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Re: 引揚げ船のころ(3)

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あんみつ姫

通常 Re: 引揚げ船のころ(3)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2007/11/29 7:53
あんみつ姫  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 485
 明けて昭和二十二年になると日本船も逐次整備されて戦列に加わり、舞鶴、北海道合わせて三十隻近くになった。米ソ間の見えざる軋轢《あつれき=不和、葛藤、中が悪くなる》もあったし、大連では入港した米船とソ連軍との間にトラブルが発生したりしたので、ソ連地区に入る引揚船には米船を用いず、専ら日本船のみを使用することになった。

その通訳陣の中には学院出身者が少なくなかった。記憶にあるだけでも藤田大介氏(十四期)、相沢潔氏(十五期)、秋元哲雄氏(十七期)、桝井渉氏(二十期)、内田義雄氏(二十二期、故人)、佐藤一成氏(二十三期)、名前は忘れたが他に後輩一名。そのほかにも顔を合わせる機会のなかった同窓がいたかもしれない。皆おっとり刀で馳せ参じた面々であった。

【注】これは1992年に書かれたもので、既に故人となられた方が多い。河西 明さんも2007年11月に身罷られた。

     旅順・大連をソ連が支配
     
 一月某日、大連《だいれん=中国遼東半島先端の町》に向けて出港。冬の日本海の荒れ方は半端ではない。三日目に入る。思えばあれは七年前、二十一期の合格者が東京青山に集合して神戸から乗船し、瀬戸内海から関門海峡を抜けて大連に上陸。旅順の戦跡を見学してからハルビンに向かったのはつい昨日のように思い出される。あの時の大連は殷賑《いんしん=盛んに。賑やかに》を極めていた。ところが今目の前に現れたのは人っ子一人いない荒涼とした岸壁だけだ。これが本当にあの大連か?
着岸した舟の船長室にソ連軍の佐官が二人入って来た。中佐の肩章をつけた方は横柄な口調で収容所長代理だと名乗った。

 満州と関東州の日本の権益が消滅したら、主権は中国に戻るはずだ。満州に侵入したソ連軍は翌年五月には既にソ連領に撤退したにもかかわらず、大連地区にだけは大きな顔をして居座っていた理由はヤルタの密約にある。

昭和二十年二月の米英ソ三首脳の密約で、ドイツ降伏後三カ月以内に対日戦を開始する条件としてスターリン《ソビエト連邦共和国総書記-》は樺太《からふと=現在ロシアのサハリン》・千島《千島列島》のはかに、旅順《中国遼東半島先端の港町》を海軍基地として租借、大連港の優先使用、満州内の鉄道を中ソ合弁にしてソ連が優先使用、などを認めさせた。これは主権国たる中国を無視した密約であった。しかもスターリンは、この内容を中国に承諾させる交渉をルーズベルトに押しつけた。

ソ連の対日参戦をあせったためにしてやられたルーズベルトは締結直後に後悔し、スターリンのもとに特使を派遣して変更を求めたが一蹴《いっしゅう=すげなく断る》され、歴史的失敗を残して四月に死亡した。中国は六月になって、この内容をアメリカから知らされ驚愕《きょうがく=驚く》したが、アメリカの援助を必要としていた中国はやむなく同意し、その内容で八月に中ソ友好同盟条約を結んだ。

その結果、ソ連軍侵攻後旅順はソ連軍の基地となり、大連はソ連軍司令部が支配し、大連港長にはソ連軍人がおさまって事実上自国の港として使用した。ソ連の大連・旅順支配はその後十年にわたって続くのである。「日露戦争の復讐をした。」というあの有名なスターリン演説は、ポーツマス条約《注》で日本がロシアから獲得したもの、その後営々と築いたものを、僅か十日間の侵攻で、そっくり濡れ手に粟で手中にした高笑いである。

 大連は国際自由港とすることがヤルタでも中ソ条約でも定められていたが、実際は旅順軍事基地の領域内であることを理由にソ連は米軍艦船の入港を拒否し、また重慶《じゅうけい=中国四川省の四川盆地にある都市》の国民政府から迎え入れることが決められていた市長の到着もさまざまな口実を設けて妨害し、入らせなかった。その最大の目的は、侵攻後間もなく始められた大量の工場設備の解体搬出を秘匿《ひとく=隠して他人に見せない》するためであった。

日本の惜しみない投資によって大連地区には優秀なエ場が多数あったが、ソ連は抑留中の一般日本人を使って次々と解体して運び去った。港の倉庫にあった大量の物資も、岸壁に野積みになっていた石炭までも残らず持ち去った。最後にはこれも日本人の技術者を使って岸壁に林立するクレーンを解体して運び去った。

入港した時に見た荒涼たる港の風景は、この根こそぎ掠奪《りゃくだつ=力ずくで奪い取る》の結果であった。満州全土でソ連が掠奪した工場設備などについては二種類の調査資料があるが、その総額は当時の評価額でいずれも九億ドルに近い。今日の貨幣価値では十兆円をはるかに超えるであろう。ソ連が満州の権益を中国に返還し、旅順からも撤退するのはフルシチョフ・毛沢東の中ソ蜜月時代になってからである。

注 1905年日露戦争終結時 ポーツマス条約により ロシアから遼東半島の先端部から南満州鉄道付属地の租借権を引き継ぐ

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あんみつ姫

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