Re: 引揚げ船のころ(2)
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引揚げ船のころ(1) (あんみつ姫, 2007/11/29 7:29)
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Re: 引揚げ船のころ(2) (あんみつ姫, 2007/11/29 7:43)
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Re: 引揚げ船のころ(3) (あんみつ姫, 2007/11/29 7:53)
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Re: 引揚げ船のころ(4) (あんみつ姫, 2007/11/29 7:59)
- Re: 引揚げ船のころ(5) (あんみつ姫, 2007/11/29 8:05)
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Re: 引揚げ船のころ(4) (あんみつ姫, 2007/11/29 7:59)
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Re: 引揚げ船のころ(3) (あんみつ姫, 2007/11/29 7:53)
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Re: 引揚げ船のころ(2) (あんみつ姫, 2007/11/29 7:43)
あんみつ姫
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戦争終結後の引揚げの法的根拠はポツダム宣言の第九条にある。そこには「武装解除された後の日本軍隊は各自の家庭に復帰し、平和な生活を営む機会が与えられる」と規定されている。日本がポツダム宣言を受諾した以上、連合国側も此の条項に従って旧日本軍人を即刻引揚げさせる義務があった。一般人についての規定はなかったが、人道上旧軍人に準ずべきもの、として取り扱われた。
だからアメリカは船舶を提供して引揚げを促進したし、他の連合国も早期帰還につとめた。ひとりソ連《ソビエト連邦共和国現在のロシア》のみがこれをふみにじった。ソ連のやったことは八月九日の日ソ中立条約《注1》侵犯だけではないのだ。
シベリア抑留《注2》について日本がソ連を、あるいはその後継者を自称するロシアを許してはならないのは、それが人道にもとる奴隷労働で、そのために多数の同胞を殺した、というだけではない。戦争を終わらせるための「条約」として日本につきつけ、日本が受け入れたその「宣言」を自分の方は平然と踏みにじった、その事にある。
昭和二十一年になって沈黙のカーテンに一つの穴があく事件があった。三人の在満日本人が中国人に変装して汽車に乗り、山海関《さんかいかん=中国東北部万里の長城東端にある町》を抜けて天津《てんしん=中国東北部にある中央直轄地で対外開放港》に入り、駐留していた米軍の助力を得て日本に渡り、満州の実情を政府要人、マスコミその他に広く伝えたため、初めてその惨状が明らかになり、朝野《ちょうや=政府も民間も》は大きな衝撃につつまれた。此の三人は直接マッカーサーにも面会し援助を要請している。
これ以後ソ連地区からの引揚促進運動は日本全土で一層活発となり、国会決議、各地での促進大会、陳情、《ちんじょう=実情を述べ御願いする》一千万人署名のソ連大使館提出等々ほとんど連日のように行事が相次いだが、日本は外交権を持たなかったから、結局はマッカーサーに訴えて米ソ間の交渉にゆだねるしか仕方がなかった。
当時東京に連合国対日理事会というものがあり、米ソ中及び英連邦グループの四者の代表で構成され、二週間に一回の定例会議で日本の占領政策を審議し、最高司令官(マッカーサー)にアドバイスするための組織とされていた。
ソ連の代表はデレビヤンコ中将で、ずんぐりした横幅の広い体躯の見るからに倣岸《ごうがん=でかい態度で人に接する》な人物だった。対日理事会は本来の審議機関としてはほとんど機能せず、すでに始まっていた米ソの冷戦《注3》が火花を散らす場と化していたのだが、やがてソ連地区からの引揚げ問題が主要な議題として再々取り上げられるようになった。
スターリンは北海道にソ連軍を進駐させて日本を分割占領することを要求したのだが、ドイツの四カ国占領による失敗を経験したアメリカがこれを拒否したことから、以後ソ連はアメリカ主導の占領政策にことごとに制肘《せいちゅう=側から干渉して自由な行動をさせない》を加えて妨害した。
一方、アメリカ及び他の連合国代表はソ連に対し早期引揚げ開始を要求し、はとんど毎日激論が続いたが、昭和二十一年十二月に至り、ようやくソ連は引揚げ開始にしぶしぶ同意し、米ソ間に協定が成立した。
ソ連は毎月五万人の送還を約束し、此の数字も結局その通りには履行されなかったのだが、ともかくも引揚げ開始のベースが出来たので、日本側も配船準備を進めることが出来るようになった。現地でのソ連官憲との折衝や書類作成などがあるので各船にロシア語通訳一名が乗船することになり、私もその一人となった。この仕事を斡旋してくれたのは外務省にいた松原進である。小雪の舞う舞鶴港で大久丸に乗船するまでの間には概略以上のような経緯があった。
注1 1941年4月我が国とソビエト連邦共和国とがお互い侵入しないと条文を作り約束する しかし1945年8月一方的にソ連が破棄して満州に侵入してきた
注2 第二次世界大戦末期にソ連軍が満州に(注2-1)侵攻し日本人捕虜を主にシベリアやモンゴルに抑留し 強制労働に使役した
注2-1 1932~1945中国東北部に我が国の国策により建国された満州国があった
注3 第二次大戦後 戦勝国である米ソは その巨大な軍事力を抱え 激しく対立した
だからアメリカは船舶を提供して引揚げを促進したし、他の連合国も早期帰還につとめた。ひとりソ連《ソビエト連邦共和国現在のロシア》のみがこれをふみにじった。ソ連のやったことは八月九日の日ソ中立条約《注1》侵犯だけではないのだ。
シベリア抑留《注2》について日本がソ連を、あるいはその後継者を自称するロシアを許してはならないのは、それが人道にもとる奴隷労働で、そのために多数の同胞を殺した、というだけではない。戦争を終わらせるための「条約」として日本につきつけ、日本が受け入れたその「宣言」を自分の方は平然と踏みにじった、その事にある。
昭和二十一年になって沈黙のカーテンに一つの穴があく事件があった。三人の在満日本人が中国人に変装して汽車に乗り、山海関《さんかいかん=中国東北部万里の長城東端にある町》を抜けて天津《てんしん=中国東北部にある中央直轄地で対外開放港》に入り、駐留していた米軍の助力を得て日本に渡り、満州の実情を政府要人、マスコミその他に広く伝えたため、初めてその惨状が明らかになり、朝野《ちょうや=政府も民間も》は大きな衝撃につつまれた。此の三人は直接マッカーサーにも面会し援助を要請している。
これ以後ソ連地区からの引揚促進運動は日本全土で一層活発となり、国会決議、各地での促進大会、陳情、《ちんじょう=実情を述べ御願いする》一千万人署名のソ連大使館提出等々ほとんど連日のように行事が相次いだが、日本は外交権を持たなかったから、結局はマッカーサーに訴えて米ソ間の交渉にゆだねるしか仕方がなかった。
当時東京に連合国対日理事会というものがあり、米ソ中及び英連邦グループの四者の代表で構成され、二週間に一回の定例会議で日本の占領政策を審議し、最高司令官(マッカーサー)にアドバイスするための組織とされていた。
ソ連の代表はデレビヤンコ中将で、ずんぐりした横幅の広い体躯の見るからに倣岸《ごうがん=でかい態度で人に接する》な人物だった。対日理事会は本来の審議機関としてはほとんど機能せず、すでに始まっていた米ソの冷戦《注3》が火花を散らす場と化していたのだが、やがてソ連地区からの引揚げ問題が主要な議題として再々取り上げられるようになった。
スターリンは北海道にソ連軍を進駐させて日本を分割占領することを要求したのだが、ドイツの四カ国占領による失敗を経験したアメリカがこれを拒否したことから、以後ソ連はアメリカ主導の占領政策にことごとに制肘《せいちゅう=側から干渉して自由な行動をさせない》を加えて妨害した。
一方、アメリカ及び他の連合国代表はソ連に対し早期引揚げ開始を要求し、はとんど毎日激論が続いたが、昭和二十一年十二月に至り、ようやくソ連は引揚げ開始にしぶしぶ同意し、米ソ間に協定が成立した。
ソ連は毎月五万人の送還を約束し、此の数字も結局その通りには履行されなかったのだが、ともかくも引揚げ開始のベースが出来たので、日本側も配船準備を進めることが出来るようになった。現地でのソ連官憲との折衝や書類作成などがあるので各船にロシア語通訳一名が乗船することになり、私もその一人となった。この仕事を斡旋してくれたのは外務省にいた松原進である。小雪の舞う舞鶴港で大久丸に乗船するまでの間には概略以上のような経緯があった。
注1 1941年4月我が国とソビエト連邦共和国とがお互い侵入しないと条文を作り約束する しかし1945年8月一方的にソ連が破棄して満州に侵入してきた
注2 第二次世界大戦末期にソ連軍が満州に(注2-1)侵攻し日本人捕虜を主にシベリアやモンゴルに抑留し 強制労働に使役した
注2-1 1932~1945中国東北部に我が国の国策により建国された満州国があった
注3 第二次大戦後 戦勝国である米ソは その巨大な軍事力を抱え 激しく対立した
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あんみつ姫