Re: 沖縄に散華した21期:山中正八見習士官をしのんで
投稿ツリー
-
沖縄に散華した21期:山中正八見習士官をしのんで (kousei2, 2008/2/4 22:45)
-
Re: 沖縄に散華した21期:山中正八見習士官をしのんで (kousei2, 2008/2/4 22:49)
-
Re: 沖縄に散華した21期:山中正八見習士官をしのんで (kousei2, 2008/2/4 22:52)
-
Re: 沖縄に散華した21期:山中正八見習士官をしのんで (kousei2, 2008/2/4 22:53)
- Re: 沖縄に散華した21期:山中正八見習士官をしのんで (kousei2, 2008/2/4 22:56)
-
Re: 沖縄に散華した21期:山中正八見習士官をしのんで (kousei2, 2008/2/4 22:53)
-
Re: 沖縄に散華した21期:山中正八見習士官をしのんで (kousei2, 2008/2/4 22:52)
-
Re: 沖縄に散華した21期:山中正八見習士官をしのんで (kousei2, 2008/2/4 22:49)
kousei2
投稿数: 250
特攻隊は実は殉国の同志集団
私たち一線部隊《戦いの最前線部隊》将兵は、特攻がどのようにして生まれたか、どのようにして発令されたかなど全く知るよしもない。戦後各種出版物、特に防衛研究所戦史部におられた生田惇氏の「陸軍航空特別攻撃隊」により概要を知ったにすぎない。
生田氏によると、陸軍中央部が敵艦船に対する特攻戦法の採用を決意したのは昭和十九年春ごろであり、特攻隊の編成に当たっては激しい論議が行われたもようである。それは正式の軍隊として天皇に上奏裁可《さいか=許可》を仰ぐか否かの問題であった。
甲案は、特攻隊は中央が責任をもって計画的に実行するため、隊長の権限を明確にし、団結と訓練を充実できるように、正規の軍隊編成とすることが必要であるとするものである。
乙案は、特攻要員と器材を第一線兵団に増加配属し、第一線指揮官が臨機《その場その場の状況に応じて》に定めた部隊編成とすべきであるとするものである。それは、わが国の航空不振を第一線将兵の生命の犠牲によって補う戦法を、天皇の名において命令することは適当でないとするものである。結局、乙案が採用された。
比島作戦において陸軍航空特攻が大量に投入されたが、戦果は必ずしも予想通りのものではなかったようで、沖縄作戦で大量の特攻隊が編成されるに当たって、再び甲案の採用が論議きれた。
しかし、時の航空総監阿南惟幾大将は、断固として乙案堅持を主張、自らも特攻隊貞とし敵艦突入を決意された。
乙案採用により特攻隊は、表面的には一般の軍隊に準じ隊名、隊長などが定められているが、厳密にいえば、リーダーを有する殉国《じゅんこく=国の為に死する》の同志集団である。
隊長には人事、教育、賞罰などに関する完全な統率権はなかった。しかし、その運用は必ずしも一律ではなかったようで、山中君の場合、資料では特攻隊名はなく六十二戦隊員として出撃している。六十二戦隊は正式な爆撃隊名で、私の所属した十二戦隊と南方戦線で、行をともにした重爆隊《大型爆撃主体の飛行機》である。
さて、山中君が教導飛行師団へ入隊した十九年十二月頃は、すでに東条内閣は退陣し、小磯内閣となっており、比島作戦も峠を越し、わが軍の不利は眼にみえていた。山中君の日誌によると十一月二十九日、入隊式を前にして父親にあてて遺言めいた手紙を書くと記されており、当時は、すでに特攻出撃を予測し、緊張した心境であったものと察せられる。
一月四日の初飛行から約二カ月間の機上訓練《飛行機に搭乗しての訓練》は山中君にとって、緊張した中にも最も爽快な気分を味わった時期であったと思う。四月十二日、大命《天皇からの命令》を拝すと記す。その時の気持ちは、決して暗いものではなく、眼に涙は浮かんだかもしれないが、一面さわやかな気持ちであったのではなかろうか。
ところが、この日戦隊では考えられないような事故が続発している。戦隊長機が離陸後に失速して墜落焼死とある。一中隊長以下五名の将校を含め十二名が散華《戦死》したのである。
戦隊長、中隊長は原則的に操縦者であり、戦隊長搭乗機であれば、正操《メイイン操縦士》にベテランが座り、一中隊長が副操《サブ操縦士》に座るのが常識である。が、戦隊長が操縦桿を握っておったかもしれない。戦隊長、中隊長クラスの操縦技能は極めて高く、普通では離陸直後に失速させるようなことは考えられない。出陣式後、幹部将校は余程、平常心を失っていたのではなかろうか。
その日さらに、二中隊機が飛行場に突っ込み、○○十名が勇途空しく散るとあり、また一中隊機が海没、三中隊機は車輪不調で胴体着陸と記されている。
いずれも大事故で、人命とともに当時の日本としては誠に貴重な新鋭爆撃機を四機も失ったことになる。戦隊内の空気がうかがわれる。
山中見習士官を始めとする若武者は、おそらく冷静に特攻隊員としての命令を受けたことであろうが、出陣式から出撃までの一カ月は、どのような気持ちですごしたことか、察するに余りある。
南方にいた私たちは燃料の心配もなく毎日、存分の飛行訓練に明け暮れたが、当時本土では燃料の逼迫《ひっぱく=行き詰まる》は著しく、ほとんど訓練飛行などは出来なかったようである。なすこともなく、ただひたすらに死を待つ日々であったと思う。日記には、これといって書くこともなく、うつうつとした心境を口に出すことも出来なかったのではなかろうか。
私たち一線部隊《戦いの最前線部隊》将兵は、特攻がどのようにして生まれたか、どのようにして発令されたかなど全く知るよしもない。戦後各種出版物、特に防衛研究所戦史部におられた生田惇氏の「陸軍航空特別攻撃隊」により概要を知ったにすぎない。
生田氏によると、陸軍中央部が敵艦船に対する特攻戦法の採用を決意したのは昭和十九年春ごろであり、特攻隊の編成に当たっては激しい論議が行われたもようである。それは正式の軍隊として天皇に上奏裁可《さいか=許可》を仰ぐか否かの問題であった。
甲案は、特攻隊は中央が責任をもって計画的に実行するため、隊長の権限を明確にし、団結と訓練を充実できるように、正規の軍隊編成とすることが必要であるとするものである。
乙案は、特攻要員と器材を第一線兵団に増加配属し、第一線指揮官が臨機《その場その場の状況に応じて》に定めた部隊編成とすべきであるとするものである。それは、わが国の航空不振を第一線将兵の生命の犠牲によって補う戦法を、天皇の名において命令することは適当でないとするものである。結局、乙案が採用された。
比島作戦において陸軍航空特攻が大量に投入されたが、戦果は必ずしも予想通りのものではなかったようで、沖縄作戦で大量の特攻隊が編成されるに当たって、再び甲案の採用が論議きれた。
しかし、時の航空総監阿南惟幾大将は、断固として乙案堅持を主張、自らも特攻隊貞とし敵艦突入を決意された。
乙案採用により特攻隊は、表面的には一般の軍隊に準じ隊名、隊長などが定められているが、厳密にいえば、リーダーを有する殉国《じゅんこく=国の為に死する》の同志集団である。
隊長には人事、教育、賞罰などに関する完全な統率権はなかった。しかし、その運用は必ずしも一律ではなかったようで、山中君の場合、資料では特攻隊名はなく六十二戦隊員として出撃している。六十二戦隊は正式な爆撃隊名で、私の所属した十二戦隊と南方戦線で、行をともにした重爆隊《大型爆撃主体の飛行機》である。
さて、山中君が教導飛行師団へ入隊した十九年十二月頃は、すでに東条内閣は退陣し、小磯内閣となっており、比島作戦も峠を越し、わが軍の不利は眼にみえていた。山中君の日誌によると十一月二十九日、入隊式を前にして父親にあてて遺言めいた手紙を書くと記されており、当時は、すでに特攻出撃を予測し、緊張した心境であったものと察せられる。
一月四日の初飛行から約二カ月間の機上訓練《飛行機に搭乗しての訓練》は山中君にとって、緊張した中にも最も爽快な気分を味わった時期であったと思う。四月十二日、大命《天皇からの命令》を拝すと記す。その時の気持ちは、決して暗いものではなく、眼に涙は浮かんだかもしれないが、一面さわやかな気持ちであったのではなかろうか。
ところが、この日戦隊では考えられないような事故が続発している。戦隊長機が離陸後に失速して墜落焼死とある。一中隊長以下五名の将校を含め十二名が散華《戦死》したのである。
戦隊長、中隊長は原則的に操縦者であり、戦隊長搭乗機であれば、正操《メイイン操縦士》にベテランが座り、一中隊長が副操《サブ操縦士》に座るのが常識である。が、戦隊長が操縦桿を握っておったかもしれない。戦隊長、中隊長クラスの操縦技能は極めて高く、普通では離陸直後に失速させるようなことは考えられない。出陣式後、幹部将校は余程、平常心を失っていたのではなかろうか。
その日さらに、二中隊機が飛行場に突っ込み、○○十名が勇途空しく散るとあり、また一中隊機が海没、三中隊機は車輪不調で胴体着陸と記されている。
いずれも大事故で、人命とともに当時の日本としては誠に貴重な新鋭爆撃機を四機も失ったことになる。戦隊内の空気がうかがわれる。
山中見習士官を始めとする若武者は、おそらく冷静に特攻隊員としての命令を受けたことであろうが、出陣式から出撃までの一カ月は、どのような気持ちですごしたことか、察するに余りある。
南方にいた私たちは燃料の心配もなく毎日、存分の飛行訓練に明け暮れたが、当時本土では燃料の逼迫《ひっぱく=行き詰まる》は著しく、ほとんど訓練飛行などは出来なかったようである。なすこともなく、ただひたすらに死を待つ日々であったと思う。日記には、これといって書くこともなく、うつうつとした心境を口に出すことも出来なかったのではなかろうか。