沖縄に散華した21期:山中正八見習士官をしのんで
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沖縄に散華した21期:山中正八見習士官をしのんで (kousei2, 2008/2/4 22:45)
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投稿日時 2008/2/4 22:45
kousei2
投稿数: 250
これは哈爾浜《ハルピン》学院21期卒業生の同窓会誌「ポームニム21」に寄稿された財前 直房氏の記録を、久野 公氏の許可を得て記載するものです。
わたしも特攻隊員だった
15期 財前 直房
山中正八君の特攻出撃《注》のことを同窓会報30号で知り、このたびポームニム21創刊号で改めて読み、感無量なものがあった。ハルビン学院卒業生の中で、特攻隊員は私のみと思っていたので、私以外に特攻隊員がおり、しかも沖縄戦に出撃戦死されたことを知り、私自身が艦艇に突入したような衝撃を受けた。
私とは期もひらいているので、山中君とは生前の面識はないが、同じ特攻隊員としてかぎりない、愛惜の情を感じるのである。
彼は昭和十九年十二月五日、宇都宮教導飛行師団に入隊とのことであるが、私はその春三月に宇都宮陸軍飛行学校を卒業し、比島《ヒリピン》に渡り、八月にはボルネオのサンダカン《ボルネオ島マレーシヤ領北東の港町》に移り、山中君の教導飛行師団入隊当時はマライ半島アロルスター《マレイ半島北西のタイ国境に近い町》でレイテ出撃の準備中であった。
宇都宮陸軍飛行学校本校は私が卒業後、壬生に移転し、その後に宇都宮教導飛行師団が設置きれた。
現在の全宇飛会とは宇都宮飛行学校、教導飛行師団、材料厰などの卒業生、職員の集まりであり、私が会長を務めており、会の名誉会長には、宇都宮陸軍飛行学校ご出身の朝香さま(元朝香宮孚彦王殿下)をいただいている。この点でも山中君とは、眼に見えない因縁によって結ばれているような気がする。
当時の飛行場は今や工業団地となり、一面エレクトロニクスなどの近代工場が立ち並んでいる。数年前、飛行場跡地が工業団地に変身するに当たり、飛行場に建立きれていた昭和天皇の行幸記念碑《天皇が立ち寄られたのを記念する碑》がブルドーザーで破壊されるということで、少年飛行兵出身者が中心となり、その保存運動をおこして、同じ飛行場跡に建設中の緑地公園内に移して、副砕を建て、飛行学校始め教導飛行師団などの名を刻み、青史に長くその歴史を伝えることとした。
行幸記念碑は慰霊碑ではないが、隔年に碑前に集まり、散華した戦友の霊を慰めることとし、昨年十月にも慰霊を行い、私は山中君の霊に心を込めて黙祷を捧げた。本年は十一月、全宇飛会のメンバーが靖国神社に参拝し、戦友のご冥福を心からお祈りする予定である。
私は昭和二十年六月未、ジャワ島カリジャチで突然特攻隊員を命ぜられた。もちろん形式的には志願である。当時私たちは、特攻隊員を命ぜられたことには、いささかの疑問もなく、ただ国のため、民族のため、そして大君のため身を鴻毛《こうもう=鳥の羽毛》の軽きにおくこそ男子の本懐であると思っていた。そして、その考えは今でも変わるものではないが、特攻そのものについては、いろいろな点で疑問とする点が少なくない。
注
特別攻撃隊といって 搭乗する飛行機に爆弾を付け 目標の艦艇に体当たり攻撃をする隊員
わたしも特攻隊員だった
15期 財前 直房
山中正八君の特攻出撃《注》のことを同窓会報30号で知り、このたびポームニム21創刊号で改めて読み、感無量なものがあった。ハルビン学院卒業生の中で、特攻隊員は私のみと思っていたので、私以外に特攻隊員がおり、しかも沖縄戦に出撃戦死されたことを知り、私自身が艦艇に突入したような衝撃を受けた。
私とは期もひらいているので、山中君とは生前の面識はないが、同じ特攻隊員としてかぎりない、愛惜の情を感じるのである。
彼は昭和十九年十二月五日、宇都宮教導飛行師団に入隊とのことであるが、私はその春三月に宇都宮陸軍飛行学校を卒業し、比島《ヒリピン》に渡り、八月にはボルネオのサンダカン《ボルネオ島マレーシヤ領北東の港町》に移り、山中君の教導飛行師団入隊当時はマライ半島アロルスター《マレイ半島北西のタイ国境に近い町》でレイテ出撃の準備中であった。
宇都宮陸軍飛行学校本校は私が卒業後、壬生に移転し、その後に宇都宮教導飛行師団が設置きれた。
現在の全宇飛会とは宇都宮飛行学校、教導飛行師団、材料厰などの卒業生、職員の集まりであり、私が会長を務めており、会の名誉会長には、宇都宮陸軍飛行学校ご出身の朝香さま(元朝香宮孚彦王殿下)をいただいている。この点でも山中君とは、眼に見えない因縁によって結ばれているような気がする。
当時の飛行場は今や工業団地となり、一面エレクトロニクスなどの近代工場が立ち並んでいる。数年前、飛行場跡地が工業団地に変身するに当たり、飛行場に建立きれていた昭和天皇の行幸記念碑《天皇が立ち寄られたのを記念する碑》がブルドーザーで破壊されるということで、少年飛行兵出身者が中心となり、その保存運動をおこして、同じ飛行場跡に建設中の緑地公園内に移して、副砕を建て、飛行学校始め教導飛行師団などの名を刻み、青史に長くその歴史を伝えることとした。
行幸記念碑は慰霊碑ではないが、隔年に碑前に集まり、散華した戦友の霊を慰めることとし、昨年十月にも慰霊を行い、私は山中君の霊に心を込めて黙祷を捧げた。本年は十一月、全宇飛会のメンバーが靖国神社に参拝し、戦友のご冥福を心からお祈りする予定である。
私は昭和二十年六月未、ジャワ島カリジャチで突然特攻隊員を命ぜられた。もちろん形式的には志願である。当時私たちは、特攻隊員を命ぜられたことには、いささかの疑問もなく、ただ国のため、民族のため、そして大君のため身を鴻毛《こうもう=鳥の羽毛》の軽きにおくこそ男子の本懐であると思っていた。そして、その考えは今でも変わるものではないが、特攻そのものについては、いろいろな点で疑問とする点が少なくない。
注
特別攻撃隊といって 搭乗する飛行機に爆弾を付け 目標の艦艇に体当たり攻撃をする隊員