Re: 引揚げ船のころ(4)
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引揚げ船のころ(1) (あんみつ姫, 2007/11/29 7:29)
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Re: 引揚げ船のころ(2) (あんみつ姫, 2007/11/29 7:43)
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Re: 引揚げ船のころ(3) (あんみつ姫, 2007/11/29 7:53)
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Re: 引揚げ船のころ(2) (あんみつ姫, 2007/11/29 7:43)
あんみつ姫
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夜の船上で日本人労組幹部へ復讐劇
大久丸が一般邦人の引取りを無事にすませて、夕方近く九州佐世保に向けて出港したその晩のことである。夜中にトイレに起きてみると、後部甲板で何やら人声がして騒々しい。何事だろうと外套をひっかけて甲板に出て見ると二、三カ所に人垣が出来ており、それぞれの真ん中にはパンツもつけない全裸の男が立たされている。中には二メートルほどの高さのデレックの上に押し上げられてガタガタふるえながら立っている者もいる。
真冬の玄界灘、気温は零下。とりかこんだ男達はこもごもその男の行った非道、悪業を糾弾《きゅうだん=罪状や責任を問いただして とがめる》し、ののしっている。男達だけではない、涙ながらに訴えている女性もいる。〝赤カブ野郎!″などという罵声もとぶ。赤カブとはうわべだけコムニスト《共産主義者》のふりをして左翼の幹部にとり入り、うまく立ち回った者だという。
ひとしきり吊し上げ《大勢で特定の人を問い詰めて尋問する》が終わると今度はよってたかってなぐりつける。鮮血がとび、ぶったおれて動かなくなると別な男の名が呼び上げられ、船倉から引きずり出されて来て衣服をはぎ取られる。皆激昂《げっこう=激しく怒る》し、いきり立っているからとても止められるものではない。
中には矢張り起き出して来て見物していた船の乗組員までが悲憤慷慨《ひふんこうがい=運命や世の中の不正を嘆き悲しみ憤る》して一緒になってなぐっているのもいる。悲惨な深夜の復讐劇の対象となっていたのは大連の日本人労働組の幹部やその手先達であった。
日本人労組は敗戦の数カ月後にソ連軍司令部の肝入《きもいり=あれこれ世話や斡旋する》りで結成され、それまであった幾つかの組織は解散させられて大連二十万の居留民に君臨する唯一の組織となり、その役員には満鉄調査部事件《注1-》で追放になった者や何等かの形で左翼運動をして来たコムニスト達八名が就任し、十ばかりの支部に組合員数千人を擁する組織であった。食糧の買付けなどのために必要だったことも事実だが、一般人からの金銭財産の徴発は苛烈《かれつ=厳しく激しい》を極め、特にそれまでの有力者や資産家達を目のかたきにして根こそぎ収奪したという。
そのうちにマルクス主義《資本主義から社会主義への転換》の思想教育も行い、引揚げが近づくとその人選も手中に握り、反動的な者や財産供出の不十分な者は引揚げさせないと威圧したので誰も抵抗出来なかった。極限状態まで追いつめられた一般人をよそに自分達だけは結構な暮らしをしていたので怨嵯《えんさ=うらみ嘆く》の的になっていたわけだ。
八月二十二日ソ連軍が大連に入ってから以降、ソ連兵が日本人の家に押し入って行った個人財産の掠奪とあたりかまわぬ婦女子の凌辱《りょうじょく=人をあなどって辱める》は他の諸都市同様言語に絶するものであったから、ソ連に対する深い憎しみに加えて、その走狗《そおく=人の手足になって追い使われる》となって同胞を搾取迫害した組合員に対する恨みが二重になって乗船後一挙にふき出したものであろう。後日この労組委員長だった土岐某を糾弾《きゅうだん=罪状を調べ弾効する》する告訴状が一引揚者から参議院に提出され、国会への喚問《かんもん=呼び出して問いただす》が行われている。
大連地区の状況は引揚げが始まるまではほとんどわからなかったが、引揚げ第一船にやはり通訳として乗船した外務省の岡崎慶興君(二十二期、故人)が引揚者から聴取して作成したレポートが唯一の公式資料として残されているという。船内での復讐劇はどの船でも行われたし、船内だけでなく、日本に上陸してからの場合もあった。ナホトカ《ロシア沿海州の日本海に面する港湾都市》からの場合も、その前半期にはほとんど毎回のことであった。これは仲間を売った密告者や、いわゆる民主運動のアクチブ《能動的》に対するものであった。
あれは何回目の航海の時だったか、舞鶴港に入った時に一名不足していたことがあった。乗船する時にはタラップの下でソ連兵が数え、船上では船員数名が念入りに数えてソ連側の数字との合致を確認するのガが、下船した時の数がどうしても一名足りないのである。調べた結果、その消えた人は神経衰弱による投身自殺、ということで処理されたと聞いたが、あれはほうり込まれたのだろうと思う。航海中に殺された者、消えた者は十数名に達する、という非公式の記録もある。
フランクルの「夜と霧」にはアウシュビッツ《注2》で囚人を監視する囚人の記述がある。彼等はカポーと呼ばれた。囚人の中から選ばれてナチ《注3》将校の助手になったカポー達は先ず一般囚人から所持品を残らず奪いとった。さらに囚人達に対する取扱いはナチ将校よりも遥かに残虐、苛酷であったという。何とも忌まわしい記録だが、実は少なからぬカポーが大連にもシベリアの各地にもいたのである。アウシュビッツのカポーと異なる点は、自分達の正当性に、または口実に、イデオロギーを利用したことぐらいであろう。
ある日、復員局から全船に通達が出された。それ以降、言論による糾弾はかまわないが、暴力による報復をしてはならないこと、違反した場合は厳重処罰する、という船内放送が乗船直後から何回も繰り返されるようになり、「赤いカポー」に対する船内での復讐劇はようやく下火となった。
注1 1942~1943年にかけ 当時我が国内地での活動の場を失った左翼思想者の多くが満鉄に就職し マルクス主義的方法について 社会調査 分析をしていたのを 関東軍憲兵隊に検挙され 満鉄の調査部の機能が 麻痺した事件
注2 第二次世界大戦時 ドイツ ナチス党が推進した 人種主義的な 抑圧政策をユダヤ民族を対象に 最大級の惨劇が生まれた収容所
注3 国家社会主義ドイツ労働党で 1920年に結成され1933年にアドルフ ヒトラーが総統として率いたのが 通常ナチスと呼ばれた
大久丸が一般邦人の引取りを無事にすませて、夕方近く九州佐世保に向けて出港したその晩のことである。夜中にトイレに起きてみると、後部甲板で何やら人声がして騒々しい。何事だろうと外套をひっかけて甲板に出て見ると二、三カ所に人垣が出来ており、それぞれの真ん中にはパンツもつけない全裸の男が立たされている。中には二メートルほどの高さのデレックの上に押し上げられてガタガタふるえながら立っている者もいる。
真冬の玄界灘、気温は零下。とりかこんだ男達はこもごもその男の行った非道、悪業を糾弾《きゅうだん=罪状や責任を問いただして とがめる》し、ののしっている。男達だけではない、涙ながらに訴えている女性もいる。〝赤カブ野郎!″などという罵声もとぶ。赤カブとはうわべだけコムニスト《共産主義者》のふりをして左翼の幹部にとり入り、うまく立ち回った者だという。
ひとしきり吊し上げ《大勢で特定の人を問い詰めて尋問する》が終わると今度はよってたかってなぐりつける。鮮血がとび、ぶったおれて動かなくなると別な男の名が呼び上げられ、船倉から引きずり出されて来て衣服をはぎ取られる。皆激昂《げっこう=激しく怒る》し、いきり立っているからとても止められるものではない。
中には矢張り起き出して来て見物していた船の乗組員までが悲憤慷慨《ひふんこうがい=運命や世の中の不正を嘆き悲しみ憤る》して一緒になってなぐっているのもいる。悲惨な深夜の復讐劇の対象となっていたのは大連の日本人労働組の幹部やその手先達であった。
日本人労組は敗戦の数カ月後にソ連軍司令部の肝入《きもいり=あれこれ世話や斡旋する》りで結成され、それまであった幾つかの組織は解散させられて大連二十万の居留民に君臨する唯一の組織となり、その役員には満鉄調査部事件《注1-》で追放になった者や何等かの形で左翼運動をして来たコムニスト達八名が就任し、十ばかりの支部に組合員数千人を擁する組織であった。食糧の買付けなどのために必要だったことも事実だが、一般人からの金銭財産の徴発は苛烈《かれつ=厳しく激しい》を極め、特にそれまでの有力者や資産家達を目のかたきにして根こそぎ収奪したという。
そのうちにマルクス主義《資本主義から社会主義への転換》の思想教育も行い、引揚げが近づくとその人選も手中に握り、反動的な者や財産供出の不十分な者は引揚げさせないと威圧したので誰も抵抗出来なかった。極限状態まで追いつめられた一般人をよそに自分達だけは結構な暮らしをしていたので怨嵯《えんさ=うらみ嘆く》の的になっていたわけだ。
八月二十二日ソ連軍が大連に入ってから以降、ソ連兵が日本人の家に押し入って行った個人財産の掠奪とあたりかまわぬ婦女子の凌辱《りょうじょく=人をあなどって辱める》は他の諸都市同様言語に絶するものであったから、ソ連に対する深い憎しみに加えて、その走狗《そおく=人の手足になって追い使われる》となって同胞を搾取迫害した組合員に対する恨みが二重になって乗船後一挙にふき出したものであろう。後日この労組委員長だった土岐某を糾弾《きゅうだん=罪状を調べ弾効する》する告訴状が一引揚者から参議院に提出され、国会への喚問《かんもん=呼び出して問いただす》が行われている。
大連地区の状況は引揚げが始まるまではほとんどわからなかったが、引揚げ第一船にやはり通訳として乗船した外務省の岡崎慶興君(二十二期、故人)が引揚者から聴取して作成したレポートが唯一の公式資料として残されているという。船内での復讐劇はどの船でも行われたし、船内だけでなく、日本に上陸してからの場合もあった。ナホトカ《ロシア沿海州の日本海に面する港湾都市》からの場合も、その前半期にはほとんど毎回のことであった。これは仲間を売った密告者や、いわゆる民主運動のアクチブ《能動的》に対するものであった。
あれは何回目の航海の時だったか、舞鶴港に入った時に一名不足していたことがあった。乗船する時にはタラップの下でソ連兵が数え、船上では船員数名が念入りに数えてソ連側の数字との合致を確認するのガが、下船した時の数がどうしても一名足りないのである。調べた結果、その消えた人は神経衰弱による投身自殺、ということで処理されたと聞いたが、あれはほうり込まれたのだろうと思う。航海中に殺された者、消えた者は十数名に達する、という非公式の記録もある。
フランクルの「夜と霧」にはアウシュビッツ《注2》で囚人を監視する囚人の記述がある。彼等はカポーと呼ばれた。囚人の中から選ばれてナチ《注3》将校の助手になったカポー達は先ず一般囚人から所持品を残らず奪いとった。さらに囚人達に対する取扱いはナチ将校よりも遥かに残虐、苛酷であったという。何とも忌まわしい記録だが、実は少なからぬカポーが大連にもシベリアの各地にもいたのである。アウシュビッツのカポーと異なる点は、自分達の正当性に、または口実に、イデオロギーを利用したことぐらいであろう。
ある日、復員局から全船に通達が出された。それ以降、言論による糾弾はかまわないが、暴力による報復をしてはならないこと、違反した場合は厳重処罰する、という船内放送が乗船直後から何回も繰り返されるようになり、「赤いカポー」に対する船内での復讐劇はようやく下火となった。
注1 1942~1943年にかけ 当時我が国内地での活動の場を失った左翼思想者の多くが満鉄に就職し マルクス主義的方法について 社会調査 分析をしていたのを 関東軍憲兵隊に検挙され 満鉄の調査部の機能が 麻痺した事件
注2 第二次世界大戦時 ドイツ ナチス党が推進した 人種主義的な 抑圧政策をユダヤ民族を対象に 最大級の惨劇が生まれた収容所
注3 国家社会主義ドイツ労働党で 1920年に結成され1933年にアドルフ ヒトラーが総統として率いたのが 通常ナチスと呼ばれた
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