨んで私は「反戦主義者」で 「浅はかな平和論者」になったのだろうか?
これこれ みなさん 人の事だと思って 笑い事ではありませんぞ!
報暴勿以暴 95/07/08 22:45
終戦直前に「直に帰るから軽装で」を信じ、新京《満州国があったときの首都長春の呼称》から避難した私達は平壌《ピョンヤン=北朝鮮の首都》で足留めをくらってしまった。それが苦労の始まりとは大人達も まだ気づいてない。
仮住まいの家の側で遊んでいたら母が出てきて「戦争に負けたんだって」という。
8月15日は ここ北鮮も日本も満州も中国も 殆どの地域が晴れた日だった。
束《つか》の間の平穏な日々が続く。すぐ近くの小学校の校庭に不安にかられた日本人達が寄り集まり子供も寄った。朝鮮の子らが音楽の授業で 蛍の光 を朝鮮語で何度も練習してたのを憶えている。窓の雪~と 高音にあがるところをたしか サンザンソーと歌ってた。老人と婦女子ばかりのはずが、ズボンだけ国防色の屈強《=頑丈な》の男達も いつの間にか混じり始めた。目的を失い無統制となった男達が集うとすぐ喧嘩となる。
取っ組み合いの後の ののしり合いで 流行したのが「お前のような奴がいたから日本は負けたんだ」である。この言葉は効果抜群で先に言った者が勝ちだった。
男が女に「busu」と言い放ち、勝負あったと背を向けた時のように威力があり我々 子供達の喧嘩にも たちまち普及し流行した。
我々が以前から平壌に居たのでなく、新京から何ひとつ持たず来た日本人だった事が幸いしたか、襲撃や略奪は経験せずに済んだ。逆に平壌の朝鮮人にかなり助けられたようだ。それが意外だったから 感激した大人達の会話の中に出てくる。
その 助けてくれた原因を分析した大人達の大勢を占めた意見は何だったか?
役に立つ施設を作ってあげたり、進んだ技術を教えてやったし、「情けをかけ、善い事をしてあげた日本人」に感謝して助けて呉れるのだろう。「やっぱり人間は善い事をしておく事が大切だ」というのが、皆を納得させた意見だった。
朝鮮人の徳や自制心を誉める人は居なかったのか? 又は愛国の子の私がすでに取捨選択して記憶し、他の意見を聞く耳を持たず、記憶してないのかだ?
ガキだった私を含めて そこにいた日本人達は 今から思えば「塀の中の懲りない面々」だった。だから「お前のような奴が、、武器が優秀なら、日本は戦争に負けなかったのに」という反省になり、「善い事をしてあげた日本人」という総括になる。
その時点で思考がストップしたままというか、信条堅固《=かたく信じている》というか そのまま50年が経過した人も多い。タカ派といわれる人達に共通の思考の原点でもある。
蒋介石《しょうかいせき=注1》は終戦の大詔《たいしょう=天皇の詔(ことば)》後、数時間した放送で 日本民衆は敵ではない。報復するな!
報暴勿以暴(暴に報ゆるに暴を以てする勿れ)と言ったそうだ。権威ある文献を引用するまでもない事とされている。中国共産党も 日本人民と日本軍国政府とは区別するとしている。どちらも民衆、人民を責めない態度だ。但し 国は別だ。
「過去の事を忘れてお互い仲良くしようよ」という言葉は 加害側から切り出すのはおかしいと思う。友人関係で「自分の方が悪かったかな」と思う時と同じだ。
寛大に相手の非道を許そうとしてるのに、「この前 謝っただろ!」「ちょっと位の過ちをしたからといって、何時までもギャーギャー言うな」「元々 俺は悪い事はしてない」「お前を苛めたのは俺だけじゃないぞ」と言えば相手がいらだち、ムッとするのは友人関係でも、近所付き合いでも同じだ。元々 好みでないタイプなら会釈だけして黙っとりゃ良いのに、不用意な発言をしてもらったら家族が迷惑する。
今の中国、韓国、比国が 苛立ち怒る訳だ。何しろ伊豆大島を一年間占領した程度の「ちょっと ぐらいの行き過ぎ 過ち」ではないからだ。
注1 蒋介石=軍人・政治家。中華民国((現在は台湾島と周辺の島嶼群、南沙諸島の一部 などを領有している、東アジアの太平洋沿岸に位置する共和制国家。)の国府主席 中華民国総統 1975年没
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編集者 (代理投稿)