@





       
ENGLISH
In preparation
運営団体
メロウ伝承館プロジェクトとは?
記録のメニュー
検索
その他のメニュー
ログイン

ユーザー名:


パスワード:





パスワード紛失

引揚げ船のころ(1)

投稿ツリー


このトピックの投稿一覧へ

あんみつ姫

通常 引揚げ船のころ(1)

msg#
depth:
0
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2007/11/29 7:29
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
           哈爾浜《ハルピン》学院21期生   河西 明

裏日本、舞鶴港。すごく底冷えがする。鉛色の空。雪がチラチラ舞う。のったりとゆれている錆びたブイの上に鴎が四、五羽。雪で白くなった岸壁の中程にその船は黒い船体を横たえていた。

東京で乗船する様に指示された引揚船、大久丸。見るからに急ごしらえという感じの戦時標準型の七千屯の貨物船。戦中は此の型の船を突貫工事で二十日間で一隻作ったという。船尾に書かれた船名もペンキがはげかかっている。

昭和二十一年の暮も押しっまった或る日の夕方、僅かばかりの身の廻り品を入れたボストンバッグ一つをさげて、すべらぬ様に気をつけながらその船のあぶなかしい急なタラップを上った。敗戦の日から既に一年以上が経過していた。

 終戦による混乱、連合国《注1》による占領、という重圧の他に日本は大きな難題をかかえていた。それは海外に残された多数の同胞の引取りである。その数軍人、一般人合わせて六百五十万。逆に日本から出国しようとする中国、朝鮮、その他の外国人が百二十万。この様な規模の民族の大移動は世界史にもその例がないという。

外地で生活の基盤を失い、または武装解除《ぶそうかいじょ=投降者などから強制的に武器を取り上げる》された同胞の引取りは一日でも早めねばならない時間との戦いである。だが疲弊《ひへい=疲れ弱った》し切った我が国にとって、それは難事業であった。第一船が足りない。外航船舶の多くは戦時中に撃沈され、残存艦船を総動員しても四、五年はかかるとみられていた。

これをみたアメリカは米軍の補給用に使っていたリバティ型貨物船《注2》と大型上陸用舟艇《戦時に敵国に強制上陸をする為の船》計二百隻を引揚げ用に提供したので、これに日本人船員が乗り組み、敗戦後日ならずして南方及び中国大陸からの復員、引揚げを開始することが出来た。満州《まんしゅう 注3》の一般邦人をコロ島《注4》 から運んで来たのも主に此の米船だった。

もう一つ引揚げを容易にした要因として例の蒋介石《しょうかいせき=中国国民政府主席-》の「暴にむくゆるに暴を以ってせず」の宣言がある。敗戦から僅か一年数カ月の間に中国大陸及び台湾から二百五十万の旧軍人、一般人が僅かな損耗率で祖国の土を踏む事が出来た背景には、この宣言が国民政府とその軍に徹底されていた事実があったことは否定できない。

引揚げはかくて当初予想も出来なかった早い速度で進んだが、唯一の例外はソ連軍が侵入支配したためにソ連地区と呼ばれた満州、関東州《注5》、樺太《カラフト=現在ロシアのサハリン》、北朝鮮であった。

特に満州、関東州は状況がわからず、武装解除された六十万将兵を「ダモイ」《帰国》とだましてシベリアの奥深くつれ去ったことも、ソ連兵によって各都市の一般人に加えられたすざまじい掠奪と婦女暴行も知るすべはなかった。日本朝野《政府も国民も》の焦燥をよそにソ連は沈黙に徹し何一つ知らせようとしなかった。当時これは「沈黙のカーテン」と呼ばれた。

注1 敗戦時 占領政策を米国を代表として英国、中国、ソ連、オーストラリア、オランダ、ニュウジランド、インド、ヒリピンが連合して行なった
注2 大量建造を目的に戦時標準型として定めた船
注3 中国東北部に1923~1945我が国の国策として満州国を建国させた
注4 中国遼東半島の渤海湾に面した北側の町で島ではない
注5 1905年日露戦争終結時 ポーツマス条約によりロシアから遼東半島先端部より南満州鉄道付属地の租借権を引き継ぐ現在の旅順、大連地域の日本での呼び名

--
あんみつ姫

  条件検索へ