引揚げ船のころ(1)
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投稿日時 2007/11/29 7:29
あんみつ姫
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 485
哈爾浜《ハルピン》学院21期生 河西 明
裏日本、舞鶴港。すごく底冷えがする。鉛色の空。雪がチラチラ舞う。のったりとゆれている錆びたブイの上に鴎が四、五羽。雪で白くなった岸壁の中程にその船は黒い船体を横たえていた。
東京で乗船する様に指示された引揚船、大久丸。見るからに急ごしらえという感じの戦時標準型の七千屯の貨物船。戦中は此の型の船を突貫工事で二十日間で一隻作ったという。船尾に書かれた船名もペンキがはげかかっている。
昭和二十一年の暮も押しっまった或る日の夕方、僅かばかりの身の廻り品を入れたボストンバッグ一つをさげて、すべらぬ様に気をつけながらその船のあぶなかしい急なタラップを上った。敗戦の日から既に一年以上が経過していた。
終戦による混乱、連合国《注1》による占領、という重圧の他に日本は大きな難題をかかえていた。それは海外に残された多数の同胞の引取りである。その数軍人、一般人合わせて六百五十万。逆に日本から出国しようとする中国、朝鮮、その他の外国人が百二十万。この様な規模の民族の大移動は世界史にもその例がないという。
外地で生活の基盤を失い、または武装解除《ぶそうかいじょ=投降者などから強制的に武器を取り上げる》された同胞の引取りは一日でも早めねばならない時間との戦いである。だが疲弊《ひへい=疲れ弱った》し切った我が国にとって、それは難事業であった。第一船が足りない。外航船舶の多くは戦時中に撃沈され、残存艦船を総動員しても四、五年はかかるとみられていた。
これをみたアメリカは米軍の補給用に使っていたリバティ型貨物船《注2》と大型上陸用舟艇《戦時に敵国に強制上陸をする為の船》計二百隻を引揚げ用に提供したので、これに日本人船員が乗り組み、敗戦後日ならずして南方及び中国大陸からの復員、引揚げを開始することが出来た。満州《まんしゅう 注3》の一般邦人をコロ島《注4》 から運んで来たのも主に此の米船だった。
もう一つ引揚げを容易にした要因として例の蒋介石《しょうかいせき=中国国民政府主席-》の「暴にむくゆるに暴を以ってせず」の宣言がある。敗戦から僅か一年数カ月の間に中国大陸及び台湾から二百五十万の旧軍人、一般人が僅かな損耗率で祖国の土を踏む事が出来た背景には、この宣言が国民政府とその軍に徹底されていた事実があったことは否定できない。
引揚げはかくて当初予想も出来なかった早い速度で進んだが、唯一の例外はソ連軍が侵入支配したためにソ連地区と呼ばれた満州、関東州《注5》、樺太《カラフト=現在ロシアのサハリン》、北朝鮮であった。
特に満州、関東州は状況がわからず、武装解除された六十万将兵を「ダモイ」《帰国》とだましてシベリアの奥深くつれ去ったことも、ソ連兵によって各都市の一般人に加えられたすざまじい掠奪と婦女暴行も知るすべはなかった。日本朝野《政府も国民も》の焦燥をよそにソ連は沈黙に徹し何一つ知らせようとしなかった。当時これは「沈黙のカーテン」と呼ばれた。
注1 敗戦時 占領政策を米国を代表として英国、中国、ソ連、オーストラリア、オランダ、ニュウジランド、インド、ヒリピンが連合して行なった
注2 大量建造を目的に戦時標準型として定めた船
注3 中国東北部に1923~1945我が国の国策として満州国を建国させた
注4 中国遼東半島の渤海湾に面した北側の町で島ではない
注5 1905年日露戦争終結時 ポーツマス条約によりロシアから遼東半島先端部より南満州鉄道付属地の租借権を引き継ぐ現在の旅順、大連地域の日本での呼び名
裏日本、舞鶴港。すごく底冷えがする。鉛色の空。雪がチラチラ舞う。のったりとゆれている錆びたブイの上に鴎が四、五羽。雪で白くなった岸壁の中程にその船は黒い船体を横たえていた。
東京で乗船する様に指示された引揚船、大久丸。見るからに急ごしらえという感じの戦時標準型の七千屯の貨物船。戦中は此の型の船を突貫工事で二十日間で一隻作ったという。船尾に書かれた船名もペンキがはげかかっている。
昭和二十一年の暮も押しっまった或る日の夕方、僅かばかりの身の廻り品を入れたボストンバッグ一つをさげて、すべらぬ様に気をつけながらその船のあぶなかしい急なタラップを上った。敗戦の日から既に一年以上が経過していた。
終戦による混乱、連合国《注1》による占領、という重圧の他に日本は大きな難題をかかえていた。それは海外に残された多数の同胞の引取りである。その数軍人、一般人合わせて六百五十万。逆に日本から出国しようとする中国、朝鮮、その他の外国人が百二十万。この様な規模の民族の大移動は世界史にもその例がないという。
外地で生活の基盤を失い、または武装解除《ぶそうかいじょ=投降者などから強制的に武器を取り上げる》された同胞の引取りは一日でも早めねばならない時間との戦いである。だが疲弊《ひへい=疲れ弱った》し切った我が国にとって、それは難事業であった。第一船が足りない。外航船舶の多くは戦時中に撃沈され、残存艦船を総動員しても四、五年はかかるとみられていた。
これをみたアメリカは米軍の補給用に使っていたリバティ型貨物船《注2》と大型上陸用舟艇《戦時に敵国に強制上陸をする為の船》計二百隻を引揚げ用に提供したので、これに日本人船員が乗り組み、敗戦後日ならずして南方及び中国大陸からの復員、引揚げを開始することが出来た。満州《まんしゅう 注3》の一般邦人をコロ島《注4》 から運んで来たのも主に此の米船だった。
もう一つ引揚げを容易にした要因として例の蒋介石《しょうかいせき=中国国民政府主席-》の「暴にむくゆるに暴を以ってせず」の宣言がある。敗戦から僅か一年数カ月の間に中国大陸及び台湾から二百五十万の旧軍人、一般人が僅かな損耗率で祖国の土を踏む事が出来た背景には、この宣言が国民政府とその軍に徹底されていた事実があったことは否定できない。
引揚げはかくて当初予想も出来なかった早い速度で進んだが、唯一の例外はソ連軍が侵入支配したためにソ連地区と呼ばれた満州、関東州《注5》、樺太《カラフト=現在ロシアのサハリン》、北朝鮮であった。
特に満州、関東州は状況がわからず、武装解除された六十万将兵を「ダモイ」《帰国》とだましてシベリアの奥深くつれ去ったことも、ソ連兵によって各都市の一般人に加えられたすざまじい掠奪と婦女暴行も知るすべはなかった。日本朝野《政府も国民も》の焦燥をよそにソ連は沈黙に徹し何一つ知らせようとしなかった。当時これは「沈黙のカーテン」と呼ばれた。
注1 敗戦時 占領政策を米国を代表として英国、中国、ソ連、オーストラリア、オランダ、ニュウジランド、インド、ヒリピンが連合して行なった
注2 大量建造を目的に戦時標準型として定めた船
注3 中国東北部に1923~1945我が国の国策として満州国を建国させた
注4 中国遼東半島の渤海湾に面した北側の町で島ではない
注5 1905年日露戦争終結時 ポーツマス条約によりロシアから遼東半島先端部より南満州鉄道付属地の租借権を引き継ぐ現在の旅順、大連地域の日本での呼び名
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あんみつ姫
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戦争終結後の引揚げの法的根拠はポツダム宣言の第九条にある。そこには「武装解除された後の日本軍隊は各自の家庭に復帰し、平和な生活を営む機会が与えられる」と規定されている。日本がポツダム宣言を受諾した以上、連合国側も此の条項に従って旧日本軍人を即刻引揚げさせる義務があった。一般人についての規定はなかったが、人道上旧軍人に準ずべきもの、として取り扱われた。
だからアメリカは船舶を提供して引揚げを促進したし、他の連合国も早期帰還につとめた。ひとりソ連《ソビエト連邦共和国現在のロシア》のみがこれをふみにじった。ソ連のやったことは八月九日の日ソ中立条約《注1》侵犯だけではないのだ。
シベリア抑留《注2》について日本がソ連を、あるいはその後継者を自称するロシアを許してはならないのは、それが人道にもとる奴隷労働で、そのために多数の同胞を殺した、というだけではない。戦争を終わらせるための「条約」として日本につきつけ、日本が受け入れたその「宣言」を自分の方は平然と踏みにじった、その事にある。
昭和二十一年になって沈黙のカーテンに一つの穴があく事件があった。三人の在満日本人が中国人に変装して汽車に乗り、山海関《さんかいかん=中国東北部万里の長城東端にある町》を抜けて天津《てんしん=中国東北部にある中央直轄地で対外開放港》に入り、駐留していた米軍の助力を得て日本に渡り、満州の実情を政府要人、マスコミその他に広く伝えたため、初めてその惨状が明らかになり、朝野《ちょうや=政府も民間も》は大きな衝撃につつまれた。此の三人は直接マッカーサーにも面会し援助を要請している。
これ以後ソ連地区からの引揚促進運動は日本全土で一層活発となり、国会決議、各地での促進大会、陳情、《ちんじょう=実情を述べ御願いする》一千万人署名のソ連大使館提出等々ほとんど連日のように行事が相次いだが、日本は外交権を持たなかったから、結局はマッカーサーに訴えて米ソ間の交渉にゆだねるしか仕方がなかった。
当時東京に連合国対日理事会というものがあり、米ソ中及び英連邦グループの四者の代表で構成され、二週間に一回の定例会議で日本の占領政策を審議し、最高司令官(マッカーサー)にアドバイスするための組織とされていた。
ソ連の代表はデレビヤンコ中将で、ずんぐりした横幅の広い体躯の見るからに倣岸《ごうがん=でかい態度で人に接する》な人物だった。対日理事会は本来の審議機関としてはほとんど機能せず、すでに始まっていた米ソの冷戦《注3》が火花を散らす場と化していたのだが、やがてソ連地区からの引揚げ問題が主要な議題として再々取り上げられるようになった。
スターリンは北海道にソ連軍を進駐させて日本を分割占領することを要求したのだが、ドイツの四カ国占領による失敗を経験したアメリカがこれを拒否したことから、以後ソ連はアメリカ主導の占領政策にことごとに制肘《せいちゅう=側から干渉して自由な行動をさせない》を加えて妨害した。
一方、アメリカ及び他の連合国代表はソ連に対し早期引揚げ開始を要求し、はとんど毎日激論が続いたが、昭和二十一年十二月に至り、ようやくソ連は引揚げ開始にしぶしぶ同意し、米ソ間に協定が成立した。
ソ連は毎月五万人の送還を約束し、此の数字も結局その通りには履行されなかったのだが、ともかくも引揚げ開始のベースが出来たので、日本側も配船準備を進めることが出来るようになった。現地でのソ連官憲との折衝や書類作成などがあるので各船にロシア語通訳一名が乗船することになり、私もその一人となった。この仕事を斡旋してくれたのは外務省にいた松原進である。小雪の舞う舞鶴港で大久丸に乗船するまでの間には概略以上のような経緯があった。
注1 1941年4月我が国とソビエト連邦共和国とがお互い侵入しないと条文を作り約束する しかし1945年8月一方的にソ連が破棄して満州に侵入してきた
注2 第二次世界大戦末期にソ連軍が満州に(注2-1)侵攻し日本人捕虜を主にシベリアやモンゴルに抑留し 強制労働に使役した
注2-1 1932~1945中国東北部に我が国の国策により建国された満州国があった
注3 第二次大戦後 戦勝国である米ソは その巨大な軍事力を抱え 激しく対立した
だからアメリカは船舶を提供して引揚げを促進したし、他の連合国も早期帰還につとめた。ひとりソ連《ソビエト連邦共和国現在のロシア》のみがこれをふみにじった。ソ連のやったことは八月九日の日ソ中立条約《注1》侵犯だけではないのだ。
シベリア抑留《注2》について日本がソ連を、あるいはその後継者を自称するロシアを許してはならないのは、それが人道にもとる奴隷労働で、そのために多数の同胞を殺した、というだけではない。戦争を終わらせるための「条約」として日本につきつけ、日本が受け入れたその「宣言」を自分の方は平然と踏みにじった、その事にある。
昭和二十一年になって沈黙のカーテンに一つの穴があく事件があった。三人の在満日本人が中国人に変装して汽車に乗り、山海関《さんかいかん=中国東北部万里の長城東端にある町》を抜けて天津《てんしん=中国東北部にある中央直轄地で対外開放港》に入り、駐留していた米軍の助力を得て日本に渡り、満州の実情を政府要人、マスコミその他に広く伝えたため、初めてその惨状が明らかになり、朝野《ちょうや=政府も民間も》は大きな衝撃につつまれた。此の三人は直接マッカーサーにも面会し援助を要請している。
これ以後ソ連地区からの引揚促進運動は日本全土で一層活発となり、国会決議、各地での促進大会、陳情、《ちんじょう=実情を述べ御願いする》一千万人署名のソ連大使館提出等々ほとんど連日のように行事が相次いだが、日本は外交権を持たなかったから、結局はマッカーサーに訴えて米ソ間の交渉にゆだねるしか仕方がなかった。
当時東京に連合国対日理事会というものがあり、米ソ中及び英連邦グループの四者の代表で構成され、二週間に一回の定例会議で日本の占領政策を審議し、最高司令官(マッカーサー)にアドバイスするための組織とされていた。
ソ連の代表はデレビヤンコ中将で、ずんぐりした横幅の広い体躯の見るからに倣岸《ごうがん=でかい態度で人に接する》な人物だった。対日理事会は本来の審議機関としてはほとんど機能せず、すでに始まっていた米ソの冷戦《注3》が火花を散らす場と化していたのだが、やがてソ連地区からの引揚げ問題が主要な議題として再々取り上げられるようになった。
スターリンは北海道にソ連軍を進駐させて日本を分割占領することを要求したのだが、ドイツの四カ国占領による失敗を経験したアメリカがこれを拒否したことから、以後ソ連はアメリカ主導の占領政策にことごとに制肘《せいちゅう=側から干渉して自由な行動をさせない》を加えて妨害した。
一方、アメリカ及び他の連合国代表はソ連に対し早期引揚げ開始を要求し、はとんど毎日激論が続いたが、昭和二十一年十二月に至り、ようやくソ連は引揚げ開始にしぶしぶ同意し、米ソ間に協定が成立した。
ソ連は毎月五万人の送還を約束し、此の数字も結局その通りには履行されなかったのだが、ともかくも引揚げ開始のベースが出来たので、日本側も配船準備を進めることが出来るようになった。現地でのソ連官憲との折衝や書類作成などがあるので各船にロシア語通訳一名が乗船することになり、私もその一人となった。この仕事を斡旋してくれたのは外務省にいた松原進である。小雪の舞う舞鶴港で大久丸に乗船するまでの間には概略以上のような経緯があった。
注1 1941年4月我が国とソビエト連邦共和国とがお互い侵入しないと条文を作り約束する しかし1945年8月一方的にソ連が破棄して満州に侵入してきた
注2 第二次世界大戦末期にソ連軍が満州に(注2-1)侵攻し日本人捕虜を主にシベリアやモンゴルに抑留し 強制労働に使役した
注2-1 1932~1945中国東北部に我が国の国策により建国された満州国があった
注3 第二次大戦後 戦勝国である米ソは その巨大な軍事力を抱え 激しく対立した
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明けて昭和二十二年になると日本船も逐次整備されて戦列に加わり、舞鶴、北海道合わせて三十隻近くになった。米ソ間の見えざる軋轢《あつれき=不和、葛藤、中が悪くなる》もあったし、大連では入港した米船とソ連軍との間にトラブルが発生したりしたので、ソ連地区に入る引揚船には米船を用いず、専ら日本船のみを使用することになった。
その通訳陣の中には学院出身者が少なくなかった。記憶にあるだけでも藤田大介氏(十四期)、相沢潔氏(十五期)、秋元哲雄氏(十七期)、桝井渉氏(二十期)、内田義雄氏(二十二期、故人)、佐藤一成氏(二十三期)、名前は忘れたが他に後輩一名。そのほかにも顔を合わせる機会のなかった同窓がいたかもしれない。皆おっとり刀で馳せ参じた面々であった。
【注】これは1992年に書かれたもので、既に故人となられた方が多い。河西 明さんも2007年11月に身罷られた。
旅順・大連をソ連が支配
一月某日、大連《だいれん=中国遼東半島先端の町》に向けて出港。冬の日本海の荒れ方は半端ではない。三日目に入る。思えばあれは七年前、二十一期の合格者が東京青山に集合して神戸から乗船し、瀬戸内海から関門海峡を抜けて大連に上陸。旅順の戦跡を見学してからハルビンに向かったのはつい昨日のように思い出される。あの時の大連は殷賑《いんしん=盛んに。賑やかに》を極めていた。ところが今目の前に現れたのは人っ子一人いない荒涼とした岸壁だけだ。これが本当にあの大連か?
着岸した舟の船長室にソ連軍の佐官が二人入って来た。中佐の肩章をつけた方は横柄な口調で収容所長代理だと名乗った。
満州と関東州の日本の権益が消滅したら、主権は中国に戻るはずだ。満州に侵入したソ連軍は翌年五月には既にソ連領に撤退したにもかかわらず、大連地区にだけは大きな顔をして居座っていた理由はヤルタの密約にある。
昭和二十年二月の米英ソ三首脳の密約で、ドイツ降伏後三カ月以内に対日戦を開始する条件としてスターリン《ソビエト連邦共和国総書記-》は樺太《からふと=現在ロシアのサハリン》・千島《千島列島》のはかに、旅順《中国遼東半島先端の港町》を海軍基地として租借、大連港の優先使用、満州内の鉄道を中ソ合弁にしてソ連が優先使用、などを認めさせた。これは主権国たる中国を無視した密約であった。しかもスターリンは、この内容を中国に承諾させる交渉をルーズベルトに押しつけた。
ソ連の対日参戦をあせったためにしてやられたルーズベルトは締結直後に後悔し、スターリンのもとに特使を派遣して変更を求めたが一蹴《いっしゅう=すげなく断る》され、歴史的失敗を残して四月に死亡した。中国は六月になって、この内容をアメリカから知らされ驚愕《きょうがく=驚く》したが、アメリカの援助を必要としていた中国はやむなく同意し、その内容で八月に中ソ友好同盟条約を結んだ。
その結果、ソ連軍侵攻後旅順はソ連軍の基地となり、大連はソ連軍司令部が支配し、大連港長にはソ連軍人がおさまって事実上自国の港として使用した。ソ連の大連・旅順支配はその後十年にわたって続くのである。「日露戦争の復讐をした。」というあの有名なスターリン演説は、ポーツマス条約《注》で日本がロシアから獲得したもの、その後営々と築いたものを、僅か十日間の侵攻で、そっくり濡れ手に粟で手中にした高笑いである。
大連は国際自由港とすることがヤルタでも中ソ条約でも定められていたが、実際は旅順軍事基地の領域内であることを理由にソ連は米軍艦船の入港を拒否し、また重慶《じゅうけい=中国四川省の四川盆地にある都市》の国民政府から迎え入れることが決められていた市長の到着もさまざまな口実を設けて妨害し、入らせなかった。その最大の目的は、侵攻後間もなく始められた大量の工場設備の解体搬出を秘匿《ひとく=隠して他人に見せない》するためであった。
日本の惜しみない投資によって大連地区には優秀なエ場が多数あったが、ソ連は抑留中の一般日本人を使って次々と解体して運び去った。港の倉庫にあった大量の物資も、岸壁に野積みになっていた石炭までも残らず持ち去った。最後にはこれも日本人の技術者を使って岸壁に林立するクレーンを解体して運び去った。
入港した時に見た荒涼たる港の風景は、この根こそぎ掠奪《りゃくだつ=力ずくで奪い取る》の結果であった。満州全土でソ連が掠奪した工場設備などについては二種類の調査資料があるが、その総額は当時の評価額でいずれも九億ドルに近い。今日の貨幣価値では十兆円をはるかに超えるであろう。ソ連が満州の権益を中国に返還し、旅順からも撤退するのはフルシチョフ・毛沢東の中ソ蜜月時代になってからである。
注 1905年日露戦争終結時 ポーツマス条約により ロシアから遼東半島の先端部から南満州鉄道付属地の租借権を引き継ぐ
その通訳陣の中には学院出身者が少なくなかった。記憶にあるだけでも藤田大介氏(十四期)、相沢潔氏(十五期)、秋元哲雄氏(十七期)、桝井渉氏(二十期)、内田義雄氏(二十二期、故人)、佐藤一成氏(二十三期)、名前は忘れたが他に後輩一名。そのほかにも顔を合わせる機会のなかった同窓がいたかもしれない。皆おっとり刀で馳せ参じた面々であった。
【注】これは1992年に書かれたもので、既に故人となられた方が多い。河西 明さんも2007年11月に身罷られた。
旅順・大連をソ連が支配
一月某日、大連《だいれん=中国遼東半島先端の町》に向けて出港。冬の日本海の荒れ方は半端ではない。三日目に入る。思えばあれは七年前、二十一期の合格者が東京青山に集合して神戸から乗船し、瀬戸内海から関門海峡を抜けて大連に上陸。旅順の戦跡を見学してからハルビンに向かったのはつい昨日のように思い出される。あの時の大連は殷賑《いんしん=盛んに。賑やかに》を極めていた。ところが今目の前に現れたのは人っ子一人いない荒涼とした岸壁だけだ。これが本当にあの大連か?
着岸した舟の船長室にソ連軍の佐官が二人入って来た。中佐の肩章をつけた方は横柄な口調で収容所長代理だと名乗った。
満州と関東州の日本の権益が消滅したら、主権は中国に戻るはずだ。満州に侵入したソ連軍は翌年五月には既にソ連領に撤退したにもかかわらず、大連地区にだけは大きな顔をして居座っていた理由はヤルタの密約にある。
昭和二十年二月の米英ソ三首脳の密約で、ドイツ降伏後三カ月以内に対日戦を開始する条件としてスターリン《ソビエト連邦共和国総書記-》は樺太《からふと=現在ロシアのサハリン》・千島《千島列島》のはかに、旅順《中国遼東半島先端の港町》を海軍基地として租借、大連港の優先使用、満州内の鉄道を中ソ合弁にしてソ連が優先使用、などを認めさせた。これは主権国たる中国を無視した密約であった。しかもスターリンは、この内容を中国に承諾させる交渉をルーズベルトに押しつけた。
ソ連の対日参戦をあせったためにしてやられたルーズベルトは締結直後に後悔し、スターリンのもとに特使を派遣して変更を求めたが一蹴《いっしゅう=すげなく断る》され、歴史的失敗を残して四月に死亡した。中国は六月になって、この内容をアメリカから知らされ驚愕《きょうがく=驚く》したが、アメリカの援助を必要としていた中国はやむなく同意し、その内容で八月に中ソ友好同盟条約を結んだ。
その結果、ソ連軍侵攻後旅順はソ連軍の基地となり、大連はソ連軍司令部が支配し、大連港長にはソ連軍人がおさまって事実上自国の港として使用した。ソ連の大連・旅順支配はその後十年にわたって続くのである。「日露戦争の復讐をした。」というあの有名なスターリン演説は、ポーツマス条約《注》で日本がロシアから獲得したもの、その後営々と築いたものを、僅か十日間の侵攻で、そっくり濡れ手に粟で手中にした高笑いである。
大連は国際自由港とすることがヤルタでも中ソ条約でも定められていたが、実際は旅順軍事基地の領域内であることを理由にソ連は米軍艦船の入港を拒否し、また重慶《じゅうけい=中国四川省の四川盆地にある都市》の国民政府から迎え入れることが決められていた市長の到着もさまざまな口実を設けて妨害し、入らせなかった。その最大の目的は、侵攻後間もなく始められた大量の工場設備の解体搬出を秘匿《ひとく=隠して他人に見せない》するためであった。
日本の惜しみない投資によって大連地区には優秀なエ場が多数あったが、ソ連は抑留中の一般日本人を使って次々と解体して運び去った。港の倉庫にあった大量の物資も、岸壁に野積みになっていた石炭までも残らず持ち去った。最後にはこれも日本人の技術者を使って岸壁に林立するクレーンを解体して運び去った。
入港した時に見た荒涼たる港の風景は、この根こそぎ掠奪《りゃくだつ=力ずくで奪い取る》の結果であった。満州全土でソ連が掠奪した工場設備などについては二種類の調査資料があるが、その総額は当時の評価額でいずれも九億ドルに近い。今日の貨幣価値では十兆円をはるかに超えるであろう。ソ連が満州の権益を中国に返還し、旅順からも撤退するのはフルシチョフ・毛沢東の中ソ蜜月時代になってからである。
注 1905年日露戦争終結時 ポーツマス条約により ロシアから遼東半島の先端部から南満州鉄道付属地の租借権を引き継ぐ
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あんみつ姫
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夜の船上で日本人労組幹部へ復讐劇
大久丸が一般邦人の引取りを無事にすませて、夕方近く九州佐世保に向けて出港したその晩のことである。夜中にトイレに起きてみると、後部甲板で何やら人声がして騒々しい。何事だろうと外套をひっかけて甲板に出て見ると二、三カ所に人垣が出来ており、それぞれの真ん中にはパンツもつけない全裸の男が立たされている。中には二メートルほどの高さのデレックの上に押し上げられてガタガタふるえながら立っている者もいる。
真冬の玄界灘、気温は零下。とりかこんだ男達はこもごもその男の行った非道、悪業を糾弾《きゅうだん=罪状や責任を問いただして とがめる》し、ののしっている。男達だけではない、涙ながらに訴えている女性もいる。〝赤カブ野郎!″などという罵声もとぶ。赤カブとはうわべだけコムニスト《共産主義者》のふりをして左翼の幹部にとり入り、うまく立ち回った者だという。
ひとしきり吊し上げ《大勢で特定の人を問い詰めて尋問する》が終わると今度はよってたかってなぐりつける。鮮血がとび、ぶったおれて動かなくなると別な男の名が呼び上げられ、船倉から引きずり出されて来て衣服をはぎ取られる。皆激昂《げっこう=激しく怒る》し、いきり立っているからとても止められるものではない。
中には矢張り起き出して来て見物していた船の乗組員までが悲憤慷慨《ひふんこうがい=運命や世の中の不正を嘆き悲しみ憤る》して一緒になってなぐっているのもいる。悲惨な深夜の復讐劇の対象となっていたのは大連の日本人労働組の幹部やその手先達であった。
日本人労組は敗戦の数カ月後にソ連軍司令部の肝入《きもいり=あれこれ世話や斡旋する》りで結成され、それまであった幾つかの組織は解散させられて大連二十万の居留民に君臨する唯一の組織となり、その役員には満鉄調査部事件《注1-》で追放になった者や何等かの形で左翼運動をして来たコムニスト達八名が就任し、十ばかりの支部に組合員数千人を擁する組織であった。食糧の買付けなどのために必要だったことも事実だが、一般人からの金銭財産の徴発は苛烈《かれつ=厳しく激しい》を極め、特にそれまでの有力者や資産家達を目のかたきにして根こそぎ収奪したという。
そのうちにマルクス主義《資本主義から社会主義への転換》の思想教育も行い、引揚げが近づくとその人選も手中に握り、反動的な者や財産供出の不十分な者は引揚げさせないと威圧したので誰も抵抗出来なかった。極限状態まで追いつめられた一般人をよそに自分達だけは結構な暮らしをしていたので怨嵯《えんさ=うらみ嘆く》の的になっていたわけだ。
八月二十二日ソ連軍が大連に入ってから以降、ソ連兵が日本人の家に押し入って行った個人財産の掠奪とあたりかまわぬ婦女子の凌辱《りょうじょく=人をあなどって辱める》は他の諸都市同様言語に絶するものであったから、ソ連に対する深い憎しみに加えて、その走狗《そおく=人の手足になって追い使われる》となって同胞を搾取迫害した組合員に対する恨みが二重になって乗船後一挙にふき出したものであろう。後日この労組委員長だった土岐某を糾弾《きゅうだん=罪状を調べ弾効する》する告訴状が一引揚者から参議院に提出され、国会への喚問《かんもん=呼び出して問いただす》が行われている。
大連地区の状況は引揚げが始まるまではほとんどわからなかったが、引揚げ第一船にやはり通訳として乗船した外務省の岡崎慶興君(二十二期、故人)が引揚者から聴取して作成したレポートが唯一の公式資料として残されているという。船内での復讐劇はどの船でも行われたし、船内だけでなく、日本に上陸してからの場合もあった。ナホトカ《ロシア沿海州の日本海に面する港湾都市》からの場合も、その前半期にはほとんど毎回のことであった。これは仲間を売った密告者や、いわゆる民主運動のアクチブ《能動的》に対するものであった。
あれは何回目の航海の時だったか、舞鶴港に入った時に一名不足していたことがあった。乗船する時にはタラップの下でソ連兵が数え、船上では船員数名が念入りに数えてソ連側の数字との合致を確認するのガが、下船した時の数がどうしても一名足りないのである。調べた結果、その消えた人は神経衰弱による投身自殺、ということで処理されたと聞いたが、あれはほうり込まれたのだろうと思う。航海中に殺された者、消えた者は十数名に達する、という非公式の記録もある。
フランクルの「夜と霧」にはアウシュビッツ《注2》で囚人を監視する囚人の記述がある。彼等はカポーと呼ばれた。囚人の中から選ばれてナチ《注3》将校の助手になったカポー達は先ず一般囚人から所持品を残らず奪いとった。さらに囚人達に対する取扱いはナチ将校よりも遥かに残虐、苛酷であったという。何とも忌まわしい記録だが、実は少なからぬカポーが大連にもシベリアの各地にもいたのである。アウシュビッツのカポーと異なる点は、自分達の正当性に、または口実に、イデオロギーを利用したことぐらいであろう。
ある日、復員局から全船に通達が出された。それ以降、言論による糾弾はかまわないが、暴力による報復をしてはならないこと、違反した場合は厳重処罰する、という船内放送が乗船直後から何回も繰り返されるようになり、「赤いカポー」に対する船内での復讐劇はようやく下火となった。
注1 1942~1943年にかけ 当時我が国内地での活動の場を失った左翼思想者の多くが満鉄に就職し マルクス主義的方法について 社会調査 分析をしていたのを 関東軍憲兵隊に検挙され 満鉄の調査部の機能が 麻痺した事件
注2 第二次世界大戦時 ドイツ ナチス党が推進した 人種主義的な 抑圧政策をユダヤ民族を対象に 最大級の惨劇が生まれた収容所
注3 国家社会主義ドイツ労働党で 1920年に結成され1933年にアドルフ ヒトラーが総統として率いたのが 通常ナチスと呼ばれた
大久丸が一般邦人の引取りを無事にすませて、夕方近く九州佐世保に向けて出港したその晩のことである。夜中にトイレに起きてみると、後部甲板で何やら人声がして騒々しい。何事だろうと外套をひっかけて甲板に出て見ると二、三カ所に人垣が出来ており、それぞれの真ん中にはパンツもつけない全裸の男が立たされている。中には二メートルほどの高さのデレックの上に押し上げられてガタガタふるえながら立っている者もいる。
真冬の玄界灘、気温は零下。とりかこんだ男達はこもごもその男の行った非道、悪業を糾弾《きゅうだん=罪状や責任を問いただして とがめる》し、ののしっている。男達だけではない、涙ながらに訴えている女性もいる。〝赤カブ野郎!″などという罵声もとぶ。赤カブとはうわべだけコムニスト《共産主義者》のふりをして左翼の幹部にとり入り、うまく立ち回った者だという。
ひとしきり吊し上げ《大勢で特定の人を問い詰めて尋問する》が終わると今度はよってたかってなぐりつける。鮮血がとび、ぶったおれて動かなくなると別な男の名が呼び上げられ、船倉から引きずり出されて来て衣服をはぎ取られる。皆激昂《げっこう=激しく怒る》し、いきり立っているからとても止められるものではない。
中には矢張り起き出して来て見物していた船の乗組員までが悲憤慷慨《ひふんこうがい=運命や世の中の不正を嘆き悲しみ憤る》して一緒になってなぐっているのもいる。悲惨な深夜の復讐劇の対象となっていたのは大連の日本人労働組の幹部やその手先達であった。
日本人労組は敗戦の数カ月後にソ連軍司令部の肝入《きもいり=あれこれ世話や斡旋する》りで結成され、それまであった幾つかの組織は解散させられて大連二十万の居留民に君臨する唯一の組織となり、その役員には満鉄調査部事件《注1-》で追放になった者や何等かの形で左翼運動をして来たコムニスト達八名が就任し、十ばかりの支部に組合員数千人を擁する組織であった。食糧の買付けなどのために必要だったことも事実だが、一般人からの金銭財産の徴発は苛烈《かれつ=厳しく激しい》を極め、特にそれまでの有力者や資産家達を目のかたきにして根こそぎ収奪したという。
そのうちにマルクス主義《資本主義から社会主義への転換》の思想教育も行い、引揚げが近づくとその人選も手中に握り、反動的な者や財産供出の不十分な者は引揚げさせないと威圧したので誰も抵抗出来なかった。極限状態まで追いつめられた一般人をよそに自分達だけは結構な暮らしをしていたので怨嵯《えんさ=うらみ嘆く》の的になっていたわけだ。
八月二十二日ソ連軍が大連に入ってから以降、ソ連兵が日本人の家に押し入って行った個人財産の掠奪とあたりかまわぬ婦女子の凌辱《りょうじょく=人をあなどって辱める》は他の諸都市同様言語に絶するものであったから、ソ連に対する深い憎しみに加えて、その走狗《そおく=人の手足になって追い使われる》となって同胞を搾取迫害した組合員に対する恨みが二重になって乗船後一挙にふき出したものであろう。後日この労組委員長だった土岐某を糾弾《きゅうだん=罪状を調べ弾効する》する告訴状が一引揚者から参議院に提出され、国会への喚問《かんもん=呼び出して問いただす》が行われている。
大連地区の状況は引揚げが始まるまではほとんどわからなかったが、引揚げ第一船にやはり通訳として乗船した外務省の岡崎慶興君(二十二期、故人)が引揚者から聴取して作成したレポートが唯一の公式資料として残されているという。船内での復讐劇はどの船でも行われたし、船内だけでなく、日本に上陸してからの場合もあった。ナホトカ《ロシア沿海州の日本海に面する港湾都市》からの場合も、その前半期にはほとんど毎回のことであった。これは仲間を売った密告者や、いわゆる民主運動のアクチブ《能動的》に対するものであった。
あれは何回目の航海の時だったか、舞鶴港に入った時に一名不足していたことがあった。乗船する時にはタラップの下でソ連兵が数え、船上では船員数名が念入りに数えてソ連側の数字との合致を確認するのガが、下船した時の数がどうしても一名足りないのである。調べた結果、その消えた人は神経衰弱による投身自殺、ということで処理されたと聞いたが、あれはほうり込まれたのだろうと思う。航海中に殺された者、消えた者は十数名に達する、という非公式の記録もある。
フランクルの「夜と霧」にはアウシュビッツ《注2》で囚人を監視する囚人の記述がある。彼等はカポーと呼ばれた。囚人の中から選ばれてナチ《注3》将校の助手になったカポー達は先ず一般囚人から所持品を残らず奪いとった。さらに囚人達に対する取扱いはナチ将校よりも遥かに残虐、苛酷であったという。何とも忌まわしい記録だが、実は少なからぬカポーが大連にもシベリアの各地にもいたのである。アウシュビッツのカポーと異なる点は、自分達の正当性に、または口実に、イデオロギーを利用したことぐらいであろう。
ある日、復員局から全船に通達が出された。それ以降、言論による糾弾はかまわないが、暴力による報復をしてはならないこと、違反した場合は厳重処罰する、という船内放送が乗船直後から何回も繰り返されるようになり、「赤いカポー」に対する船内での復讐劇はようやく下火となった。
注1 1942~1943年にかけ 当時我が国内地での活動の場を失った左翼思想者の多くが満鉄に就職し マルクス主義的方法について 社会調査 分析をしていたのを 関東軍憲兵隊に検挙され 満鉄の調査部の機能が 麻痺した事件
注2 第二次世界大戦時 ドイツ ナチス党が推進した 人種主義的な 抑圧政策をユダヤ民族を対象に 最大級の惨劇が生まれた収容所
注3 国家社会主義ドイツ労働党で 1920年に結成され1933年にアドルフ ヒトラーが総統として率いたのが 通常ナチスと呼ばれた
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あんみつ姫
あんみつ姫
居住地: メロウ倶楽部
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中田甫さん、宮田に会う
或る日舞鶴の市内を歩いていると、隊列を組んで歩いて来る引揚者の中に中田甫先生を見付け、思わずかけ寄って一緒に歩きながら二、三分話をしたが「残して来た原書が惜しくて……」と言っておられた。多分チエーリンやキタイスカヤ《ハルピンの中心街》の古本屋を丹念に探して買い集めた蔵書をそっくり残して来られたのだと思う。中には今のロシア本国でも手に入らぬものもあったに違いない。わがことのように惜しまれる。
これもある日のこと。航海中には引揚者慰問のために船の乗組員が素人演芸をする時間があり、甲板の上の仮設舞台で私がその頃習っていたマンドリンの独奏をした。すると聴衆の中に宮田寿良がいて、やあやあと再会を喜んだのだが、〝何とへボな演奏だろう″と思いながらよくよく見たら河西だった、ということらしい。彼が私の芸(今では囲碁だが)をへボと決めているのは、あの時の記憶が残っているせいだと思う。他に会ったのは二十四期の国政清士君だけで、同窓のシベリア虜囚二三八人の中にはそれと気付かず通過した人も何人かいたと思う。
大連地区は終りかかっていたが、ナホトカは遅々として進まなかった。冬場が近づくとソ連は港の結氷その他を理由に送り出しを中断してしまった。アメリカが砕氷船の配船を申入れたが、これも拒絶した。要するに少しでも長く使役すること、その間により徹底して洗脳することを計ったのだが、日本全土の引揚促進運動と連合諸国の非難、追求のため、やむなくチョロチョロと続けるという状態が続いた。
昭和二十四年になると引揚者の様相が急変する。洗脳《せんのう=共産主義者に思想改造を図る》というもののおぞましさ、熱病にうかされたように狂ってしまった日本人の情けなさを痛感する日々が続くようになる。ナホトカの岸壁では整列した引揚者を前にして、乗船直前までアクチブがアジ演説《大衆を煽動する演説》をブッている。「この船は日本の資本家の船であーる。アメリカ、日本の資本主義打倒のために、我々は日本に上陸するのであーる」などとやっている。船内でもインターナショナル《共産主義的労働歌》を合唱したり、上陸に必要な書類の記入を拒否するので入港しても上陸が出来ないケースも頻発する。
ある船では極く些細なことを理由に船長を吊し上げて謝罪を要求したり、上陸しても指定列車に乗らず勝手な行動に走り、それを各地で日本共産党が出迎えて忽ち政治集会や示威運動をおっぱじめたり、家族の出迎えをふりきって代々木に直行して集団入党したり、官庁に不当な要求をつきつけて座り込みストをやったり、手がつけられない狂気の行動をくりひろげて大いに官民を困惑させたものである。
初めのうちは日本の当局も、せっかく苦労して帰国した人達だから、と腫れものにさわるようにしていたのだが、八月に至り、これ以上許せぬということになって「引揚者といえども不法行為は取り締れ」との国警長官から全国への通達が出されて取り締りが開始された。すると妙なことにその次に入港の船から、船内での書類記入拒否運動がピタリとやんだのである。
これは引揚者の行動が日本の世論に反感を呼び起こして赤化政策《共産主義を浸透させる政策》にマイナスであることをソ連大使館が本国に連絡し、それが収容所長からアクチブへの指示となって作戦変更になったものに違いなく、常にこのような連携運動が行われていたことの証拠とされている。
それにしても分からないのは洗脳である。教化されたフリをするならわかる。拒絶は死につながるなら生きるための偽態《ぎたい=偽りの態度》でもあるが、それも敵地にある間だけのことだ。いくら情報を遮断されて洗脳を続けられたとしても、「ダモイ」《帰国》とだまされてシベリアの奥につれ込まれたのは事実だし、奴隷労働でこき使われながら、そのソ連を心から礼賛し、スターリンに感謝し、母国を敵視することがどうして出来るのか。もちろん全員ではなかったにしても、この時期の半分か三分の一くらいはそうだったのである。
それにシベリアに抑留されたのは日本人だけではない。ソ連軍に捕らえられたドイツ人捕虜四十万がいた。彼等も労働には従事していたが、日本人のようにマルクス主義を熱狂的に受入れたり、積極的に思想の宣伝活動をすることは全くなかったという。なかには「この次にやる時にはロスケなどには決して負けない」と意気軒昂なのもいたという。この差はどこから来るのだろう。
しかし引揚者達の赤い熱狂も結局長くは続かなかった。それぞれ故郷に帰って日本の実情が分かるにつれて、急速に目からうろこが落ちてしまった。その顕著な例をわが友Sに見る。その頃帰国した彼がたしか小林(佐竹)にあてた手紙を見せて貰ったことがあるが、それは学院の同窓が日本の共産主義革命に挺身していないことを厳しく難詰《なんきつ=欠点を上げ相手を激しく非難する》する内容だった。あのシニカルな彼にして……と驚いたのだが、その後京都市役所に入って出張で上京して来たので、一緒に碁を打った後、いっぱいやりながらその信条を聞くべく、その手紙のことを口にしたら「いやー、あれは……」と頭をかいて大いに赤面し、口をつぐんでしまった。早くも憑きものは跡形もなく落ちていたのである。
洗脳した引揚者を日本に送り込むことによって日本共産党の勢力が伸張したか、といえば、逆にその頃を境に低落したことが選挙の結果で明らかになっている。ソ連の日本赤化計画《日本を共産主義国家にする計画》はほとんど成果を挙げることなく終わった。だが日本人の脳をあれほど侵食した妖怪も、所詮は目かくしと背中につきつけられたピストルが外されれば存続しえないものであることが誰の目にも否応なく明らかになるまでには、あの頃からなお四十余年の歳月を要したのである。
昭和二十五年も末になってやっと引揚げの大部分は終わったが、内藤操を含む最後の組、一千余人が日本の土を踏んだのは昭和三十一年の暮も押しつまった頃、終戦から既に十一年余りが経過していた。
(おわり)
或る日舞鶴の市内を歩いていると、隊列を組んで歩いて来る引揚者の中に中田甫先生を見付け、思わずかけ寄って一緒に歩きながら二、三分話をしたが「残して来た原書が惜しくて……」と言っておられた。多分チエーリンやキタイスカヤ《ハルピンの中心街》の古本屋を丹念に探して買い集めた蔵書をそっくり残して来られたのだと思う。中には今のロシア本国でも手に入らぬものもあったに違いない。わがことのように惜しまれる。
これもある日のこと。航海中には引揚者慰問のために船の乗組員が素人演芸をする時間があり、甲板の上の仮設舞台で私がその頃習っていたマンドリンの独奏をした。すると聴衆の中に宮田寿良がいて、やあやあと再会を喜んだのだが、〝何とへボな演奏だろう″と思いながらよくよく見たら河西だった、ということらしい。彼が私の芸(今では囲碁だが)をへボと決めているのは、あの時の記憶が残っているせいだと思う。他に会ったのは二十四期の国政清士君だけで、同窓のシベリア虜囚二三八人の中にはそれと気付かず通過した人も何人かいたと思う。
大連地区は終りかかっていたが、ナホトカは遅々として進まなかった。冬場が近づくとソ連は港の結氷その他を理由に送り出しを中断してしまった。アメリカが砕氷船の配船を申入れたが、これも拒絶した。要するに少しでも長く使役すること、その間により徹底して洗脳することを計ったのだが、日本全土の引揚促進運動と連合諸国の非難、追求のため、やむなくチョロチョロと続けるという状態が続いた。
昭和二十四年になると引揚者の様相が急変する。洗脳《せんのう=共産主義者に思想改造を図る》というもののおぞましさ、熱病にうかされたように狂ってしまった日本人の情けなさを痛感する日々が続くようになる。ナホトカの岸壁では整列した引揚者を前にして、乗船直前までアクチブがアジ演説《大衆を煽動する演説》をブッている。「この船は日本の資本家の船であーる。アメリカ、日本の資本主義打倒のために、我々は日本に上陸するのであーる」などとやっている。船内でもインターナショナル《共産主義的労働歌》を合唱したり、上陸に必要な書類の記入を拒否するので入港しても上陸が出来ないケースも頻発する。
ある船では極く些細なことを理由に船長を吊し上げて謝罪を要求したり、上陸しても指定列車に乗らず勝手な行動に走り、それを各地で日本共産党が出迎えて忽ち政治集会や示威運動をおっぱじめたり、家族の出迎えをふりきって代々木に直行して集団入党したり、官庁に不当な要求をつきつけて座り込みストをやったり、手がつけられない狂気の行動をくりひろげて大いに官民を困惑させたものである。
初めのうちは日本の当局も、せっかく苦労して帰国した人達だから、と腫れものにさわるようにしていたのだが、八月に至り、これ以上許せぬということになって「引揚者といえども不法行為は取り締れ」との国警長官から全国への通達が出されて取り締りが開始された。すると妙なことにその次に入港の船から、船内での書類記入拒否運動がピタリとやんだのである。
これは引揚者の行動が日本の世論に反感を呼び起こして赤化政策《共産主義を浸透させる政策》にマイナスであることをソ連大使館が本国に連絡し、それが収容所長からアクチブへの指示となって作戦変更になったものに違いなく、常にこのような連携運動が行われていたことの証拠とされている。
それにしても分からないのは洗脳である。教化されたフリをするならわかる。拒絶は死につながるなら生きるための偽態《ぎたい=偽りの態度》でもあるが、それも敵地にある間だけのことだ。いくら情報を遮断されて洗脳を続けられたとしても、「ダモイ」《帰国》とだまされてシベリアの奥につれ込まれたのは事実だし、奴隷労働でこき使われながら、そのソ連を心から礼賛し、スターリンに感謝し、母国を敵視することがどうして出来るのか。もちろん全員ではなかったにしても、この時期の半分か三分の一くらいはそうだったのである。
それにシベリアに抑留されたのは日本人だけではない。ソ連軍に捕らえられたドイツ人捕虜四十万がいた。彼等も労働には従事していたが、日本人のようにマルクス主義を熱狂的に受入れたり、積極的に思想の宣伝活動をすることは全くなかったという。なかには「この次にやる時にはロスケなどには決して負けない」と意気軒昂なのもいたという。この差はどこから来るのだろう。
しかし引揚者達の赤い熱狂も結局長くは続かなかった。それぞれ故郷に帰って日本の実情が分かるにつれて、急速に目からうろこが落ちてしまった。その顕著な例をわが友Sに見る。その頃帰国した彼がたしか小林(佐竹)にあてた手紙を見せて貰ったことがあるが、それは学院の同窓が日本の共産主義革命に挺身していないことを厳しく難詰《なんきつ=欠点を上げ相手を激しく非難する》する内容だった。あのシニカルな彼にして……と驚いたのだが、その後京都市役所に入って出張で上京して来たので、一緒に碁を打った後、いっぱいやりながらその信条を聞くべく、その手紙のことを口にしたら「いやー、あれは……」と頭をかいて大いに赤面し、口をつぐんでしまった。早くも憑きものは跡形もなく落ちていたのである。
洗脳した引揚者を日本に送り込むことによって日本共産党の勢力が伸張したか、といえば、逆にその頃を境に低落したことが選挙の結果で明らかになっている。ソ連の日本赤化計画《日本を共産主義国家にする計画》はほとんど成果を挙げることなく終わった。だが日本人の脳をあれほど侵食した妖怪も、所詮は目かくしと背中につきつけられたピストルが外されれば存続しえないものであることが誰の目にも否応なく明らかになるまでには、あの頃からなお四十余年の歳月を要したのである。
昭和二十五年も末になってやっと引揚げの大部分は終わったが、内藤操を含む最後の組、一千余人が日本の土を踏んだのは昭和三十一年の暮も押しつまった頃、終戦から既に十一年余りが経過していた。
(おわり)
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あんみつ姫