Re: 沖縄に散華した21期:山中正八見習士官をしのんで
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沖縄に散華した21期:山中正八見習士官をしのんで (kousei2, 2008/2/4 22:45)
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kousei2
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苦い隊員も「大悟の境地」へ
五月二十五日、この日は山中見習士官の命日となった日である。
山中君はおそらく、遂に来るものが来たという澄んだ気持ちでこの日を迎えたことと思う。当時の若人は、戦後第三者がとかく評論するより遥かに大悟《悟りきった》の境地に達していたといっていい。山中君の修養録、日記を読めば、その心境が私の心の中を吹き抜けるようである。
私は、私の体験から、その日の山中正八見習士官の姿を頭の中に浮かべてみた。
ここで、私自身のことを若干述べてみたい。私は、二十年一月二十三日、ニューギニヤ北西海上のモロタイ島《東インドネシア最北に位置するモルツカ諸島の一つ》(連合軍のレイテ作戦基地)の爆撃を命ぜられ、マライ半島スンゲイバタニ飛行場を離陸した。
その日も重爆二機、時間も同じ午前六時に 霞の中を離陸した。その飛行は特攻ではないが大軍の中へ単騎突入するようなもので、百パーセント不帰の旅立ちであった。
飛行機の脇には、逢ったこともない、佐官クラス《大佐中佐少佐クラス》、将官《大将中将小将クラス》もおられたかと思う。そして海軍の将校も送りに来ていた。
最後の爆撃行となるものと、日本酒と花束が渡された。モロタイ島上空で、散華した先学《先輩》に捧げてくれとの意味である。(途中、ジャワ島マランで給油中、敵制空圏を突破不可能との判断からか、急ぎ離陸中止を命ぜられ、他の作戦に転用され、死を免れたのである)
ふたたび山中君のことに筆を戻すことにする。
五月二十五日、この日山中見習士官の搭乗した重爆は、僚機一機とともに太刀洗飛行場を離陸した。私の推理では、三時か四時ごろには床を離れ、最後の身辺整理をしたように思う。余り熟睡は出来なかったかもしれない。彼が床を離れたころには機付《その機専用の》整備員は最後の点検を行い、試運転を始めていたろう。
五時過ぎ、出撃要員は機に乗り込み、操縦者は自分の手で試運転を行い、航法士《ナビゲーター》である山中見習士官は風防ガラスに囲まれた飛行機の最先端に入り、爆撃照準器の点検をしたことと思う。照準器は風向、風速を計るため最も大切なもので航法士の命でもある。
やがて、かわらけで酒杯をあげ、そのかわらけを滑走路にたたきつけて祖国に、そして戦友に別れを告げて機上の人となる。風防ガラスの天蓋を閉じる。もう地上に降りることはない。山中見習士官にとって、おそらく生涯で最も長い航法であったことと思う。
この日、九州各地から飛び立った特攻機は六十四機、搭乗員七十名であった。その大部分は単座機《1人乗り》であり、重爆は二機で、最新鋭のキの六七、すなわち四二重(飛龍)である。
この二機には「さくら弾」が装着された。さくら弾は特攻兵器として開発されたもので、貫徹能力は強大であったが、直径二メートルと極めて大きく、小型機には使用出来なかった。重爆である飛龍でも胴体の直径は一・八メートルしかなく、胴体をふくらませてやっと装着している。
この日沖縄方面は明け方から天候が次第に悪化、七時以降は雨となり、視界は極端に悪くなった。山中見習士官搭乗機の目横地点は那覇西方洋上となっており、索敵は困難を極めたことと思うが、幸いに敵艦船を発見、八時十七分「ワレ突入ス」の信号とともに艦船目がけて突入したのである。山中君、やすらかに眠ってください。
五月二十五日、この日は山中見習士官の命日となった日である。
山中君はおそらく、遂に来るものが来たという澄んだ気持ちでこの日を迎えたことと思う。当時の若人は、戦後第三者がとかく評論するより遥かに大悟《悟りきった》の境地に達していたといっていい。山中君の修養録、日記を読めば、その心境が私の心の中を吹き抜けるようである。
私は、私の体験から、その日の山中正八見習士官の姿を頭の中に浮かべてみた。
ここで、私自身のことを若干述べてみたい。私は、二十年一月二十三日、ニューギニヤ北西海上のモロタイ島《東インドネシア最北に位置するモルツカ諸島の一つ》(連合軍のレイテ作戦基地)の爆撃を命ぜられ、マライ半島スンゲイバタニ飛行場を離陸した。
その日も重爆二機、時間も同じ午前六時に 霞の中を離陸した。その飛行は特攻ではないが大軍の中へ単騎突入するようなもので、百パーセント不帰の旅立ちであった。
飛行機の脇には、逢ったこともない、佐官クラス《大佐中佐少佐クラス》、将官《大将中将小将クラス》もおられたかと思う。そして海軍の将校も送りに来ていた。
最後の爆撃行となるものと、日本酒と花束が渡された。モロタイ島上空で、散華した先学《先輩》に捧げてくれとの意味である。(途中、ジャワ島マランで給油中、敵制空圏を突破不可能との判断からか、急ぎ離陸中止を命ぜられ、他の作戦に転用され、死を免れたのである)
ふたたび山中君のことに筆を戻すことにする。
五月二十五日、この日山中見習士官の搭乗した重爆は、僚機一機とともに太刀洗飛行場を離陸した。私の推理では、三時か四時ごろには床を離れ、最後の身辺整理をしたように思う。余り熟睡は出来なかったかもしれない。彼が床を離れたころには機付《その機専用の》整備員は最後の点検を行い、試運転を始めていたろう。
五時過ぎ、出撃要員は機に乗り込み、操縦者は自分の手で試運転を行い、航法士《ナビゲーター》である山中見習士官は風防ガラスに囲まれた飛行機の最先端に入り、爆撃照準器の点検をしたことと思う。照準器は風向、風速を計るため最も大切なもので航法士の命でもある。
やがて、かわらけで酒杯をあげ、そのかわらけを滑走路にたたきつけて祖国に、そして戦友に別れを告げて機上の人となる。風防ガラスの天蓋を閉じる。もう地上に降りることはない。山中見習士官にとって、おそらく生涯で最も長い航法であったことと思う。
この日、九州各地から飛び立った特攻機は六十四機、搭乗員七十名であった。その大部分は単座機《1人乗り》であり、重爆は二機で、最新鋭のキの六七、すなわち四二重(飛龍)である。
この二機には「さくら弾」が装着された。さくら弾は特攻兵器として開発されたもので、貫徹能力は強大であったが、直径二メートルと極めて大きく、小型機には使用出来なかった。重爆である飛龍でも胴体の直径は一・八メートルしかなく、胴体をふくらませてやっと装着している。
この日沖縄方面は明け方から天候が次第に悪化、七時以降は雨となり、視界は極端に悪くなった。山中見習士官搭乗機の目横地点は那覇西方洋上となっており、索敵は困難を極めたことと思うが、幸いに敵艦船を発見、八時十七分「ワレ突入ス」の信号とともに艦船目がけて突入したのである。山中君、やすらかに眠ってください。