風化させまい戦争体験 「みにこみ7」より(2)
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風化させまい戦争体験 「みにこみ7」より (編集者, 2008/11/28 18:08)
- 風化させまい戦争体験 「みにこみ7」より(2) (編集者, 2008/12/5 9:20)
- 風化させまい戦争体験 「みにこみ7」より(2)-2 (編集者, 2008/12/24 8:50)
- 風化させまい戦争体験 「みにこみ7」より(3) (編集者, 2008/12/24 8:51)
- 風化させまい戦争体験 「みにこみ7」より(3)-2 (編集者, 2008/12/24 8:58)
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風化させまい戦争体験(2)
一夜にして死者10万の東京大空襲を語る
昭和20年3月10日の東京の下町を襲った米空軍B29爆撃機による無差別焼夷弾《しょういだん》攻撃は、広島の原爆に匹敵する被害をもたらした残虐な空襲でした。
今回は、ニ人の方に当時の体験を語っていただきました。
3月10日は『東京都平和の日』
木下弘子さん
(代沢三丁目在住)
三月十日の東京大空襲に遭《あ》った時、私は女学校一年生の十三歳でした。住んでいたのは、江東区大島(元城東区)です。あの大空襲で最も被害の多かった地域です。
十日の午前一時頃だったでしょうか、空襲警報が鳴り響き、私たち家族四人は、少し離れているが、安全度が高いと父が選んだ防空壕へ避難しました。結果的には、父のこの判断で焼死を免れたのでしょう。二月末には、浅草橋や本所、深川あたりが焼かれているので、もう今夜は危ないと思っていたところ、空襲警報になるや、たちまち焼夷弾の雨でした。その三畳ほどの広さの防空壕も安全とはいえず、入り口の隙間《すきま》から煙と熱風が入ってきて、酸欠になってゆくのがわかりました。
午前五時ごろ、その壕《ごう》を出ると、近くの第五大島小学校が物凄い勢いで焼け落ちるところで、火の粉が真横から吹き付け、また、すぐそばを流れる小名木《おなぎ》川には、猛火と熱風を逃れてきた人たちが入っていて、次々飛び込む人も見ました。中にはすでに焼死したり溺死《できし》したりした人も多かったようですが、逃げるのに夢中でよく覚えていません。
荒川のほうへ通じる広い通りに出ると、黒焦げの遺体がごろごろしており、その焼死体を踏みながら逃げるという凄まじさ。また黒焦げの子どもを抱いたまま、気が狂ったように泣き叫ぶ母親の姿もありました。それからわが家のあったところへ行ってみましたが、何も残っていませんでした。後で分かったのですが、第三大島小の私の同級生で生き残ったのは、私を含めてわずか五名位だったそうです。
それから私たちは、とりあえず市川の知り合いの方の家まで、たどり着きました。高粱《コーリャン》のご飯をいただき、一泊させてもらって、翌日は市川から新宿まで歩いて行き、父方の祖母のいた岡谷へ汽車で向ったものの、避難民で超満員の列車は、窓から乗り降りし、トイレにも行けない状態でした。
岡谷から母や四人の弟妹が疎開していた伊那の母の実家に行き、私は高遠に近い農家の叔母の家に預けられ、伊那の女学校に転入したのですが、それからがまたたいへん。女学校へ歩いて通うのに、叔母がお米で買ってくれた下駄は往復8キロの道ではすぐ割れてしまうので、仕方なく裸足《はだし》で行き、町境に入って下駄を履く。ところが、秋になると信州の寒さは厳しく、足が痛いほど冷たくなります。私は道に落ちている馬糞《ばふん》に足を乗せて温めました。新しい馬糞はとくに温かく心地よかったのを、思い出します。
幸い九死に一生を得た私ですが、二度とこのような恐ろしい悲惨な事に遭う世の中になってほしくないですね。
一夜にして死者10万の東京大空襲を語る
昭和20年3月10日の東京の下町を襲った米空軍B29爆撃機による無差別焼夷弾《しょういだん》攻撃は、広島の原爆に匹敵する被害をもたらした残虐な空襲でした。
今回は、ニ人の方に当時の体験を語っていただきました。
3月10日は『東京都平和の日』
木下弘子さん
(代沢三丁目在住)
三月十日の東京大空襲に遭《あ》った時、私は女学校一年生の十三歳でした。住んでいたのは、江東区大島(元城東区)です。あの大空襲で最も被害の多かった地域です。
十日の午前一時頃だったでしょうか、空襲警報が鳴り響き、私たち家族四人は、少し離れているが、安全度が高いと父が選んだ防空壕へ避難しました。結果的には、父のこの判断で焼死を免れたのでしょう。二月末には、浅草橋や本所、深川あたりが焼かれているので、もう今夜は危ないと思っていたところ、空襲警報になるや、たちまち焼夷弾の雨でした。その三畳ほどの広さの防空壕も安全とはいえず、入り口の隙間《すきま》から煙と熱風が入ってきて、酸欠になってゆくのがわかりました。
午前五時ごろ、その壕《ごう》を出ると、近くの第五大島小学校が物凄い勢いで焼け落ちるところで、火の粉が真横から吹き付け、また、すぐそばを流れる小名木《おなぎ》川には、猛火と熱風を逃れてきた人たちが入っていて、次々飛び込む人も見ました。中にはすでに焼死したり溺死《できし》したりした人も多かったようですが、逃げるのに夢中でよく覚えていません。
荒川のほうへ通じる広い通りに出ると、黒焦げの遺体がごろごろしており、その焼死体を踏みながら逃げるという凄まじさ。また黒焦げの子どもを抱いたまま、気が狂ったように泣き叫ぶ母親の姿もありました。それからわが家のあったところへ行ってみましたが、何も残っていませんでした。後で分かったのですが、第三大島小の私の同級生で生き残ったのは、私を含めてわずか五名位だったそうです。
それから私たちは、とりあえず市川の知り合いの方の家まで、たどり着きました。高粱《コーリャン》のご飯をいただき、一泊させてもらって、翌日は市川から新宿まで歩いて行き、父方の祖母のいた岡谷へ汽車で向ったものの、避難民で超満員の列車は、窓から乗り降りし、トイレにも行けない状態でした。
岡谷から母や四人の弟妹が疎開していた伊那の母の実家に行き、私は高遠に近い農家の叔母の家に預けられ、伊那の女学校に転入したのですが、それからがまたたいへん。女学校へ歩いて通うのに、叔母がお米で買ってくれた下駄は往復8キロの道ではすぐ割れてしまうので、仕方なく裸足《はだし》で行き、町境に入って下駄を履く。ところが、秋になると信州の寒さは厳しく、足が痛いほど冷たくなります。私は道に落ちている馬糞《ばふん》に足を乗せて温めました。新しい馬糞はとくに温かく心地よかったのを、思い出します。
幸い九死に一生を得た私ですが、二度とこのような恐ろしい悲惨な事に遭う世の中になってほしくないですね。
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編集者 (代理投稿)