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Re: 沖縄に散華した21期:山中正八見習士官をしのんで

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kousei2

通常 Re: 沖縄に散華した21期:山中正八見習士官をしのんで

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/2/4 22:56
kousei2  長老   投稿数: 250
私の略歴:こうして飛行機乗りを決意した

最後に私の略歴とともに、何故特攻への道を選んだかにふれてみたい。

 昭和十二年に学院を卒業後、大同学院を経て満州国財政部(後に経済部)に奉職した。在職六年弱の間に八カ所の異動があり、経済部の過半の仕事を勉強させられた。

 財政部と産業部の合併により経済部が誕生すると、人的融和は思うにまかせず、人事交流を行うこととなり、旧産業部より局(司)の総括科長を旧財政部へ、旧財政部より私が旧産業部の総括担当事務官として派遣された。私は初めて産業行政にたずさわることとなった。

 当時、既に建設資材などは相当逼迫しており、生活必需品 (民需物資)関係への資材割当はほとんどなく、また担当部署もなかった。やむなく総括担当の私が担当責任者となった。物動の元締めの企画処とは、常に口論が絶えず、若かった私は、何時もカッカしていた。生活必需品など扱う者は、国賊扱いであった。

 業界内でもしばしば醜い争いがあった。印刷インキの業界は、小さい業界ではあったが、なかなか政治的な動きをした。関東軍司令部の地下には、軍の秘密印刷工場があり、日本の大手印刷会社出身で幹部候補生出身の少尉が、専門知識をかわれて実質的な運営に当っていた。業界は二分しており、一方にとって私の存在は邪魔であったようである。少尉に働きかけ、憲兵隊《けんぺいたい=注》の曹長クラスを抱き込み、私をなきものにしようと計画した。私服の憲兵二人が役所に現れて私に、憲兵隊への出頭を求めた。

 相手が憲兵隊のこととて、上司も全く手が出せなかった。私の頭に浮かんだのは関東軍憲兵司令部の平野課長であった。平野課長は、私が山海関《中国東北部の万里の頂上の東端に位置する街》税関に勤務していた時の山海関憲兵隊長であつた関係で幾度か一緒に酒をくみかわしたことがあった。二人の私服憲兵の眼の前で早速電話をして事情を説明したところ、その二人は私の所の者だから直ぐ、私の所へ来るように申し付けてくれとのことであり、二人は私に捨てぜりふをのこして立ち去った。

(余談ながら平野課長は少将に昇進、憲兵司令官として南方へ。戦後、戦犯としてモロタイ島へ送られ、私はモロタイ島戦犯キャンプで再会した。ある時、死刑囚用の独房に入れられた私に、キャンプの人たちは「財前中尉、死なないで下さい」と毎日連呼してくれた。その平野少将は連合軍の拷問《ごうもん=自白を強要する為肉体を責める》で命をおとされた。私は帰国を前にお墓に別れをつげた)。

このような事が重なり、私は再び旧財政部へ呼び戻され、企画処へ出向か、兼務が発令されることとなった。

一方、十八年夏、秋と戦況は厳しさを増し、戦いの帰趨《きすう=行き着くところ》は航空戦力にあることは明らかだった。醜い世間に背を向けて自分白身飛行機乗りになることを決意した。海軍航空予備学生は満二十六歳以下と制限があったが、陸軍特別操縦見習士官にはそれがなく、同年八月で満二十九歳になった私は、新京《中国東北部現在の長春》で受験してパスした。十月一日入校なので直ちに退職願を出して九月には帰国した。帰国後、経済部から「関東軍から退職願を受理しないように連絡があった」との通知が来た。

 入隊の通知は一向に来ないので、航空本部に出掛けたところ、担当の大内大尉は困ったような顔をしていた。二度目に出掛けたら、石川参謀に逢ってくれとのこと。石川参謀から、関東軍から内々の連絡があり、出来れば再考してくれとのことであった。

しばらくして、航空本部から電報があり、出頭すると、上層部とも相談した結果、本人の意思にまかせたらということになったのでと、飛行学校各教育隊の配置図を見せ、自分で選定してくれとのことで、宇都宮陸軍飛行学校本校に入校することとした。

 十八年十一月に宇都宮飛行学校に出向くと、航空本部より連絡を受けていて、校長室で入校式を行うと告げられた。ところが、校長室での単独入校式は、例外的に朝香宮の折りに行ったが、臣下では例がないこと故、当分背広で起居するようにとのこと。

背広での軍隊生活は、おそらく陸軍始まって以来のことであったと思う。入校も、同期生より一ヶ月以上も遅れ、入隊後十一ヶ月足らずで、少尉に任官し、士官学校出身者にしばしば皮肉られることとなった。その後幾たびか、紙一重で命を拾い、二十二年五月に復員した。

 戦後は経済安定本部に奉職、経済審議庁、経済企画庁へと移り、局課長、官房会計課長、経済企画庁審議官などを歴任、四十四年に退官した。

 昨年昭和天皇のご大葬に当たり、新宿御苑のご大葬場で陛下の御柩をお送りする光栄に浴し、昭和の御代の終わりとともに、一つの時代が終わったことを痛感したことだった。(平成二年九月記す)

注 平時では軍隊内部の秩序 規則の維持 戦時では交通整理や捕虜取り扱い業務を行なう兵科

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