Re: 牡丹江予備士官学校での日記から(5)
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牡丹江予備士官学校での日記から(1) (あんみつ姫, 2007/11/29 8:15)
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Re: 牡丹江予備士官学校での日記から(2) (あんみつ姫, 2007/11/29 8:24)
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Re: 牡丹江予備士官学校での日記から(3) (あんみつ姫, 2007/11/29 8:29)
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Re: 牡丹江予備士官学校での日記から(4) (あんみつ姫, 2007/11/29 8:32)
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Re: 牡丹江予備士官学校での日記から(3) (あんみつ姫, 2007/11/29 8:29)
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Re: 牡丹江予備士官学校での日記から(2) (あんみつ姫, 2007/11/29 8:24)
あんみつ姫
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投稿数: 485
亡兄のこと(補遺)
兄はルソン島北部のジャングルで戦病死した。その前年、昭和十九年春、満州国牡丹江市にあった陸軍の教育隊で訓練を受けていた私を、兄は突然尋ねて来た。数年振りの予期せぬ再会に呆然としている私の肩を抱くようにして兄は告げた。
京都に居る長姉との連絡で、私の部隊と所在地が分かったとのこと。二年前に召集された兄は、全く偶然にも、私の隊と道を隔てて向い合う砲兵隊にいること、せっかく会えたばかりだが、数日中に部隊が南方に移動すること。
このまま二度とは会えないだろうこと、お前は生来胃腸が弱いから、食物に注意するように……などと話したあと、肩を組んで写真を撮ると、私のポケットに一包みの甘味品を押し込んで、そそくさと営門を出て行った。
それから数日、今までは気にも留めなかった垣根越しの砲兵隊《ほうへいたい=各種大砲を扱う部隊》を、私は懸命にうかがっていた。そこでは、終日砲車やトラックが赤い砂煙りを立てて行き交い、人馬が慌だしく動き回っていたが、兄らしい姿を見出すことは出来なかった。
ある日、演習から帰ると砲兵隊の人影は急にまばらになって、兄がそこに居ないことを知った。
翌二十年戦争は終った。私は済州島から荒廃の祖国に復員した。そして、某日、また突然兄から便りがあった。
「陸軍軍曹 馬 場 重 光」
右昭和二十年八月十日(時刻不明)比島カナツアンに於いて戦病死セラレ侯傑此段通知侯也
昭和二十一年七月十一日 福岡地方世話部長印」
英霊番号三十四と記されてあった。
私たちの父は、私の生まれる前年、兄が三歳の時、世を去った。母も私が十七歳の冬にみまかった。泣き乍ら木札一枚の弟の遺骨を受けとった長姉も次姉も、戦後相次いで死んだ。
祖国と民族のためという使命を与えられ、飢餓的な状況の下で、温和で多感な青年がどのように最期を迎えたか、極限の非条理《きょくげんのひじょうり=この上も無い筋道の通らない》の世界にあって、兄がたどったであろうジャングルを片時も忘れることが出来なかった。
昭和五十五年、戦争尋ね人欄(読売新聞)に投稿したところ、比島方面に従軍帰還された方々から想像以上の眞情溢れる御連絡、御教示を頂き、翌五十六年五月念願の慰霊の比島《ひとう=ヒリピン》行脚が出来た。奥地の山合いの公民館に、住民が拾い集めてくれた多くの苔むして黒ずんだ無名の遺骨と一夜を共にした。よく来てくれた……。夜中にそう話しかけられる思いがした。翌日当時の戦友の手で茶毘《だび=火葬-》に付された遺骨は静かに白くなり、なかでも髑髏《どくろ=頭蓋骨-》の一つが優しく笑うように柔和になったのが忘れられない。
兄は殊更に争いを好まなかった。入営前に私に呉れた手紙に〝入試で競争する際、若し自分が及第しなくとも、誰かが自分に代わる幸福をかち得たら、それでいいと思う……〟と書いていたことがあった。生き得べき生と死のはざまにありながら、兄と同じような温和で誠実な青年たちが、どれほど多く死を選んだことだろう。
55・10・21付日記から
極楽鳥のような、小さな孔雀のような、美しい尾羽根を持った小鳥が僕のまわりを飛び交い、まとわりついては、手にとまりたがる。〝緑の館″のリーマのようだ。そのうち中空からピンクの花びらが滝のような降り注いで傍らにある鳥籠の申に散り敷く……。花びらが舞う中を、小鳥は僕の手を離れて、安心したように鳥籠の中に納まった。僕はすぐ夢さめて、これは重光兄さんが安心したのだと、家内を起こして、そう話した。
56・8・9 朝日歌壇投稿
文もなく碑もなく若きら土となり草薙ぎ倒しスコール走る
近 藤 芳 美 選
暗欝のジャングルとのみ思い来し比島の渓間に青田拡がる
宮 柊 二 選
モルタルの冷たき土間のひと盛りの遺骨の下にタオル敷きたり
投稿のみ
兄は二十八歳、独身であった。
惨烈な戦乱の中、戦没した場所すら判らない一人の青年を、この世で今も生きている者のように思い出してやれるのは、たった一人の肉親である私を置いて他に誰が居よう。
全てがうつろい行く人の世で、私は在る限り兄を憶いつづける。
薄い縁の兄弟ではあったが・・・。
(おわり)
兄はルソン島北部のジャングルで戦病死した。その前年、昭和十九年春、満州国牡丹江市にあった陸軍の教育隊で訓練を受けていた私を、兄は突然尋ねて来た。数年振りの予期せぬ再会に呆然としている私の肩を抱くようにして兄は告げた。
京都に居る長姉との連絡で、私の部隊と所在地が分かったとのこと。二年前に召集された兄は、全く偶然にも、私の隊と道を隔てて向い合う砲兵隊にいること、せっかく会えたばかりだが、数日中に部隊が南方に移動すること。
このまま二度とは会えないだろうこと、お前は生来胃腸が弱いから、食物に注意するように……などと話したあと、肩を組んで写真を撮ると、私のポケットに一包みの甘味品を押し込んで、そそくさと営門を出て行った。
それから数日、今までは気にも留めなかった垣根越しの砲兵隊《ほうへいたい=各種大砲を扱う部隊》を、私は懸命にうかがっていた。そこでは、終日砲車やトラックが赤い砂煙りを立てて行き交い、人馬が慌だしく動き回っていたが、兄らしい姿を見出すことは出来なかった。
ある日、演習から帰ると砲兵隊の人影は急にまばらになって、兄がそこに居ないことを知った。
翌二十年戦争は終った。私は済州島から荒廃の祖国に復員した。そして、某日、また突然兄から便りがあった。
「陸軍軍曹 馬 場 重 光」
右昭和二十年八月十日(時刻不明)比島カナツアンに於いて戦病死セラレ侯傑此段通知侯也
昭和二十一年七月十一日 福岡地方世話部長印」
英霊番号三十四と記されてあった。
私たちの父は、私の生まれる前年、兄が三歳の時、世を去った。母も私が十七歳の冬にみまかった。泣き乍ら木札一枚の弟の遺骨を受けとった長姉も次姉も、戦後相次いで死んだ。
祖国と民族のためという使命を与えられ、飢餓的な状況の下で、温和で多感な青年がどのように最期を迎えたか、極限の非条理《きょくげんのひじょうり=この上も無い筋道の通らない》の世界にあって、兄がたどったであろうジャングルを片時も忘れることが出来なかった。
昭和五十五年、戦争尋ね人欄(読売新聞)に投稿したところ、比島方面に従軍帰還された方々から想像以上の眞情溢れる御連絡、御教示を頂き、翌五十六年五月念願の慰霊の比島《ひとう=ヒリピン》行脚が出来た。奥地の山合いの公民館に、住民が拾い集めてくれた多くの苔むして黒ずんだ無名の遺骨と一夜を共にした。よく来てくれた……。夜中にそう話しかけられる思いがした。翌日当時の戦友の手で茶毘《だび=火葬-》に付された遺骨は静かに白くなり、なかでも髑髏《どくろ=頭蓋骨-》の一つが優しく笑うように柔和になったのが忘れられない。
兄は殊更に争いを好まなかった。入営前に私に呉れた手紙に〝入試で競争する際、若し自分が及第しなくとも、誰かが自分に代わる幸福をかち得たら、それでいいと思う……〟と書いていたことがあった。生き得べき生と死のはざまにありながら、兄と同じような温和で誠実な青年たちが、どれほど多く死を選んだことだろう。
55・10・21付日記から
極楽鳥のような、小さな孔雀のような、美しい尾羽根を持った小鳥が僕のまわりを飛び交い、まとわりついては、手にとまりたがる。〝緑の館″のリーマのようだ。そのうち中空からピンクの花びらが滝のような降り注いで傍らにある鳥籠の申に散り敷く……。花びらが舞う中を、小鳥は僕の手を離れて、安心したように鳥籠の中に納まった。僕はすぐ夢さめて、これは重光兄さんが安心したのだと、家内を起こして、そう話した。
56・8・9 朝日歌壇投稿
文もなく碑もなく若きら土となり草薙ぎ倒しスコール走る
近 藤 芳 美 選
暗欝のジャングルとのみ思い来し比島の渓間に青田拡がる
宮 柊 二 選
モルタルの冷たき土間のひと盛りの遺骨の下にタオル敷きたり
投稿のみ
兄は二十八歳、独身であった。
惨烈な戦乱の中、戦没した場所すら判らない一人の青年を、この世で今も生きている者のように思い出してやれるのは、たった一人の肉親である私を置いて他に誰が居よう。
全てがうつろい行く人の世で、私は在る限り兄を憶いつづける。
薄い縁の兄弟ではあったが・・・。
(おわり)
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あんみつ姫