牡丹江予備士官学校での日記から(1)
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- 牡丹江予備士官学校での日記から(1) (あんみつ姫, 2007/11/29 8:15)
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投稿日時 2007/11/29 8:15
あんみつ姫
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 485
哈爾浜《ハルピン》学院21期生 馬場 正治(記)
昭和十八年十二月一日、いわゆる学徒出陣《がくとしゅつじん=文科系の旧制大学、専門学校学生から軍隊に召集された》で連勝の三〇三部隊に入った。同じ中隊に池田栄、伊津野政弘、春日偉也、五藤一夫、未岡日出徳、鈴木淳栄、中本鯉三、成瀬孫仁、西岡三郎、久野公、松本五朗、城所(現水野)尚爾の十二人の同期生と、22期の木山勇、西尾寛三、花田謙二の三君が一緒だった。同十九年三月、幹部侯補生合格者がチチハルの第六二四部隊に移り、このとき遼陽駅《りょうようえき=中国遼寧省の都市の駅》で行き交う隊列の中に同期、同窓の連中と手を振り合って別れた記憶がいまも鮮烈だ。
同年四月、甲種幹部候補生《かんぶこうほせい=将来将校になる為の試験合格者》に合格、予備士官学校第十一期生として牡丹江《ぼたんこう=中国黒龍江省の町》第四七八部隊に入校して同年十二月十六日に卒業し、同十八日、奉天《ほうてん=現在の瀋陽で遼寧省の省都》第五四九一部隊通信教育隊に入って、ここでまた多くの同窓と会うことになる。この日誌は、この間、五カ月弱の間につけた、今から目を通すと、自らの内ばかりにこもった忸怩たらざるを得ないようなしろものだが、あえて披露《ひろお=広く発表する》することにした。
そのあと、翌二十年に北満綴陽《てつよう=黒龍江省の中露国境の町》の挽馬《ばんば=車を引いて物を運ぶ馬-》部隊に配属、このときから久野とずっと一緒だった。五月に第十二師団通信隊に転属と同時に南下して斉州島に渡り、ここで終戦を迎え、十一月十日に佐世保に上陸して復員した。外地にいた同期生の中では、たいへん早い引き揚げということになる。
8月7日
埃にまみれた長靴が涯しない《はてしない=行く先が見えない程遠い》道をポコポコと進む。前にも後ろにも横にも戦友が歩いている。時々無意識に瞼と唇のまわりに垂れる汗水を払いのける。落ちてゆく汗の玉は埃の中で、くるつと丸くなる。斯んな強いかたまりの中では、誰もが孤独を感じていることだらう。
桔梗、撫子、女郎花、萩……道端の草花を誰も顧みない。行軍は止まらない。日が翳って《かげって=薄暗くなって》きた。でもあの雲が流れると、又赫々《かくかく=熱くなる》と烈しい陽が輝く。靴の下から埃が舞い上る。遥かに白く光り乍ら牡丹江がうねっている。
水浴びがしたい。長靴の単調な音が続く。小休止!。……そろそろ時間である。もう少し休みたい。そっと区隊長《軍隊編成上の単位の長》の顔を見る……。まだ大丈夫……。あ……。誰なんだ、音なんか立てて、装具を着け出したのは……。
8月8日
陣、動かない、唇、夢・・・。朝霧、秋かぜ、はしばみ、とんぼ、金と銀のうろこ雲、紫いろの大地。
夢、兄が面会に来た……。変りがなければいいが‥…・。
8月11日
兄、南海に征きしと。かの時征きしひと、おほかた散りしと。されど、兄、生きてあれ。
8月12日 匍匐《ほふく=腹ばいで進む》前進の丘の上。玩具の様な汽車が美倫山の麓に現れ、拉古《らこ=中国黒龍江省の町》を通り抜け、平原の彼方、南の方に段々小さくなって消えて行った。あの向こうには哈爾浜があり、新京《しんきょう=現在の中国長春で吉林省の省都であり、かつての満州国の首都》がある。大連があり、美しい国、日本がある。
煙は広い平原の中央を、澄んだ秋の空へまっ直ぐに昇ってゆく。露西亜《ロシア》風の白壁の家が、ポッンと二つ線路際に並び、高い大きなポプラの緑に浮き出るようだ。あの南の方に青春を置いてきた。消えてゆく汽車よ。
はつもの、すいか、まくわ。
8月13日
雨は小止みなく降りつづいて、肌に冷たくしみ通る。ぬかるみを転ぶまいと、一心に歩く。闇の中に幽か《かすか》に光る、濡《ぬ》れた馬の背を頼みに懸命に歩く……。夜行軍。
8月15日
何時まで経っても試験というものはつきまとう。一体死ぬために、何の勉強が必要なのだらうか……。だが死に臨んで悠然たり得るか、そのための克己《こっき=困難に耐える》なのだらうか。
8月20日
うすら寒さ、指が痺れる。軍隊の試験場で斯んなもの淋しい木枯を聞こうとは。秋が、すぐ後ろに冬の楚音《そいん=密やかな音》を忍ばせてやって来た。樹々が透き通るようだ。かさかさと木の葉が黄ばむ。何て殺風景なんだらう。この部屋。
8月21日
二六一貨物に至りて、兄の体臭を求める。兄が恋しくなりぬ。内地が戦場になりつつある。祈る心。
8月23日
西欧的物質文明が自ら墓穴を掘りつつあるのだ……、ということは疑わないが、現実にはその西欧が東洋の精神世界を圧殺しようとしているのではないだらうか……。
されど、されど、神洲は……。銃後が前線の勇士に期待するよりも、前線の将兵が銃後の奮闘を祈る心尚切なるものがある昨今。
8月30日
野営訓練《やえいくんれん=屋外で生活する訓練》で、地形通過のとき、暴走した藤夏(輓馬《ばんば=車を引かせる馬》の名)に轢かれ、崖より車馬諸共転落失心した。幸い骨折もなかったが、骨の髄まで雨風泌み渡り、暫く戦友の飯食炊きくるるを待ちたること。幕舎《ばくしゃ=天幕で造った兵舎》の雨もり著しく小石程の雹《ひょう=氷の塊》降る中に、シャベルを持って応急工事にあたりしこと。はしばみと兵隊、どれだけ助かったことか……。心が、気持が……。とうもろこし、すいか、まくわ、パン、キャラメル等々、書き留めざるが花ならむ。分哨長として、警戒しつつ喫せし《きっせし=食べる》こととも。
昭和十八年十二月一日、いわゆる学徒出陣《がくとしゅつじん=文科系の旧制大学、専門学校学生から軍隊に召集された》で連勝の三〇三部隊に入った。同じ中隊に池田栄、伊津野政弘、春日偉也、五藤一夫、未岡日出徳、鈴木淳栄、中本鯉三、成瀬孫仁、西岡三郎、久野公、松本五朗、城所(現水野)尚爾の十二人の同期生と、22期の木山勇、西尾寛三、花田謙二の三君が一緒だった。同十九年三月、幹部侯補生合格者がチチハルの第六二四部隊に移り、このとき遼陽駅《りょうようえき=中国遼寧省の都市の駅》で行き交う隊列の中に同期、同窓の連中と手を振り合って別れた記憶がいまも鮮烈だ。
同年四月、甲種幹部候補生《かんぶこうほせい=将来将校になる為の試験合格者》に合格、予備士官学校第十一期生として牡丹江《ぼたんこう=中国黒龍江省の町》第四七八部隊に入校して同年十二月十六日に卒業し、同十八日、奉天《ほうてん=現在の瀋陽で遼寧省の省都》第五四九一部隊通信教育隊に入って、ここでまた多くの同窓と会うことになる。この日誌は、この間、五カ月弱の間につけた、今から目を通すと、自らの内ばかりにこもった忸怩たらざるを得ないようなしろものだが、あえて披露《ひろお=広く発表する》することにした。
そのあと、翌二十年に北満綴陽《てつよう=黒龍江省の中露国境の町》の挽馬《ばんば=車を引いて物を運ぶ馬-》部隊に配属、このときから久野とずっと一緒だった。五月に第十二師団通信隊に転属と同時に南下して斉州島に渡り、ここで終戦を迎え、十一月十日に佐世保に上陸して復員した。外地にいた同期生の中では、たいへん早い引き揚げということになる。
8月7日
埃にまみれた長靴が涯しない《はてしない=行く先が見えない程遠い》道をポコポコと進む。前にも後ろにも横にも戦友が歩いている。時々無意識に瞼と唇のまわりに垂れる汗水を払いのける。落ちてゆく汗の玉は埃の中で、くるつと丸くなる。斯んな強いかたまりの中では、誰もが孤独を感じていることだらう。
桔梗、撫子、女郎花、萩……道端の草花を誰も顧みない。行軍は止まらない。日が翳って《かげって=薄暗くなって》きた。でもあの雲が流れると、又赫々《かくかく=熱くなる》と烈しい陽が輝く。靴の下から埃が舞い上る。遥かに白く光り乍ら牡丹江がうねっている。
水浴びがしたい。長靴の単調な音が続く。小休止!。……そろそろ時間である。もう少し休みたい。そっと区隊長《軍隊編成上の単位の長》の顔を見る……。まだ大丈夫……。あ……。誰なんだ、音なんか立てて、装具を着け出したのは……。
8月8日
陣、動かない、唇、夢・・・。朝霧、秋かぜ、はしばみ、とんぼ、金と銀のうろこ雲、紫いろの大地。
夢、兄が面会に来た……。変りがなければいいが‥…・。
8月11日
兄、南海に征きしと。かの時征きしひと、おほかた散りしと。されど、兄、生きてあれ。
8月12日 匍匐《ほふく=腹ばいで進む》前進の丘の上。玩具の様な汽車が美倫山の麓に現れ、拉古《らこ=中国黒龍江省の町》を通り抜け、平原の彼方、南の方に段々小さくなって消えて行った。あの向こうには哈爾浜があり、新京《しんきょう=現在の中国長春で吉林省の省都であり、かつての満州国の首都》がある。大連があり、美しい国、日本がある。
煙は広い平原の中央を、澄んだ秋の空へまっ直ぐに昇ってゆく。露西亜《ロシア》風の白壁の家が、ポッンと二つ線路際に並び、高い大きなポプラの緑に浮き出るようだ。あの南の方に青春を置いてきた。消えてゆく汽車よ。
はつもの、すいか、まくわ。
8月13日
雨は小止みなく降りつづいて、肌に冷たくしみ通る。ぬかるみを転ぶまいと、一心に歩く。闇の中に幽か《かすか》に光る、濡《ぬ》れた馬の背を頼みに懸命に歩く……。夜行軍。
8月15日
何時まで経っても試験というものはつきまとう。一体死ぬために、何の勉強が必要なのだらうか……。だが死に臨んで悠然たり得るか、そのための克己《こっき=困難に耐える》なのだらうか。
8月20日
うすら寒さ、指が痺れる。軍隊の試験場で斯んなもの淋しい木枯を聞こうとは。秋が、すぐ後ろに冬の楚音《そいん=密やかな音》を忍ばせてやって来た。樹々が透き通るようだ。かさかさと木の葉が黄ばむ。何て殺風景なんだらう。この部屋。
8月21日
二六一貨物に至りて、兄の体臭を求める。兄が恋しくなりぬ。内地が戦場になりつつある。祈る心。
8月23日
西欧的物質文明が自ら墓穴を掘りつつあるのだ……、ということは疑わないが、現実にはその西欧が東洋の精神世界を圧殺しようとしているのではないだらうか……。
されど、されど、神洲は……。銃後が前線の勇士に期待するよりも、前線の将兵が銃後の奮闘を祈る心尚切なるものがある昨今。
8月30日
野営訓練《やえいくんれん=屋外で生活する訓練》で、地形通過のとき、暴走した藤夏(輓馬《ばんば=車を引かせる馬》の名)に轢かれ、崖より車馬諸共転落失心した。幸い骨折もなかったが、骨の髄まで雨風泌み渡り、暫く戦友の飯食炊きくるるを待ちたること。幕舎《ばくしゃ=天幕で造った兵舎》の雨もり著しく小石程の雹《ひょう=氷の塊》降る中に、シャベルを持って応急工事にあたりしこと。はしばみと兵隊、どれだけ助かったことか……。心が、気持が……。とうもろこし、すいか、まくわ、パン、キャラメル等々、書き留めざるが花ならむ。分哨長として、警戒しつつ喫せし《きっせし=食べる》こととも。
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あんみつ姫
あんみつ姫
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投稿数: 485
9月14日
日本橋のたもと、角の白露人《はくろじん=ロシヤがソビエト共和国になった時これを嫌って他国に移住したロシヤ人》のレストラン。狭いボックス、背の高い椅子、厚い壁、小さな花を置いた窓。仄暗くて、静かな雰囲気。紅茶茶碗の中で湯気がゆるやかに渦を巻き、音もなくゆらめく。通りも薄暗くなったようだ。家路を急ぐ人の足も絶えた。
橋の下を列車が白い煙を噴きあげて走りすぎる。あれは新京に行くのだらうか……。僕も急ごう。もう少しで君に逢える。もう少しなんだが‥…・。夢現の中で厠に行きたくなったのが残念だ。仕様がない、後で続きを見ようと起きる。まだ深夜二時だ。不寝番が忙しそうに走り廻っている。訊くと、馬糞捨場が発火したとのこと。急いで床に潜る。
9月15日
朝、非常呼集《ひじょうこしゅう=突然の集合呼び出し》、異様な緊張感。暗闇の中で眼だけが光る。防空壕《ぼうくうごう=空からの攻撃から身を護る壕》に銃剣をつきつける。前線を身近かに患う。西公園(福岡市)のような丘。其処を駆け降りる演習。おや! 流れる傍に母さんと弘ちゃんが居る。営庭の区隊長や教官が屯している所に面会に来てくれたようだ。鈴木が「馬場!お母さんが面会だぞ!」と呼ぶ。
暫くたつと鈴木のお母さんが面会に来る。「鈴木!お母さんが面会だぞー!」と僕が叫ぶ。
福永より来信。お前も逢いたいと云ふのか、ぶっきら棒なお前の文字の後ろに、何かやるせない悶えがみえる。「お前の知っている程のことは俺も承知だ……」と。一体お前はこの満洲《中国東北部でかつての満州国》の何処に居るのだらう。やはり苦しんでいるのか、逞しい友よ。
9月16日
弱い心が頭を接げる。盗汗《とうかん=冷や汗》が出ようが、辛からうが、我一人のみ悪きにあらず。もっと頑張れ、ただの風邪なのだ。だが何故斯んな嫌な患いをせねばならぬのだ。診断を受けたいと言ほう。そう云ふんだ。
9月19日
誰からでもいい、手紙を貴いたい。どんなに待ち遠しいことか。さて出そうと思っても、何にも書く訳にはまいらぬ。戦術も計画も、やることは山とあるが、折角の休日。この千金の時間を何と無聊《ぶりょう=退屈》に過ごさねばならぬことよ。外は激しい雷光がきらめく。
雨だ。
もう毎日卒業のことばかり考える。あと一月だ、とか、いや矢張り十二月迄だとか。兵長達は明日楽しい卒業式で原隊《げんたい=出身元の隊》に帰る。ひょっとすると、明日は我々にも卒業式の御馳走があるかも知れないぞ……。
鳴呼、あの出陣の夜、果たして誰がこんな低級なことを考えたであろうか。申し訳ない。
9月22日
麻縄のほころびを繕いつつ、ふっと大阪郊外の伯父の家で、従妹のお下げを編まさせられたことを思い出した。それで、麻縄をお下げのように編んだ。伯父も死んだ。
冬服に襟章をつける。もうそんなに月日が経ったのである。毛のものの懐かしい感触を味わふ。
9月23日
秋季皇霊祭《しゅうきこうれいさい=皇室の祖先の秋のお祀り》。ぼかぼかと、こよない小春日和だ。ウクライナの秋がどんなか、でもそんな風に思える休日。軍隊に居ることが嘘のような。何もせず、唯眠くなる。散髪をして、ひげを剃り入浴をすると、もう休養は終わる。こんな日は、ぶらりと外出した
いものだ。哈爾濱の秋も深まったことだらう。
9月24日
祭日だとまんじゅうがでる。だから祭日は楽しい。日曜日だと甘味品が出る。今日はあてが外れたが、どうしたんだらう。待ち遠しいのに……。兵隊はそんなことしか考へない。自分たちもそんな事しか考えてゐない。
9月26日
敵機が又もや満州を襲った。新京や哈爾浜も空襲警報が発令された。そんな訳で、我等の愛馬の掩壕《えんごう=弾や砲弾から身を護る壕》構築作業にも拍車がかかる。今日は遂に昼夜ぶっ通しの強行作業。又ニエ・プリヤートノーの声。薯が出るのは満足であつた。
日本橋のたもと、角の白露人《はくろじん=ロシヤがソビエト共和国になった時これを嫌って他国に移住したロシヤ人》のレストラン。狭いボックス、背の高い椅子、厚い壁、小さな花を置いた窓。仄暗くて、静かな雰囲気。紅茶茶碗の中で湯気がゆるやかに渦を巻き、音もなくゆらめく。通りも薄暗くなったようだ。家路を急ぐ人の足も絶えた。
橋の下を列車が白い煙を噴きあげて走りすぎる。あれは新京に行くのだらうか……。僕も急ごう。もう少しで君に逢える。もう少しなんだが‥…・。夢現の中で厠に行きたくなったのが残念だ。仕様がない、後で続きを見ようと起きる。まだ深夜二時だ。不寝番が忙しそうに走り廻っている。訊くと、馬糞捨場が発火したとのこと。急いで床に潜る。
9月15日
朝、非常呼集《ひじょうこしゅう=突然の集合呼び出し》、異様な緊張感。暗闇の中で眼だけが光る。防空壕《ぼうくうごう=空からの攻撃から身を護る壕》に銃剣をつきつける。前線を身近かに患う。西公園(福岡市)のような丘。其処を駆け降りる演習。おや! 流れる傍に母さんと弘ちゃんが居る。営庭の区隊長や教官が屯している所に面会に来てくれたようだ。鈴木が「馬場!お母さんが面会だぞ!」と呼ぶ。
暫くたつと鈴木のお母さんが面会に来る。「鈴木!お母さんが面会だぞー!」と僕が叫ぶ。
福永より来信。お前も逢いたいと云ふのか、ぶっきら棒なお前の文字の後ろに、何かやるせない悶えがみえる。「お前の知っている程のことは俺も承知だ……」と。一体お前はこの満洲《中国東北部でかつての満州国》の何処に居るのだらう。やはり苦しんでいるのか、逞しい友よ。
9月16日
弱い心が頭を接げる。盗汗《とうかん=冷や汗》が出ようが、辛からうが、我一人のみ悪きにあらず。もっと頑張れ、ただの風邪なのだ。だが何故斯んな嫌な患いをせねばならぬのだ。診断を受けたいと言ほう。そう云ふんだ。
9月19日
誰からでもいい、手紙を貴いたい。どんなに待ち遠しいことか。さて出そうと思っても、何にも書く訳にはまいらぬ。戦術も計画も、やることは山とあるが、折角の休日。この千金の時間を何と無聊《ぶりょう=退屈》に過ごさねばならぬことよ。外は激しい雷光がきらめく。
雨だ。
もう毎日卒業のことばかり考える。あと一月だ、とか、いや矢張り十二月迄だとか。兵長達は明日楽しい卒業式で原隊《げんたい=出身元の隊》に帰る。ひょっとすると、明日は我々にも卒業式の御馳走があるかも知れないぞ……。
鳴呼、あの出陣の夜、果たして誰がこんな低級なことを考えたであろうか。申し訳ない。
9月22日
麻縄のほころびを繕いつつ、ふっと大阪郊外の伯父の家で、従妹のお下げを編まさせられたことを思い出した。それで、麻縄をお下げのように編んだ。伯父も死んだ。
冬服に襟章をつける。もうそんなに月日が経ったのである。毛のものの懐かしい感触を味わふ。
9月23日
秋季皇霊祭《しゅうきこうれいさい=皇室の祖先の秋のお祀り》。ぼかぼかと、こよない小春日和だ。ウクライナの秋がどんなか、でもそんな風に思える休日。軍隊に居ることが嘘のような。何もせず、唯眠くなる。散髪をして、ひげを剃り入浴をすると、もう休養は終わる。こんな日は、ぶらりと外出した
いものだ。哈爾濱の秋も深まったことだらう。
9月24日
祭日だとまんじゅうがでる。だから祭日は楽しい。日曜日だと甘味品が出る。今日はあてが外れたが、どうしたんだらう。待ち遠しいのに……。兵隊はそんなことしか考へない。自分たちもそんな事しか考えてゐない。
9月26日
敵機が又もや満州を襲った。新京や哈爾浜も空襲警報が発令された。そんな訳で、我等の愛馬の掩壕《えんごう=弾や砲弾から身を護る壕》構築作業にも拍車がかかる。今日は遂に昼夜ぶっ通しの強行作業。又ニエ・プリヤートノーの声。薯が出るのは満足であつた。
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あんみつ姫
あんみつ姫
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 485
昭和19年10月1日
手紙が来ている。誰からのだろう。何時もだと嬉しいのに何か不安だ。福永からだ。肋膜だそうだ。嘘だろう。あんなに逞しい男なのに……。寒い。心の底までうすら寒い。
10月3日
テニヤン、大宮島の皇軍《こうぐん=天皇の軍隊》、同胞一万五千玉砕《ぎょくさい=大義に殉じて潔く死ぬ》………。護国の鬼《ごこくのおに=国を護る為に戦死した人》となる。29師団これなり。衝撃!我等の出陣を輝かしく迎えくれし遼陽師団なりき。高品中将以下、あの温顔《おんがん=柔和な顔》の土屋中隊長、兄貴のようだった永原教官、今はなし。我等も又散《ちる=花が散る様を死に例えた言葉》るのみ。
10月8日
今夜は窓外で木枯らしの音が高い。異様にもの悲しい。サイパン、テニヤンで玉砕した将兵の怨念が、この北満まで吹いて来たに違いない。土屋隊長殿、永原教官殿、仇はとります、我々が……。
10月12日
体操衣で写真を撮った。送るために。
姉さん、心尽しを感謝します。身に弛みて愛情を感じます。僕が又苦しんでいると思って下さったのでしょう。そうです。弱虫の僕は恰度《ちょうど=折りよく》苦しんでいました。僕は貴女の温かい愛情に思い切り甘えたい。じつと僕をみつめてくれる貴女達。そうだ、こんなに良い人達ばかりの銃後を、どうして傍若無人《ぼおじゃくぶじん=気ままに振舞う》の敵の手に任されようか。どんな苦しみも喜んで耐えよう。貴女達そして日本を守るために。
一緒に君より手紙と万年筆、ペンシル同封しあり。ダイヤ街で二人の名前を彫って貰い互に分け持つのだと。教官室で点検を受けた。何のため……
10月16日
糸と針を使ってする細工が面白い。物を創るということは面白いことだ。今に女より上手になるかもしれない。時間さえあれば…!
毎日卒業の日ばかりを噂している儚さ。“卒業したら、飯が腹一杯喰える……”だが、果たしてそうなるだろうか。そうではなくて、唯死の日が近づくだけなのかも知れぬ。その方が確実で、原案なのだ。だが我々員数候補生《いんずうこうほせい=数だけ揃えば内容は問わない候補生(蔑んだ考え方)》はそんなことは先刻超越して、猶この空腹と斗っている。国軍の中堅ともなるべき者たちが、こんな次元で居ていいのだろうか。当局は“期間がない、期間がない”と云い乍ら、やれ芋掘りだ、土管理めだ、草むしりだ、と貴重な日々を浪費させるばかり。
出鱈目、矛盾、不合理を問えばきりがない。卒業が待ち遠しい。
10月17日
久方振りに聞きし、比島沖の大戦果なりき。日本よ。南海の陸海空の勇士よ。勝って下さい。戦い抜いて下さい。今こそ攻勢移転の秋です。僕たちも、もうすぐ参加します。
今日、日本の将来を憶ふ《おもう》。我等の明日を憶う。開戦の日の如き身震いを覚ゆ。
10月19日
柔軟さと客観性を喪った《うしなった》コチコチの精神主義教育。段々ひどくなり無気味な気がする。日も暮れて、くたくたなのに、経理検査の準備とか。何でもやってくれ。何でもやろう。それが真実勝つため……なら。
10月25日
靖国神社合祀祭。お情けの映画見物ではあるが、何でもよい、我々には思いがけない潤いである。「家光と彦左」だったが、後は見せてくれなかった。帰途、駅前の小休止で求めた豚まんのうまかったこと。候補生の見交わす満足気な笑顔…・。
街上で見かけた先輩見習士官の肩警した様子が可笑しかった。我々はもっと率直であろうと話し合った。
特志を勧められた。次のように書いた。希望、初年兵教官、任地哈爾濱、特志なし。
軍の経理検査とかで、皆大騒ぎ。威かされた揚句の今日、お偉方は中通路を風の如く素通りしただけ。そんなもんだ。
10月
京都の姉さんより、四、五日中に京の有名な鍛冶より、古刀を求めて送ると便りあり。何ぞ喜ばしき。重光兄さん、比島に在り、と。よかった。この上は攻勢移転の戦果が更に拡大されて、米の侵寇企図《しんこうきかく=他国を征服する計画》が挫折せんことを……。それにしても米は、何としぶといことであろう。
10月28日
豆粕とか、大根とか、葱とか、唐もろこしとか、すっかり頭の中が空白になってしまう。もう少しの辛抱だ。10月習十月も終わる。嫌な野営《やえい=野外での訓練》さえ済めば自由になれる。あと四~五十日だ。頑張ろう。
手紙が来ている。誰からのだろう。何時もだと嬉しいのに何か不安だ。福永からだ。肋膜だそうだ。嘘だろう。あんなに逞しい男なのに……。寒い。心の底までうすら寒い。
10月3日
テニヤン、大宮島の皇軍《こうぐん=天皇の軍隊》、同胞一万五千玉砕《ぎょくさい=大義に殉じて潔く死ぬ》………。護国の鬼《ごこくのおに=国を護る為に戦死した人》となる。29師団これなり。衝撃!我等の出陣を輝かしく迎えくれし遼陽師団なりき。高品中将以下、あの温顔《おんがん=柔和な顔》の土屋中隊長、兄貴のようだった永原教官、今はなし。我等も又散《ちる=花が散る様を死に例えた言葉》るのみ。
10月8日
今夜は窓外で木枯らしの音が高い。異様にもの悲しい。サイパン、テニヤンで玉砕した将兵の怨念が、この北満まで吹いて来たに違いない。土屋隊長殿、永原教官殿、仇はとります、我々が……。
10月12日
体操衣で写真を撮った。送るために。
姉さん、心尽しを感謝します。身に弛みて愛情を感じます。僕が又苦しんでいると思って下さったのでしょう。そうです。弱虫の僕は恰度《ちょうど=折りよく》苦しんでいました。僕は貴女の温かい愛情に思い切り甘えたい。じつと僕をみつめてくれる貴女達。そうだ、こんなに良い人達ばかりの銃後を、どうして傍若無人《ぼおじゃくぶじん=気ままに振舞う》の敵の手に任されようか。どんな苦しみも喜んで耐えよう。貴女達そして日本を守るために。
一緒に君より手紙と万年筆、ペンシル同封しあり。ダイヤ街で二人の名前を彫って貰い互に分け持つのだと。教官室で点検を受けた。何のため……
10月16日
糸と針を使ってする細工が面白い。物を創るということは面白いことだ。今に女より上手になるかもしれない。時間さえあれば…!
毎日卒業の日ばかりを噂している儚さ。“卒業したら、飯が腹一杯喰える……”だが、果たしてそうなるだろうか。そうではなくて、唯死の日が近づくだけなのかも知れぬ。その方が確実で、原案なのだ。だが我々員数候補生《いんずうこうほせい=数だけ揃えば内容は問わない候補生(蔑んだ考え方)》はそんなことは先刻超越して、猶この空腹と斗っている。国軍の中堅ともなるべき者たちが、こんな次元で居ていいのだろうか。当局は“期間がない、期間がない”と云い乍ら、やれ芋掘りだ、土管理めだ、草むしりだ、と貴重な日々を浪費させるばかり。
出鱈目、矛盾、不合理を問えばきりがない。卒業が待ち遠しい。
10月17日
久方振りに聞きし、比島沖の大戦果なりき。日本よ。南海の陸海空の勇士よ。勝って下さい。戦い抜いて下さい。今こそ攻勢移転の秋です。僕たちも、もうすぐ参加します。
今日、日本の将来を憶ふ《おもう》。我等の明日を憶う。開戦の日の如き身震いを覚ゆ。
10月19日
柔軟さと客観性を喪った《うしなった》コチコチの精神主義教育。段々ひどくなり無気味な気がする。日も暮れて、くたくたなのに、経理検査の準備とか。何でもやってくれ。何でもやろう。それが真実勝つため……なら。
10月25日
靖国神社合祀祭。お情けの映画見物ではあるが、何でもよい、我々には思いがけない潤いである。「家光と彦左」だったが、後は見せてくれなかった。帰途、駅前の小休止で求めた豚まんのうまかったこと。候補生の見交わす満足気な笑顔…・。
街上で見かけた先輩見習士官の肩警した様子が可笑しかった。我々はもっと率直であろうと話し合った。
特志を勧められた。次のように書いた。希望、初年兵教官、任地哈爾濱、特志なし。
軍の経理検査とかで、皆大騒ぎ。威かされた揚句の今日、お偉方は中通路を風の如く素通りしただけ。そんなもんだ。
10月
京都の姉さんより、四、五日中に京の有名な鍛冶より、古刀を求めて送ると便りあり。何ぞ喜ばしき。重光兄さん、比島に在り、と。よかった。この上は攻勢移転の戦果が更に拡大されて、米の侵寇企図《しんこうきかく=他国を征服する計画》が挫折せんことを……。それにしても米は、何としぶといことであろう。
10月28日
豆粕とか、大根とか、葱とか、唐もろこしとか、すっかり頭の中が空白になってしまう。もう少しの辛抱だ。10月習十月も終わる。嫌な野営《やえい=野外での訓練》さえ済めば自由になれる。あと四~五十日だ。頑張ろう。
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あんみつ姫
あんみつ姫
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 485
昭和19年12月、やっと見習士官《みならいしかん=高等武官(少尉以上)になるまでの士官見習いで軍隊の階級》!
12月1日
学徒出陣一周年記念日。三〇三部隊に入隊した日。前夜、大連神社の社頭で、大連駅で、忘れない!
すったもんだで軍刀が貰えた。刀の操法があったからだ。家から送って来たら、取り上げられることになろう。さて愈々、見習士官である。将校勤務の……。
12月2日
教官殿が区隊長殿になった。途端にとてつもなく円満になつた。
12月4日
舎内点呼《しゃないてんこ=兵舎内での人員確認》は原案だ。寒くないから。今朝は恒例の勅諭《ちょくゆ=天皇から下された諭し言葉-》奉読。指が切れるかと思った。
12月7日
今朝は不寝番《ふしんばん=夜間寝ないで警戒する当番》。辛かったが、これが最後の勤務になるだろう。あと九日。南方組《なんぽうぐみ=次の赴任地が南方の一団》の出発が延びませんように。
12月9日
全く思いがけなかった。それだけに眠れぬ程嬉しい。〝牡丹江に親戚のある候補生は、明日外出を許可する。申出るように″どんなに待望んでいたことかを今表現出来ない。とにかく、明日泰子姉さん(大連の姉の姻戚)の家を訪れるんだ。
12月10日
気持は飛ぶように西詳倫街の家を尋ねると、泰子姉さん一家はこの四日に大連《だいれん=中国遼寧省の都市》に引揚げたばかりとのこと。落胆した様子を見ていて気の毒に思われた隣家の香山さん御一家の、思いがけない親身の御接待をうける。感激の他なかった。初対面の若者に、ぼたもち、まんじゅう、菓子に始まって、すきやき、天ぶら、煮付、とろろ、酒も白米も……。こんなにお世話になっていいのだろうか。精一杯の心をこめた香山様親娘三人の歓待の中に、国民の我々に対する切ない期待と労わりを見た思いがした。門限を気にし乍ら帰営の道を、そのことだけを考えながら一気に歩いた。
12月15日
香山さん父娘が面会に来てくれる。勘違いしたらしい佐原軍曹のお蔭で、ゆっくり時間が出来た。その下士官《かしかん=判任官待遇の軍隊の階級(伍長から曹長)》室で、用意しておいた朱書した手紙の投函をお願いした。これでもう凡てが終った。香山様に感謝の外ない、めぐり合いであった。
12月16日
卒業式。母の七周忌でもある。晴れて見習士官、やっと手にした……。壮行会、大道寺区隊長も来られた。そして出発。
急に命令が出て、全員奉天の通信教育隊に転属とのこと。何のことやら全然わからぬ。駅に向う途中、香山様宅に挨拶に寄る。手紙は出して頂いた由。感謝。
12月17日
哈爾浜着。約三時間の乗換えで駅前の門脇さんの家を訊ねた。春日はどうしていることだろう。朝食を御馳走して下さる。こんな風に知人宅を訪れるなど考えてもみなかった。夕刻新京着。五時問の乗換時間に、全員大いに羽根を伸ばすことに決まる。六十名の若き見習士官は、思い思いに新京の街を走り廻る。吉野町の街角で、ひょっこり青柳に遭う。第一グリルから渡口の家へ。お母さんとお姉さんが、我が事のように歓待して下さる。此処でもボタ餅を頂く。だが折角の新京には、今僕を待つ人は居ない。唯、歩き廻る。軍人になったのだ。過去は後ろに投げ棄てるのだ。夜行で奉天に向う。満員の列車だが、見習士官だけは一車輌貸切りである。
12月18日
朝奉天に着く。駅頭にずらりと並んだ青年士官は壮観である。
艱難と克己の教育を終え、新たな困苦と献身の中に飛び込まうとする青年の気構えがそれぞれの顔面に輝いていた。
全員トラックで北陸の広大な兵営(曽て此処は東北大学の学舎であった)に送り込まれる。
何ということだ。此処で我々を待っていたのは、思いがけない〝再教育″であった。〝南方への輸送が敵の制圧下で不可能になった為、暫時通信教育を行う……″ということだ。
勇躍!南方第一線の夢は崩れ、放り込まれた零下十数度の室内で一夜を明かす。
此の部隊を五四九部隊と云う。(以上で日記を終る)
12月1日
学徒出陣一周年記念日。三〇三部隊に入隊した日。前夜、大連神社の社頭で、大連駅で、忘れない!
すったもんだで軍刀が貰えた。刀の操法があったからだ。家から送って来たら、取り上げられることになろう。さて愈々、見習士官である。将校勤務の……。
12月2日
教官殿が区隊長殿になった。途端にとてつもなく円満になつた。
12月4日
舎内点呼《しゃないてんこ=兵舎内での人員確認》は原案だ。寒くないから。今朝は恒例の勅諭《ちょくゆ=天皇から下された諭し言葉-》奉読。指が切れるかと思った。
12月7日
今朝は不寝番《ふしんばん=夜間寝ないで警戒する当番》。辛かったが、これが最後の勤務になるだろう。あと九日。南方組《なんぽうぐみ=次の赴任地が南方の一団》の出発が延びませんように。
12月9日
全く思いがけなかった。それだけに眠れぬ程嬉しい。〝牡丹江に親戚のある候補生は、明日外出を許可する。申出るように″どんなに待望んでいたことかを今表現出来ない。とにかく、明日泰子姉さん(大連の姉の姻戚)の家を訪れるんだ。
12月10日
気持は飛ぶように西詳倫街の家を尋ねると、泰子姉さん一家はこの四日に大連《だいれん=中国遼寧省の都市》に引揚げたばかりとのこと。落胆した様子を見ていて気の毒に思われた隣家の香山さん御一家の、思いがけない親身の御接待をうける。感激の他なかった。初対面の若者に、ぼたもち、まんじゅう、菓子に始まって、すきやき、天ぶら、煮付、とろろ、酒も白米も……。こんなにお世話になっていいのだろうか。精一杯の心をこめた香山様親娘三人の歓待の中に、国民の我々に対する切ない期待と労わりを見た思いがした。門限を気にし乍ら帰営の道を、そのことだけを考えながら一気に歩いた。
12月15日
香山さん父娘が面会に来てくれる。勘違いしたらしい佐原軍曹のお蔭で、ゆっくり時間が出来た。その下士官《かしかん=判任官待遇の軍隊の階級(伍長から曹長)》室で、用意しておいた朱書した手紙の投函をお願いした。これでもう凡てが終った。香山様に感謝の外ない、めぐり合いであった。
12月16日
卒業式。母の七周忌でもある。晴れて見習士官、やっと手にした……。壮行会、大道寺区隊長も来られた。そして出発。
急に命令が出て、全員奉天の通信教育隊に転属とのこと。何のことやら全然わからぬ。駅に向う途中、香山様宅に挨拶に寄る。手紙は出して頂いた由。感謝。
12月17日
哈爾浜着。約三時間の乗換えで駅前の門脇さんの家を訊ねた。春日はどうしていることだろう。朝食を御馳走して下さる。こんな風に知人宅を訪れるなど考えてもみなかった。夕刻新京着。五時問の乗換時間に、全員大いに羽根を伸ばすことに決まる。六十名の若き見習士官は、思い思いに新京の街を走り廻る。吉野町の街角で、ひょっこり青柳に遭う。第一グリルから渡口の家へ。お母さんとお姉さんが、我が事のように歓待して下さる。此処でもボタ餅を頂く。だが折角の新京には、今僕を待つ人は居ない。唯、歩き廻る。軍人になったのだ。過去は後ろに投げ棄てるのだ。夜行で奉天に向う。満員の列車だが、見習士官だけは一車輌貸切りである。
12月18日
朝奉天に着く。駅頭にずらりと並んだ青年士官は壮観である。
艱難と克己の教育を終え、新たな困苦と献身の中に飛び込まうとする青年の気構えがそれぞれの顔面に輝いていた。
全員トラックで北陸の広大な兵営(曽て此処は東北大学の学舎であった)に送り込まれる。
何ということだ。此処で我々を待っていたのは、思いがけない〝再教育″であった。〝南方への輸送が敵の制圧下で不可能になった為、暫時通信教育を行う……″ということだ。
勇躍!南方第一線の夢は崩れ、放り込まれた零下十数度の室内で一夜を明かす。
此の部隊を五四九部隊と云う。(以上で日記を終る)
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あんみつ姫
あんみつ姫
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投稿数: 485
亡兄のこと(補遺)
兄はルソン島北部のジャングルで戦病死した。その前年、昭和十九年春、満州国牡丹江市にあった陸軍の教育隊で訓練を受けていた私を、兄は突然尋ねて来た。数年振りの予期せぬ再会に呆然としている私の肩を抱くようにして兄は告げた。
京都に居る長姉との連絡で、私の部隊と所在地が分かったとのこと。二年前に召集された兄は、全く偶然にも、私の隊と道を隔てて向い合う砲兵隊にいること、せっかく会えたばかりだが、数日中に部隊が南方に移動すること。
このまま二度とは会えないだろうこと、お前は生来胃腸が弱いから、食物に注意するように……などと話したあと、肩を組んで写真を撮ると、私のポケットに一包みの甘味品を押し込んで、そそくさと営門を出て行った。
それから数日、今までは気にも留めなかった垣根越しの砲兵隊《ほうへいたい=各種大砲を扱う部隊》を、私は懸命にうかがっていた。そこでは、終日砲車やトラックが赤い砂煙りを立てて行き交い、人馬が慌だしく動き回っていたが、兄らしい姿を見出すことは出来なかった。
ある日、演習から帰ると砲兵隊の人影は急にまばらになって、兄がそこに居ないことを知った。
翌二十年戦争は終った。私は済州島から荒廃の祖国に復員した。そして、某日、また突然兄から便りがあった。
「陸軍軍曹 馬 場 重 光」
右昭和二十年八月十日(時刻不明)比島カナツアンに於いて戦病死セラレ侯傑此段通知侯也
昭和二十一年七月十一日 福岡地方世話部長印」
英霊番号三十四と記されてあった。
私たちの父は、私の生まれる前年、兄が三歳の時、世を去った。母も私が十七歳の冬にみまかった。泣き乍ら木札一枚の弟の遺骨を受けとった長姉も次姉も、戦後相次いで死んだ。
祖国と民族のためという使命を与えられ、飢餓的な状況の下で、温和で多感な青年がどのように最期を迎えたか、極限の非条理《きょくげんのひじょうり=この上も無い筋道の通らない》の世界にあって、兄がたどったであろうジャングルを片時も忘れることが出来なかった。
昭和五十五年、戦争尋ね人欄(読売新聞)に投稿したところ、比島方面に従軍帰還された方々から想像以上の眞情溢れる御連絡、御教示を頂き、翌五十六年五月念願の慰霊の比島《ひとう=ヒリピン》行脚が出来た。奥地の山合いの公民館に、住民が拾い集めてくれた多くの苔むして黒ずんだ無名の遺骨と一夜を共にした。よく来てくれた……。夜中にそう話しかけられる思いがした。翌日当時の戦友の手で茶毘《だび=火葬-》に付された遺骨は静かに白くなり、なかでも髑髏《どくろ=頭蓋骨-》の一つが優しく笑うように柔和になったのが忘れられない。
兄は殊更に争いを好まなかった。入営前に私に呉れた手紙に〝入試で競争する際、若し自分が及第しなくとも、誰かが自分に代わる幸福をかち得たら、それでいいと思う……〟と書いていたことがあった。生き得べき生と死のはざまにありながら、兄と同じような温和で誠実な青年たちが、どれほど多く死を選んだことだろう。
55・10・21付日記から
極楽鳥のような、小さな孔雀のような、美しい尾羽根を持った小鳥が僕のまわりを飛び交い、まとわりついては、手にとまりたがる。〝緑の館″のリーマのようだ。そのうち中空からピンクの花びらが滝のような降り注いで傍らにある鳥籠の申に散り敷く……。花びらが舞う中を、小鳥は僕の手を離れて、安心したように鳥籠の中に納まった。僕はすぐ夢さめて、これは重光兄さんが安心したのだと、家内を起こして、そう話した。
56・8・9 朝日歌壇投稿
文もなく碑もなく若きら土となり草薙ぎ倒しスコール走る
近 藤 芳 美 選
暗欝のジャングルとのみ思い来し比島の渓間に青田拡がる
宮 柊 二 選
モルタルの冷たき土間のひと盛りの遺骨の下にタオル敷きたり
投稿のみ
兄は二十八歳、独身であった。
惨烈な戦乱の中、戦没した場所すら判らない一人の青年を、この世で今も生きている者のように思い出してやれるのは、たった一人の肉親である私を置いて他に誰が居よう。
全てがうつろい行く人の世で、私は在る限り兄を憶いつづける。
薄い縁の兄弟ではあったが・・・。
(おわり)
兄はルソン島北部のジャングルで戦病死した。その前年、昭和十九年春、満州国牡丹江市にあった陸軍の教育隊で訓練を受けていた私を、兄は突然尋ねて来た。数年振りの予期せぬ再会に呆然としている私の肩を抱くようにして兄は告げた。
京都に居る長姉との連絡で、私の部隊と所在地が分かったとのこと。二年前に召集された兄は、全く偶然にも、私の隊と道を隔てて向い合う砲兵隊にいること、せっかく会えたばかりだが、数日中に部隊が南方に移動すること。
このまま二度とは会えないだろうこと、お前は生来胃腸が弱いから、食物に注意するように……などと話したあと、肩を組んで写真を撮ると、私のポケットに一包みの甘味品を押し込んで、そそくさと営門を出て行った。
それから数日、今までは気にも留めなかった垣根越しの砲兵隊《ほうへいたい=各種大砲を扱う部隊》を、私は懸命にうかがっていた。そこでは、終日砲車やトラックが赤い砂煙りを立てて行き交い、人馬が慌だしく動き回っていたが、兄らしい姿を見出すことは出来なかった。
ある日、演習から帰ると砲兵隊の人影は急にまばらになって、兄がそこに居ないことを知った。
翌二十年戦争は終った。私は済州島から荒廃の祖国に復員した。そして、某日、また突然兄から便りがあった。
「陸軍軍曹 馬 場 重 光」
右昭和二十年八月十日(時刻不明)比島カナツアンに於いて戦病死セラレ侯傑此段通知侯也
昭和二十一年七月十一日 福岡地方世話部長印」
英霊番号三十四と記されてあった。
私たちの父は、私の生まれる前年、兄が三歳の時、世を去った。母も私が十七歳の冬にみまかった。泣き乍ら木札一枚の弟の遺骨を受けとった長姉も次姉も、戦後相次いで死んだ。
祖国と民族のためという使命を与えられ、飢餓的な状況の下で、温和で多感な青年がどのように最期を迎えたか、極限の非条理《きょくげんのひじょうり=この上も無い筋道の通らない》の世界にあって、兄がたどったであろうジャングルを片時も忘れることが出来なかった。
昭和五十五年、戦争尋ね人欄(読売新聞)に投稿したところ、比島方面に従軍帰還された方々から想像以上の眞情溢れる御連絡、御教示を頂き、翌五十六年五月念願の慰霊の比島《ひとう=ヒリピン》行脚が出来た。奥地の山合いの公民館に、住民が拾い集めてくれた多くの苔むして黒ずんだ無名の遺骨と一夜を共にした。よく来てくれた……。夜中にそう話しかけられる思いがした。翌日当時の戦友の手で茶毘《だび=火葬-》に付された遺骨は静かに白くなり、なかでも髑髏《どくろ=頭蓋骨-》の一つが優しく笑うように柔和になったのが忘れられない。
兄は殊更に争いを好まなかった。入営前に私に呉れた手紙に〝入試で競争する際、若し自分が及第しなくとも、誰かが自分に代わる幸福をかち得たら、それでいいと思う……〟と書いていたことがあった。生き得べき生と死のはざまにありながら、兄と同じような温和で誠実な青年たちが、どれほど多く死を選んだことだろう。
55・10・21付日記から
極楽鳥のような、小さな孔雀のような、美しい尾羽根を持った小鳥が僕のまわりを飛び交い、まとわりついては、手にとまりたがる。〝緑の館″のリーマのようだ。そのうち中空からピンクの花びらが滝のような降り注いで傍らにある鳥籠の申に散り敷く……。花びらが舞う中を、小鳥は僕の手を離れて、安心したように鳥籠の中に納まった。僕はすぐ夢さめて、これは重光兄さんが安心したのだと、家内を起こして、そう話した。
56・8・9 朝日歌壇投稿
文もなく碑もなく若きら土となり草薙ぎ倒しスコール走る
近 藤 芳 美 選
暗欝のジャングルとのみ思い来し比島の渓間に青田拡がる
宮 柊 二 選
モルタルの冷たき土間のひと盛りの遺骨の下にタオル敷きたり
投稿のみ
兄は二十八歳、独身であった。
惨烈な戦乱の中、戦没した場所すら判らない一人の青年を、この世で今も生きている者のように思い出してやれるのは、たった一人の肉親である私を置いて他に誰が居よう。
全てがうつろい行く人の世で、私は在る限り兄を憶いつづける。
薄い縁の兄弟ではあったが・・・。
(おわり)
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あんみつ姫