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Re: 引揚げ船のころ(5)

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あんみつ姫

通常 Re: 引揚げ船のころ(5)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/11/29 8:05
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
   中田甫さん、宮田に会う

 或る日舞鶴の市内を歩いていると、隊列を組んで歩いて来る引揚者の中に中田甫先生を見付け、思わずかけ寄って一緒に歩きながら二、三分話をしたが「残して来た原書が惜しくて……」と言っておられた。多分チエーリンやキタイスカヤ《ハルピンの中心街》の古本屋を丹念に探して買い集めた蔵書をそっくり残して来られたのだと思う。中には今のロシア本国でも手に入らぬものもあったに違いない。わがことのように惜しまれる。

これもある日のこと。航海中には引揚者慰問のために船の乗組員が素人演芸をする時間があり、甲板の上の仮設舞台で私がその頃習っていたマンドリンの独奏をした。すると聴衆の中に宮田寿良がいて、やあやあと再会を喜んだのだが、〝何とへボな演奏だろう″と思いながらよくよく見たら河西だった、ということらしい。彼が私の芸(今では囲碁だが)をへボと決めているのは、あの時の記憶が残っているせいだと思う。他に会ったのは二十四期の国政清士君だけで、同窓のシベリア虜囚二三八人の中にはそれと気付かず通過した人も何人かいたと思う。

 大連地区は終りかかっていたが、ナホトカは遅々として進まなかった。冬場が近づくとソ連は港の結氷その他を理由に送り出しを中断してしまった。アメリカが砕氷船の配船を申入れたが、これも拒絶した。要するに少しでも長く使役すること、その間により徹底して洗脳することを計ったのだが、日本全土の引揚促進運動と連合諸国の非難、追求のため、やむなくチョロチョロと続けるという状態が続いた。

 昭和二十四年になると引揚者の様相が急変する。洗脳《せんのう=共産主義者に思想改造を図る》というもののおぞましさ、熱病にうかされたように狂ってしまった日本人の情けなさを痛感する日々が続くようになる。ナホトカの岸壁では整列した引揚者を前にして、乗船直前までアクチブがアジ演説《大衆を煽動する演説》をブッている。「この船は日本の資本家の船であーる。アメリカ、日本の資本主義打倒のために、我々は日本に上陸するのであーる」などとやっている。船内でもインターナショナル《共産主義的労働歌》を合唱したり、上陸に必要な書類の記入を拒否するので入港しても上陸が出来ないケースも頻発する。

ある船では極く些細なことを理由に船長を吊し上げて謝罪を要求したり、上陸しても指定列車に乗らず勝手な行動に走り、それを各地で日本共産党が出迎えて忽ち政治集会や示威運動をおっぱじめたり、家族の出迎えをふりきって代々木に直行して集団入党したり、官庁に不当な要求をつきつけて座り込みストをやったり、手がつけられない狂気の行動をくりひろげて大いに官民を困惑させたものである。

初めのうちは日本の当局も、せっかく苦労して帰国した人達だから、と腫れものにさわるようにしていたのだが、八月に至り、これ以上許せぬということになって「引揚者といえども不法行為は取り締れ」との国警長官から全国への通達が出されて取り締りが開始された。すると妙なことにその次に入港の船から、船内での書類記入拒否運動がピタリとやんだのである。

これは引揚者の行動が日本の世論に反感を呼び起こして赤化政策《共産主義を浸透させる政策》にマイナスであることをソ連大使館が本国に連絡し、それが収容所長からアクチブへの指示となって作戦変更になったものに違いなく、常にこのような連携運動が行われていたことの証拠とされている。

 それにしても分からないのは洗脳である。教化されたフリをするならわかる。拒絶は死につながるなら生きるための偽態《ぎたい=偽りの態度》でもあるが、それも敵地にある間だけのことだ。いくら情報を遮断されて洗脳を続けられたとしても、「ダモイ」《帰国》とだまされてシベリアの奥につれ込まれたのは事実だし、奴隷労働でこき使われながら、そのソ連を心から礼賛し、スターリンに感謝し、母国を敵視することがどうして出来るのか。もちろん全員ではなかったにしても、この時期の半分か三分の一くらいはそうだったのである。

それにシベリアに抑留されたのは日本人だけではない。ソ連軍に捕らえられたドイツ人捕虜四十万がいた。彼等も労働には従事していたが、日本人のようにマルクス主義を熱狂的に受入れたり、積極的に思想の宣伝活動をすることは全くなかったという。なかには「この次にやる時にはロスケなどには決して負けない」と意気軒昂なのもいたという。この差はどこから来るのだろう。

 しかし引揚者達の赤い熱狂も結局長くは続かなかった。それぞれ故郷に帰って日本の実情が分かるにつれて、急速に目からうろこが落ちてしまった。その顕著な例をわが友Sに見る。その頃帰国した彼がたしか小林(佐竹)にあてた手紙を見せて貰ったことがあるが、それは学院の同窓が日本の共産主義革命に挺身していないことを厳しく難詰《なんきつ=欠点を上げ相手を激しく非難する》する内容だった。あのシニカルな彼にして……と驚いたのだが、その後京都市役所に入って出張で上京して来たので、一緒に碁を打った後、いっぱいやりながらその信条を聞くべく、その手紙のことを口にしたら「いやー、あれは……」と頭をかいて大いに赤面し、口をつぐんでしまった。早くも憑きものは跡形もなく落ちていたのである。

洗脳した引揚者を日本に送り込むことによって日本共産党の勢力が伸張したか、といえば、逆にその頃を境に低落したことが選挙の結果で明らかになっている。ソ連の日本赤化計画《日本を共産主義国家にする計画》はほとんど成果を挙げることなく終わった。だが日本人の脳をあれほど侵食した妖怪も、所詮は目かくしと背中につきつけられたピストルが外されれば存続しえないものであることが誰の目にも否応なく明らかになるまでには、あの頃からなお四十余年の歳月を要したのである。

 昭和二十五年も末になってやっと引揚げの大部分は終わったが、内藤操を含む最後の組、一千余人が日本の土を踏んだのは昭和三十一年の暮も押しつまった頃、終戦から既に十一年余りが経過していた。
                    (おわり)

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あんみつ姫

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